中村 獅童(なかむら しどう)プロフィール
[氏名] 中村 獅童(なかむら しどう)二代目
[本名] 小川 幹弘(おがわ みきひろ)
[生年月日] 1972年9月14日
[血液型] O型
[身長] 177cm
[出身地] 東京都
[過去の作品] 毛利元就、武蔵 MUSASHI、新選組など
公式サイト
http://www.shidou.jp/
6歳の6月より日舞の稽古を始め、獅童自ら舞台に出たいと祖母に直訴。
父は幼い頃に歌舞伎をやめているため、獅童は歌舞伎役者として後ろ盾がない状態でのスタートとなった。番頭も付き人もおらず、楽屋の支度などは全て母が付き添って行った。
中村 獅童エピソード
中学時代よりロックに傾倒し、バンド活動を続ける。歌舞伎が開店休業状態のまま、日本大学藝術学部演劇学科に入学。在学時にはアマチュアバンドを結成している。
19歳で歌舞伎の道を目指す事を再び決心するが、後ろ盾がないために役がつかず、最後列の一番端に並んでいるだけの役などを演じる下積みの日々を送る。
2005年6月、京都南座 にて『船弁慶』の弁慶役を務める。この公演で、33歳にして初めて一人部屋の楽屋を使うことが許された。
大のスパイダーマン好き。
無名時代から、遠戚(父の従兄=いとこおじ)である五代目 中村勘九郎に世話になり、「兄さん」と慕っている。
会津藩狙撃隊隊長 竹村幸之進(たけむら こうのしん) 後の竹村 俊秀(たけむら としひで) 東 武志(あずま たけし)
竹村助兵衛の長男、通称幸之進。
会津戦争では山川大蔵指揮下の狙撃隊隊長を務める。
戦後は斗南藩に移住し、青森県開墾掛頭取となるが、おなじく旧会津藩士である永岡久茂と兵を挙げようと画策し、長州藩士の前原一誠らの『萩の乱』と共に、『思案橋事件』を起こした。その後、逮捕され、斬罪となった。
享年32。墓は新宿区源慶寺にある。
東 武志(あずま たけし)プロフィール
[氏名] 東 武志(あずま たけし)
[生年月日] 1978年6月3日
[身長] 175cm
[血液型] A型
[出身地] 埼玉県
[所属] 株式会社サンディ
[趣味] 荒行、唄
[特技] アクション、殺陣、スポーツ全般、空手(弐段)
[過去の作品] 篤姫にて久坂玄瑞、 陽炎の辻2にて小栗伝内など
公式サイト
http://www.djdj.co.jp/azuma/pro1.html
会津藩藩士 山川大蔵の義弟 小出鉄之助(こいで てつのすけ) 小出 光照(こいで みつてる) 白石朋也(しろいし ともや)
通称を鉄之助。妻に山川大蔵の妹、操。山川大蔵の義弟となる。
操は後に、明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官となっている。
日新館にて飛び級で進学するほどの秀才で、松平容保(綾野剛)の小姓に抜擢される。
脱藩して海外に出る準備をしている中、鳥羽・伏見の戦いでの会津藩の敗報を聞き、山川大蔵の仲介で帰藩した。
のち、秋月悌次郎(北村有起哉)と共に脱出し、山川健次郎(勝地涼)と小川亮の少年二人を長州藩士の奥平謙輔に預けた。
廃藩置県の後は、弘前県中属、松前福山開拓支庁長となる。
1873年、佐賀県大属となり、翌年に起こった『佐賀の乱』において討死した。
小出鉄之助(こいで てつのすけ)の幼少期は矢部 光祐(やべ こうすけ)が演じた。
[氏名] 矢部 光祐(やべ こうすけ)
[生年月日] 2003年5月13日
[身長] 122cm
[出身地] 埼玉県
[所属] ホリプロ・インプルーブメント・アカデミー
[特技] 短距離、長距離走、サッカー、ピアニカ
[過去の作品] おひさま にて一郎、梅ちゃん先生にて中井則夫など
公式サイト
http://hia.horipro.co.jp/index.html
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武芸百般に通じた八重の薙刀の師 武芸師範 黒河内伝五郎(くろこうち でんごろう) 六平 直政(むさか なおまさ)
黒河内兼博に神夢想無楽流の居合術を学び、その養子となり、のちに指南役となる。穴沢流薙刀術、稲上心妙流柔術、白井流手棒手裏剣術にも長じた。和歌の才もあった。八重の薙刀の師でもあり、照姫の右筆に八重を推薦。
晩年は失明していたため、会津戦争の際は戦う事ができなかったという。
蘭学所教授 古川春英(ふるかわ しゅんえい) 小市 慢太郎(こいち まんたろう)
医師の山内春瓏の家弟となって医学を学ぶ。しかし、漢方医学の限界を感じ、無断で藩を飛び出し大坂の適塾に学ぶ。帰藩を許されると蘭学所の教授となる。
戊辰戦争の際は城内の病院で活躍する。婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれているという。
チブスの治療中に感染し、死去。
墓地は福島県耶麻郡河東町駒坂にある。
高木時尾の弟 中軍護衛隊所属 高木盛之輔(たかぎ もりのすけ)
従四位勲四等。
高木時尾(貫地谷しほり)の弟。父は禁門の変で戦死。
会津戦争の際は少年兵を組織した『中軍護衛隊』に所属し、斥候を務めた。戦後処理では東京に転送される。
西南戦争においては山川浩(大蔵)中佐の隊に所属し、勝利に貢献した。
戦後、司法官となり、地方裁判所検事正を歴任し、従四位勲四等に叙せられ、1919年逝去。
享年66。墓は会津若松市善龍寺にある。
画像は「検事従四位 高木盛之輔所有墓地」と彫られたもの。
会津藩密偵 詩人 大庭恭平(おおば きょうへい) 山中崇(やまなか たかし)
松平容保が京に上るより先に上洛し、密命により浪人となって京都を監視、情報収集を行った。
足利三代木像梟首事件に関与し流罪となったが、これにより浪士取締りをより一層厳しくすることが可能になった一面もある。戊辰戦争が勃発すると、大庭は釈放される。
会津劣勢のため援軍を願い出たが、庄内藩に投獄される。戦後、若松県民政局に勤務しつつ、新政府に許されなかった遺体の埋葬を積極的に行う。
後、札幌の資生館の学長となり、室蘭へ移住してその生涯を閉じた。
享年73。晩年は詩人として生きていたという。
八重に銃の手ほどきを受けた白虎隊二番隊士 伊東悌次郎 (いとう ていじろう) 下地幸多(しもじ こうた)
会津藩白虎隊二番隊士。勤勉かつ美少年であったという。
戦争が迫った折、隣の家の八重にゲベール銃の手ほどきを受けている。
白虎隊二番隊士として会津戦争に出陣。
戸ノ口原で新政府軍に敗れ、負傷した池上新太郎を助け、飯盛山にたどりつく。遅れて到着したその目で見たものはすでに自決した同志の姿だった。彼もまた自刃したという。
享年17。
父にあてた手紙に、『国家に報うべし』という文言がある。
伊東悌次郎 (いとう ていじろう) 下地幸多(しもじ こうた)
会津藩白虎隊二番隊士。勤勉かつ美少年であったという。
戦争が迫った折、隣の家の八重にゲベール銃の手ほどきを受けている。
白虎隊二番隊士として会津戦争に出陣。
戸ノ口原で新政府軍に敗れ、負傷した池上新太郎を助け、飯盛山にたどりつく。遅れて到着したその目で見たものはすでに自決した同志の姿だった。彼もまた自刃したという。
享年17。
父にあてた手紙に、『国家に報うべし』という文言がある。
白虎隊の生き残り、逓信省通信技師、陸軍大尉 飯沼 貞吉(いいぬま さだきち) 峯崎 雄太(みねざき ゆうた)
白虎隊士。正五位勲四等。
西郷頼母の妻、千重子(宮崎美子)は叔母。山川兄弟姉妹の従兄弟にあたる。
山川健次郎(勝地涼)と同年の生まれであるが、年齢を1歳偽って白虎隊士中二番隊に所属。
戸ノ口原に出撃したが、敗走。飯盛山にて一同自刃を決意し、貞吉も咽喉に脇差を突き立てたが死にきれなかった。
その後、貞吉は貞雄と改名。電信技師となり各地に勤務。日清戦争では大本営付となり、陸軍歩兵大尉として出征。
退職後も仙台に住み続け、1931年(昭和6年)永眠。墓は同市内の輪王寺にある。
日清戦争にて、危険だからとピストルを促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったという。