西郷家次女 西郷 瀑布(さいごう たき) 豊田 留妃(とよだ るな)プロフィール
母の手を借りず、自ら咽喉を突いて自刃した。
享年13。
辞世の句は、姉妹で詠み、上の句を詠んだ。
「手をとりてともに行くなばまよはじよ」
[氏名] 豊田 留妃(とよだ るな)
[生年月日] 2002年7月17日
[身長] 138cm
[血液型] O型
[出身地] 広島県
[所属] NEWSエンターテインメント・スクール
[特技] バレエ、エレクトーン、広島弁
[過去の作品] 失恋保険にて千穂の幼少期、検事・鬼島平八郎にて鬼島美夜など
公式サイト
http://news-enter.com/r_toyoda.html
頼母の妹 西郷眉寿(さいごう みす) 中島 亜梨沙(なかじま ありさ)プロフィール
咽喉を突いて自刃し、名誉を守った。
享年26。
辞世の句。
「死にかえり幾度世には生るとも ますら武夫となりなんものを」
[氏名] 中島 亜梨沙(なかじま ありさ)
[生年月日] 1982年12月22日
[身長] 164cm
[血液型] A型
[出身地] 北海道札幌市
[所属] アクラ
[趣味] 読書、舞台鑑賞
[特技] ダンス、殺陣
[資格] TOEIC845
[出身] 宝塚
[過去の作品] 女秘匿捜査官 原麻希にて安西真弓、ラストホープにて植村加奈など
公式サイト
http://arisa-nakajima.a-cura.net/
頼母の妹 西郷由布(さいごう ゆう) 玄里(ヒョンリ)
咽喉を突いて自刃し、名誉を守った。
享年23。
辞世の句。
「武夫の道とききしをたよりにて 思ひ立ちぬる黄泉の旅かな」
[氏名] 玄里(ヒョンリ)
[生年月日] 1986年12月18日
[身長] 168cm
[血液型] B型
[出身地] 東京都
[国籍] 韓国
[所属] ケイダッシュグループのアワーソングスクリエイティブ
[趣味] 絵画制作、ヨガ
[特技] 日本舞踊
[過去の作品] RUN60にてキム・テミ、タブー〜秘密の恋〜など
公式サイト
http://www.oursongs-creative.jp/profile/hyunri/
会津藩家老 神保 内蔵助(じんぼ くらのすけ) 津嘉山 正種(つかやま まさね)
神保修理(斎藤工)の父。会津藩家老。
禁門の変において活躍した。会津戦争においては六日町口を守り官軍と戦ったが敗北。田中土佐とともに自刃した。
享年52。
津嘉山 正種(つかやま まさね)プロフィール
[氏名] 津嘉山 正種(つかやま まさね)
[本名] 同じ
[生年月日] 1944年2月6日
[身長] 176cm
[血液型] B型
[出身地] 沖縄県那覇市
[所属] 劇団青年座
[過去の作品] 北条時宗、功名が辻、梅ちゃん先生において早野新造など
会津藩家老 梶原平馬の兄 内藤介右衛門信節(ないとう すけえもん のぶこと) 志村 東吾(しむら とうご)
会津内藤家九代目。弟に梶原平馬(劇中では池内博之)。
会津内藤家は内藤昌豊の養子の子孫。
京都守護職の辞退が許されなかった折には、容保の一時帰国を了承させるなどの働きもしている。奥羽越列藩同盟の推進者であり、西郷頼母の代わりに白河口の総督ともなった。
会津戦争時は三ノ丸の守備を担当。この間、菩提寺「泰雲寺」にて一族は自刃した。
戦後、斗南藩(青森県の一部)五戸にて藩の存続に尽力。廃藩置県後もそのまま五戸村に残留し、現地の開拓や子弟の教育に生涯をかけた。今でも「内藤田」の地名が残っているという。
1899年、没。享年61。
墓は青森県三戸郡五戸町愛宕後の光明山高雲寺にある。
会津藩公用方 白虎隊創設に貢献 神保修理(じんぼ しゅり) 斎藤 工(さいとう たくみ)
会津藩家老・神保内蔵助の長男。初名は直登。諱は長輝。北原雅長は弟。妻は会津藩士井上丘隅(きゅうぐ)の次女、雪子。墓は港区白金台の興禅寺。
幼い頃から容姿閑雅、学問に優れ「秀才」と謳われる。京都守護職では公用方(外交官)として活躍、坂本龍馬や伊藤博文などとも交流が深い。
不戦恭順論を徳川慶喜に進言、江戸に帰り善後策を練ることを説いたことから、敗戦を招いた張本人として、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられる。しかし、君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。
『帰りこん ときぞ母の まちしころ はかなきたより 聞くへかりけり』
が辞世と伝えられている。
神保修理(じんぼ しゅり) 斎藤 工(さいとう たくみ)
神保内蔵助(津嘉山 正種)の長男。
幼い頃から容姿閑雅、学問に優れ「秀才」と謳われる。京都守護職では公用方(外交官)として活躍、坂本龍馬や伊藤博文などとも交流が深い。
不戦恭順論を徳川慶喜に進言、江戸に帰り善後策を練ることを説いたことから、敗戦を招いた張本人として、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられる。しかし、君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。
墓は港区白金台の興禅寺。
斎藤 工(さいとう たくみ)プロフィール
[氏名] 斎藤 工(さいとう たくみ)
[本名] 斎藤 工
[生年月日] 1981年8月22日
[身長] 184cm
[血液型] A型
[出身地] 東京都
[所属] ブルーベアハウス
[趣味] 旅、カポエラ、合気道、サッカー
[過去の作品]海猿、ゲゲゲの女房、「江〜姫たちの戦国〜」など
公式サイト
http://saitoh-takumi.jp/prof/
中学生の頃、父親に勧められて見た映画『仁義なき戦い』シリーズが「今の自分を作っている最大のルーツ」とのこと。
斎藤 工(さいとう たくみ)エピソード
15歳のときに自らファッション紙の出版社に電話をしてモデル事務所を探し「インディゴ」に所属。モデルから俳優への道を目指す。
高校時代、ノンフィクション作家、沢木耕太郎の『深夜特急』に影響され、海外に1人で出かけた。
高校時代、春休みにパリ、香港などの海外を旅した際に旅費稼ぎのために現地モデル事務所の門をたたいた。
CF、国内のショー、パリ・コレクション等で活躍。当時ビーナチュラル所属。
映画『海猿』(2004年)のオーディションでは「必要以上の水着アピール(水着審査の格好のまま一人台本を読んだ)」で合格した。
神保修理の妻 娘子隊の一人 神保雪子(じんぼ ゆきこ) 芦名 星(あしな せい)
軍事奉行添役、神保修理(斎藤工)の妻、会津藩上士、井上丘隅の娘。夫婦仲は周囲もうらやむほど睦まじいものだったという。
会津戦争の際、娘子隊の中野竹子(黒木メイサ)らと合流。その一員として戦うが、捕らえられ、自刃する。
芦名 星(あしな せい)プロフィール
[氏名] 芦名 星(あしな せい)
[生年月日] 1983年11月22日
[身長] 165cm
[血液型] O型
[出身地] 福島県郡山市
[所属] ホリプロ
[趣味] 筋トレ、ドライブ、音楽鑑賞、英会話、釣り
[特技] 料理、書道、クラリネット
[過去の作品] 開拓者たち、仮面ライダー響鬼など
公式サイト
http://www.horipro.co.jp/talent/PF067/
会津藩大砲奉行 林権助(はやし ごんすけ) 風間 杜夫(かざま もりお)
林安定。通称、権助。会津藩大砲奉行。
西洋砲術の導入に力を尽くし、禁門の変では大砲隊を率いて大いに活躍した人物。鳥羽伏見の戦いで負傷、江戸に向かう船中で没した。
孫の林権助(同名)は会津戦争を生き残り、外交官として男爵に叙せられるほどの実績を残している。
風間 杜夫(かざま もりお)プロフィール
[氏名] 風間 杜夫(かざま もりお)
[本名] 住田知仁(すみた ともひと)
[生年月日] 1949年4月26日
[身長] 171cm
[血液型] O型
[出身地] 東京都世田谷区三軒茶屋
[趣味] 麻雀
[特技] 落語
[過去の作品] ゲゲゲの女房にて村井修平、塚原卜伝にて 平賀丹後守など
会津藩公用方 広沢 富次郎(ひろさわ とみじろう) 岡田 義徳(おかだ よしのり)
広沢 安任(ひろさわ やすとう)。広沢 富次郎(ひろさわ とみじろう)は通称とされる。
横山主悦(国広富之)に見出され、登用される。
京都にいる際は各藩や公家とも積極的に交流し情報収集に努めた。戊辰戦争の折は、江戸で総督府への嘆願を試みたが、捕らえられて投獄される。のちに赦され、青森・斗南の少参事となる。
戦後、幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげたという。
彼の開いた牧場の一部は公園として整備され、青森県三沢市の道の駅の一つとなっている。
薩会同盟の立役者 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう) 北村 有起哉(きたむら ゆきや)
横山主悦(国広富之)に見出され、登用される。
明治維新後は、秋月胤永(かずひさ)と名乗る。
藩校・日新館に学び、昌平坂学問所では舎長をつとめ、西国諸藩を遊歴。
京都守護職では公用方に任命され、諸藩との交渉にあたる。
降伏の際には会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍へ降服を申し出た。猪苗代において謹慎し、1868年には終身禁固刑となるが、1872年に特赦によって赦免される。
同年新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。
小泉八雲は、秋月を称して「まるで神の様な人であった」と述べた。
会津藩公用方 薩会同盟の立役者 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう) 北村 有起哉(きたむら ゆきや)
横山主悦(国広富之)に見出され、登用される。
明治維新後は、秋月胤永(かずひさ)と名乗る。
藩校・日新館に学び、昌平坂学問所では舎長をつとめ、西国諸藩を遊歴。
京都守護職では公用方に任命され、諸藩との交渉にあたる。
降伏の際には会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍へ降服を申し出た。猪苗代において謹慎し、1868年には終身禁固刑となるが、1872年に特赦によって赦免される。
同年新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。
小泉八雲は、秋月を称して「まるで神の様な人であった」と述べた。
北村 有起哉(きたむら ゆきや) プロフィール
[氏名] 北村 有起哉(きたむら ゆきや)
[本名] 同じ
[家族] 北村和夫(父)
[生年月日] 1974年4月29日
[身長] 179cm
[血液型] O型
[出身地] 東京都
[所属] プリッシマ
[趣味] クラシック音楽鑑賞、散文詩を書くこと
[特技] 日舞、歌、殺陣、ジャズダンス、スポーツ全般
[過去の作品]江〜姫たちの戦国〜、義経、SPなど
公式サイト
http://www.yukiyakitamura.com/index.html
鬼の官兵衛 朱雀隊・四番士中隊長 佐川 官兵衛(さがわ かんべえ) 中村 獅童(なかむら しどう)
京都守護職では、市中警備のため結成された「別撰組」を率いる。性格は勇猛果敢、武勇に秀でているが人情にも厚かった。のちに『知恵の山川』たる山川大蔵は「佐川の人望は薩摩における西郷のようだ」と語った。
鳥羽・伏見の戦では、刀は折れ、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執り、退却する時も悠然と傘をさしていたことから、敵味方に「鬼の官兵衛」「鬼官」などと称えられた。
会津戦争では会津最強の朱雀隊・四番士中隊を率いて各地を転戦、降伏しても最後まで戦い続ける。西南戦争では旧藩士を率いて戦い、壮絶な最期を遂げる。
新撰組隊士、斎藤一の仲人の一人を務めている。
鬼の官兵衛 朱雀隊四番士中隊長 佐川 官兵衛(さがわ かんべえ) 中村 獅童(なかむら しどう)
京都守護職では、市中警備のため結成された「別撰組」を率いる。性格は勇猛果敢、武勇に秀でているが人情にも厚かった。のちに『知恵の山川』たる山川大蔵は「佐川の人望は薩摩における西郷のようだ」と語った。
鳥羽・伏見の戦では、刀は折れ、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執り、退却する時も悠然と傘をさしていたことから、敵味方に「鬼の官兵衛」「鬼官」などと称えられた。
会津戦争では会津最強の朱雀隊・四番士中隊を率いて各地を転戦、降伏しても最後まで戦い続ける。西南戦争では旧藩士を率いて戦い、壮絶な最期を遂げる。
新撰組隊士、斎藤一(降谷建志)の仲人の一人を務めている。