The Beatles(ザ・ビートルズ)の徹底解説まとめ

The Beatles(ザ・ビートルズ)とは、1962年に英国でデビューした20世紀を代表する4人組ロック・バンド。その影響力は音楽のみならず、ファッション、言動、思想にまで及び、社会現象を巻き起こした。彼等の音楽を語るうえで特筆すべき点の一つは、彼等自身の音楽的成長がそのまま音楽界全体の、そして聴き手である我々ファンの音楽的成長を促したことだろう。1970年の解散後も彼等の影響力は引き継がれ、21世紀の現在でもそれは変わらない。

1969年10月31日リリースの21stシングル。「Come Together」との両A面シングルであった。また1969年9月26日リリースの12thアルバム「Abbey Road」からのシングル・カットでもあった。
この映像も詳細は不明だが2015年11月6日にリリースされた「1+」の解説によれば、アップル・フィルムが作成したものとのこと。メンバーとその妻(当時の妻もいるが)が写しだされている。

Let It Be

1970年3月6日リリースの22ndシングル。オリジナル・シングルとしては最後。
映像の詳細は不明だが映画「Let It Be」のアウトテイクかと思われる。ポールのアップのみで構成されており、他のメンバーは登場してこない。残念ながら他に適当な映像が見当たらなかった。

Free As A Bird

1995年12月4日リリースの23rdシングル。同年11月20日にリリースされた「Anthology 1」からのシングル・カットであり、実に25年ぶりのオリジナル・シングルとなる。
ザ。ビートルズのこれまでの歴史やこれまでにリリースしてきた楽曲を鳥の目になって「俯瞰して」見つめる、というのがヴィジュアル・コンセプトになっている。「A Day In The Life」の中で交通事故にあった男や、「Mr. Kite」「Helter Skelter」「Strawberry Fields」 などがヴィジュアル化して次々と登場してくる。

Real Love

1996年3月4日リリースの24thシングル。同年3月18日にリリースされた「Anthology 2」からの先行シングル。
このプロモーション・ビデオのディレクターの一人はケヴィン・ゴドリーで、彼は元「ゴドリー&クリーム」、元「10CC」のメンバーである。もう一人のディレクターは、ジェフ・ウォンフォーで、彼は「Anthology」のドキュメンタリー・ヴィデオを監督した人物でもある。そのジェフが撮影したスタジオでレコーディングするザ・ビートルズを撮影し、その映像とザ・ビートルズの記録映像を合体させたのがケヴィンである。

The Beatlesの裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話

メンバーの脱退劇

ザ・ビートルズを真っ先に「脱退」したのはドラマーのリンゴ・スターである。
1968年8月22日、この日リンゴはザ・ビートルズを「脱退」している。
ザ・ビートルズのプロデュースの経験もあるロン・リチャーズ「リンゴはいつもロビーでぼんやり坐っているか、時間つぶしに新聞を読んでいた。他のメンバーが来るのを何時間も待ってたんだ。ある晩彼はとうとう待ちくたびれ、腹を立てて出て行ったよ。ジョージ・マーティンがリンゴとトラブていると聞いた時も、僕はべつに驚かなかった。リンゴが辞めたことは極秘にされたんだ。彼の代わりにポールがドラムを叩いてたね」
かつてのザ・ビートルズのテープ・オペレーターだったリチャード・ラッシュ「多分、リンゴはバンドの中で一番つらい立場にあったんじゃないかな。何時間も続けてプレイしなくちゃならなかったし、きっと僕らと同じように思ってたんでしょう。『昨晩9時間もプレイしたのに、また同じことをやれっていうのか?』とね。彼は他のメンバーを喜ばせようと懸命だったんです」

リンゴの「脱退」は9月3日に彼が「復帰」するまで続いた。その間にザ・ビートルズは「Back In The U.S.S.R.」と「Dear Prudence」をポールのドラムでレコーディングしている。つまりアルバム「The Beatles」のオープニングの2曲はリンゴ抜きのビートルズ作品になっている。

彼の復帰の際には、マル・エヴァンスがリンゴのドラム・キットの回りを花で飾り付けをして彼を出迎えている。またポールは「You are the greatest drummer in the world. Really (君は世界一のドラマーだ。本当だよ)」と書かれた葉書をリンゴに送っている。

リンゴの次にザ・ビートルズを脱退したのはジョージである。
1969年1月10日、トゥイッケナム・フィルム・スタジオで行われていたリハーサルの最中に、ポールに煩わされて非難されるのに我慢の限度を超えたジョージは、いきなりグループを離れている。結局、ジョージはツアーの再開や、テレビ・ショーの実現などの中止を条件にすぐに復帰している。

ジョージが「脱退」した際にジョンは「ジョージの代わりにエリック・クラプトンを入れようぜ」と発言したという。

ピーター・ドケット著「ザ・ビートルズ解散の真実」によると、1969年9月19日、アップルで行われたザ・ビートルズ(ジョージを除く)、アラン・クライン、ジョン・イーストマンで行われた会議の席でジョンは「オレはグループを抜けさせてもらうぜ」と発言している。ただ、この事実が表に出ることはなかった。

1970年4月10日、ポールはイギリス大衆紙「デイリー・ミラー」にザ・ビートルズからの脱退を発表している。ただし、このポールの脱退表明は、イギリスの大衆紙「デイリー・ミラー」がすっぱ抜いたものであり、ポールの本意ではなかった。

ポール死亡説

ポール死亡説とは、いわゆる「都市伝説」の一つであり、ザ・ビートルズのメンバーだったポール・マッカートニーは1966年にはすでに死んでおり、それ以降はそっくりさんが代役を務めている、といった内容であった。

*一部、Wikipediaより引用してます

ポール死亡説の大まかな筋書きは以下のような内容であった。
遡ること3年前(1966年11月9日)、ビートルズのレコーディング中に口論を起こしたポール・マッカートニーは怒りにまかせて帰りの車を走らせた。そして自動車事故を起こし、結果的に命を落としてしまう。世間を悲しませないようビートルズは、代役にポールのそっくりさんコンテストで優勝した「ウィリアム・キャンベル」を立てることにした。

噂が広がるまで

1969年
・9月17日
「ポール・マッカートニーは死んでいる?」と題した記事が、アイオワ州ドレイク大学の学生新聞に掲載される。

・10月11日
ビートルズの広報だったデレク・テイラー「最近ポールが死んだという知らせについて山のような問い合わせを受けている。もちろんその手の質問は今年に限ったことではないけれど、ここ数週間は昼夜を問わず家や事務所でも聞かれるんだ。アメリカのディスクジョッキーとかそんな人たちからも僕に電話がかかってきたりしている」

・10月12日
デトロイトのラジオ局WKNR-FMに電話をかけてきた人間が、DJのラス・ギブにこの噂とその手がかりの話をしている。そしてギブとそのほかの電話主たちは、1時間かけて本番中にこの話題で議論をたたかわせた。

・10月14日
「ミシガン・デイリー」紙がミシガン大学の学生フレッド・レイバーによる風刺的な『アビイ・ロード』のレビューを掲載した。その見出しも「マッカートニー死す。新たな証拠が明るみに」というものだった。

・10月19日
WKNR-FMはこの問題に関する2時間の特別番組「The Beatle Plot」を組み、噂を加速させた。

・10月21日
ニューヨークのラジオ局WABCのディスクジョッキーであるロビー・ヤングは、番組の進行上やむをえず中断するまで1時間かけてこの噂について議論した。

・10月21日
ビートルズの広報担当は国内外のメディアに幅広く取りざたされた噂を否定する声明を発表した。

*****

以下、ポール死亡説の「証拠」として挙げられたものをいくつか紹介する。殆どがこじつけであり、少なくとも、ポールはまだ生きて元気に活動していることを我々は知っている。

アルバム「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」より。

・アルバム・ジャケットで、ポールの頭上に手がかざされているが、これは東洋では宗教的に埋葬された人間に対する神からの祝福を象徴している。
・裏ジャケットではポールだけがこちらに背を向けている。また、裏ジャケットには歌詞が掲載されているが、ちょうどポールの頭上にあたる部分には「without you(あなたはいない)」という文字が掲載されている。
・中ジャケットでポールが左腕に付けているバッジには「O.P.D.」と書かれているが、これは「Officially Pronounced Dead(公式に死亡を宣言する)」の略である。
・収録曲「She's Leaving Home」の歌詞の冒頭「Wednesday morning at five o'clock as the day begins (水曜日の朝5時、1日の始まり)」はポールの死亡時刻である。
・収録曲「Good Morning Good Morning」の歌詞の冒頭「Nothing to do to save his life(彼の命を救うものは何もない)」はポールのことである。
・収録曲「A Day In The Life」の中の交通事故で死んだ男はポールである。

アルバム「Magical Mystery Tour」より。

・収録曲「I Am The Walrus」のエンディングには、シェイクスピアの「リア王」の台詞が挿入されているが、これは「わたしの亡骸を葬ってくれ」という内容である。
・同じく「I Am The Walrus」のエンディングのコーラス「everybody got one」を逆回転させると「ワハハハ、ポールは死んだ」と聞こえる。
・テレビ映画「Magical Mystery Tour」の中でセイウチ(=Walrus)に扮しているのはポールであり、「Walrus」という単語はスカンジナビア文化圏においては死の象徴であり、ギリシャ語では「死体」の意味になる。
*実際にセイウチに扮しているのはポールではなくて、ジョン。
・同じくテレビ映画「Magical Mystery Tour」のラスト・シーンで「Your Mother Should Know」を歌っているが、ポールだけが胸に黒い薔薇をつけている(他のメンバーは赤い薔薇をつけている)。黒い薔薇は死を連想させる。
・収録曲「Strawberry Fields Forever」のラストに「I buried Paul(私はポールを埋葬した)」というセリフが挿入されている。
*実際には「Cranberry Souce(クランベリー・ソース)」と言っている。

アルバム「The Beatles 」より。

・アルバム・ジャケットが真っ白なのはポールの喪に服しているから。
・収録曲「Glass Onion」には「The Walrus Was Paul(セイウチはポールだった)」という歌詞がある。
・収録曲「I'm So Tired」のラストで、つぶやいているセリフを逆回転させると「ポールは死んだ、寂しい、寂しい、寂しい」と聞こえる。
・収録曲「Revolution 9」を逆回転させると「Turn Me On, Dead Man(その気にさせてよ、死んだ人)」と聞こえる箇所がある。

アルバム「Abbey Road」より。
・ジャケットに映るポールは左利きなのに右手にタバコを持っている。
・ジャケットに映るポールだけ、右足を踏み出している(他のメンバーは左足を踏み出している)。
・ジャケットに映るポールだけ裸足である。裸足は死体を意味している。
・ジャケットに映るメンバーは葬儀の列を意味している。つまり牧師であるジョンを先頭に、葬儀屋のリンゴ、死体のポール、墓堀人のジョージ、となっている。
・ジャケットの後ろに映る車(フォルクスワーゲンのビートル)のナンバーが「28IF」となっているが、これは「もしポールが生きていれば28歳」を意味している。
*実はポールはまだこの時27歳であり、28歳にはなっていない。
・裏ジャケットの「BEATLES」の文字の「S」にひび割れが入っている。
・収録曲「Come Together」の歌詞に「One And One And One Is Three(1+1+1は3)」という歌詞があるが、これはポールを除けばメンバー3人である、ということを意味している。
*ポールは1993年にライヴ・アルバム「Paul Is Live(ポールは生きている)」をリリースしているが、このアルバム・ジャケットは「Abbey Road」をパロディにしたものである。そのジャケットでは裸足ではなくきちんと靴を履いており、左足で踏み出しており、利き手の左手で犬のリードを握っており、車のナンバーは「51IS(51歳です)」となっている。

その他
・「Yesterday」と「Hey Jude」の声を機械で分析すると別人である。
・途中から顔が全然違っている。
・身長が急に高くなった。
・目の色が変わった。

Paul Is Live のジャケット。

1966年の3大危機

ザ・ビートルズの広報担当である、トニー・バーロウは、1966年にザ・ビートルズに3大危機が発生したと語っている。その3大危機とは以下である。
1.日本での反ビートルズ運動
2.フィリピンでの反ビートルズ運動
3.アメリカでの反ビートルズ運動

以下、キー・パーソンを軸に簡単にこれら3大危機を紹介していく。

小汀利得氏

小汀利得氏とは、ジャーナリストで時事評論家。「おばま としえ」と読む。TBSテレビの座談会番組「時事放談」のレビュラーとして有名だった。そしてなんといっても筋金入りのビートルズ嫌いで典型的なガンゴじいさん。1966年、ザ・ビートルズの来日が決定した際に、テレビ、新聞などの媒体で痛烈にザ・ビートルズを貶している。1972年に亡くなられています。以下、反ビートルズ代表としていくつか彼の発言を取り上げてみる。

1965年
・11月29日東京12チャンネルの討論番組「異議あり」テーマは「エレキ・モンキー・ろくでなし」
「ガチャガチャと、ただ騒がしく騒音をたてるエレキは、音楽ではなくて、騒楽だ。あんなものは、山の中で熊といっしょにやればいい! あんなものが流行しているから君たちの知能は低下するのだ」

1966年
・5月22日TBSテレビ「時事放談」
「だいたいエレキ・ギターだのモンキー・ダンスだのという騒々しいものは、人類進歩の邪魔だ。大新聞の読売が貴重な外貨とヒマをつかって、ビートルズごときくだらんものを呼ぶとは、何ごとであるか。福田大蔵大臣も、あんな連中に対して外貨の許可を与えるとは、見識がなさすぎる」

・5月29日TBSテレビ「時事放談」
「こじき芸人に武道館などつかわせてたまるか!」

・6月5日TBSテレビ「時事放談」
「夢の島でやればいいんだ」
「こじき芸人だ」
「フランスでは入れないそうじゃないか」

・6月19日TBSテレビ「時事放談」ビートルズ・ファン(9名の少女)との対決

「海賊の国英国で育ったビートルズも、世界のバカどもから外貨を略奪したため、女王から安い勲章をもらったんだ。日本の気違いどももまた騒いで外貨を使おうとしている」
ファンの少女「いい音楽をやってるからお金がかせげるんだわ。勲章だってそのためよ」
同席した細川隆元氏「小汀先生だって勲一等の勲章をもらっているんだよ」
ファンの少女「おじさまは老い先短いからくれたんでしょ」「ビートルズが、こじき野郎だなんて、本心からいってるの。おじさま、毛が薄くなったんで、ひがんでるんじゃない。くやしかったらのばしてみてよ」
[あんなくだらねえものに、気違いどもが騒ぐから、ごうまんになるんだ。ビートルズ・ファンてえのはやはり低級だよ。高級な芸術には、やはり上品な客が集まるもんだ。どれを見ても、脳ミソのできが相当悪いな」
*担当ディレクターの大原麗子「がんこじじいと気違い少女の対立というのはどこの家庭にもあるスタイル。そうした世代の意見の違いを拡大して出せればと思って企画した」

6月22日
東京スポーツ「ビートルズにナメられる日本人」
「思考力も教養もない大バカどもが好きになる騒音、ありゃ音楽じゃないよ。そんなものにいいものがあるはずがないじゃないか」

雑誌「宝石」1966年8月号
*小汀利得氏、青島幸男氏、野坂昭如氏との鼎談。
野坂氏「小汀さんは、ビートルズぎらいだそうですが」
小汀氏「大きらいだ。だいたいビートルズだのエレキだの、モンキーダンスだのとそこいらで、『はあー』なんていって騒いているやつは超特別に軽蔑しているんだよ。だいたい人類進歩のためにならない。人類を堕落させる動きだからね、ああいうのは」
野坂氏「では、人類を堕落させない動きというのは、どんなものですか?」
小汀氏「それは、静かに物を考えたり、本を読んだりすることだね。これくらい楽に、安上がりに、しかも中身がよく、人間を向上せしめる道具というか、そういう推進剤になるものはないとおもってるんだ」

中略

青島氏「何を根拠にビートルズは低級だとおっしゃるの?」
小汀氏「何を根拠にと言ったって、あんなうるさいものはだめだぁね。
野坂氏「しかしベートーベンが現れた時なんかも、やはり当時の保守的な人から見ればうるさかったかもしれないでしょ?」
小汀氏「しかしながら、およそ、ものには限度があってね。ベートーベンなんていうのは静かのもんだ」
野坂氏「いや、ジャジャジャジャーンなんて結構やかましいですよ」
小汀氏「それはたまにはあるよ。でも片方のビートルズなんてのは、まるでガチャガチャの連続で、ガチャガチャそのものなんだから」
青島氏「そういう言い方をなさると、それはむしろあなたの方が低級なんだと思うな」
小汀氏「それは君がどう思ったっていいですよ。しかし、どういうわけでぼくが低級ですか?」
青島氏「それは小汀さんは評論家だから、あれは人間の情操を害するものであるということをおっしゃるのは、それはそれでいいと思う。でもその場合には、若者が納得するように説明するのが親切なんじゃないかな」
小汀氏「ぼくはもう納得できるように言ったと思うんだがね。そりゃぼくは音楽の専門家じゃないから音楽理論なんてことはいわないけども、人生の理論とか、人間がどうあるべきかということは一定の方針を持っていて、それは絶えず世間に流布してるんだ、ぼくは」
青島氏「納得させようともしないで頭ごなしに低級だ、低級だ、というのは教育的にも間違っているでしょう」
小汀氏「それは仕方ないだろう。これだけ言って納得できないほど不勉強なら、納得しないほうに罪があるね」
青島氏「ただ騒音だというだけでは非常に根拠が薄弱だと思いますけどもね」
小汀氏「いや、ただも騒音だよ、あれは。それから反社会的だよ。夜の十二時半ころになってもワアっと集まって、ワアワアやってる。卑しいもんだよ」
青島氏「風俗としてモンキーダンスをとらえた場合と、音楽的にビートルズのもってるものをとらえた場合と、違う面があるでしょ?」
小汀氏「あるだろうが、ぼくはさっき言ったように音楽専門化じゃないからね。音楽的に言われると、ぼくは言いたくないし、言う資格もない」
青島氏「言う資格がなかったら、だまってりゃいいじゃない」
小汀氏「いや、黙っていないさ! その社会的影響というものからすれば、ぼくは言う資格は百パーセントあるんだもの、新聞記者で五十年それでやってきてるんだから」

後略

武道館の使用に関しては、ザ・ビートルズは殺人の脅迫を受けている。
ザ・ビートルズの広報担当、トニー・バーロウ「(前略)日本で、ビートルズがコンサートを開く予定だった武道館を神聖な場所と考える東京の学生組織から脅迫を受けた。いろいろなスポーツ試合をする神聖な場所だから、ロック・コンサートのような軽薄な目的で使用するのはけしからん、とね。武道館でコンサートを開くならビートルズを殺してやると言ってきたんだ。私は、東京ヒルトンのロビーにいた若者たちから、ことの次第を何とか聞き出した。その日本人の若者たちに新聞を読んでもらって、初めて殺人の脅迫のことを知ったんだよ。ビートルズはそんな状況をまったく知らされていなかった。彼らはあちこちに武装した警官がたくさんいるのを目にしただけだ。日本で生命の危機にさらされていたなんて、まったく知らなかったんだ」(後略)」

イメルダ・マルコス

イメルダ・マルコスとは、第10代フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスの夫人。
1983年8月31日、ニノイ・アキノがマニラ国際空港で暗殺された事件を機に、1986年2月22日から25日にかけて発生したエドゥサ革命、いわゆる「ピープルパワー革命」によりフェルディナンド大統領とともにフィリピンを追われ、ハワイに亡命している。
フェルディナンド大統領は1989年9月28日、亡命先のハワイで死去。イメルダ夫人は1991年11月4日、フィリピン政府からの許可を受けて帰国。ところがその翌日に脱税と贈収賄の容疑で逮捕されている。存命中で2018年現在88歳である。

イメルダ夫人とザ・ビートルズのかかわりは以下の通り。

*一部、Wikipediaより引用してます

1966年、コンサートツアーで入国中のビートルズを招いてのイメルダ主催の朝食レセプションがマラカニアン宮殿で催されることとなった。これは日本公演中に既に打診していたが、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインはメンバーに知らせずに断った。フィリピンの現地プロモーターもまた、断られたことをイメルダに伝えなかった。開催当日の7月4日、現地プロモーターは開始寸前まで交渉したが、エプスタインが首を縦に振ることは無く、ビートルズが訪れることは無かった。

翌日の新聞では「ビートルズ、大統領一家を侮辱!」と大々的に報じられ、TVではイメルダの「ビートルズが約束を破ったために会えるのを楽しみにしていた子供たちが可哀想だ。裏切られた。」と憤慨する様子が放映されていた。これにより、フィリピン国内にビートルズに対する反感が瞬く間に拡大した。

帰国の際にビートルズは空港で民衆から殴る・蹴るの暴行を受け、帰りの飛行機にはなかなか離陸許可が下りず、結局コンサートの収入すべてがその場で課税対象とされてようやく許可が下りたという顛末がある。この件に関してジョン・レノンはイギリスに帰国後のインタビューで「あんなイカれた国には2度と行くもんか」と発言した。また、ポール・マッカートニーは、マルコス大統領失脚後に「隠された真相が明らかになった」と自分達の無実を証明できたことに安堵の意を示すとともに、「ジョージ・ハリスンは次にフィリピンへ行く時は、原爆を落としに行く時だと怒りを露わにしていた」と当時を振り返った。当時の日本の新聞では暴行の新聞記事の写真のオプションには同行カメラマンのロバート・ストラッガーがジョンとされ、ジョンがジョージ・ハリスンとされている。

ちなみにこの1966年7月4日は、ザ・ビートルズのライヴ史上最も観客を集めたコンサートであった。会場はリザル・メモリアル・フットボール・スタジアム。昼の公演に3万人、夜の公演に5万人、一日で計8万人を動員している。

ザ・ビートルズの広報担当、トニー・バーロウ「(前略)それから、私たちはフィリピンのマニラに直行した。そして、災厄が起こった。ビートルズが大統領夫人をコケにして官邸への招待をすっぽかしたというニュースが流れ、1966年3大危機のふたつ目に見舞われたんだ。フィリピンのような地域では、マルコスのような人物をコケにしてはならない。そんなことをしたら、一生、後悔する羽目になる。すぐさま反ビートルズ運動のようなものが起こり、一夜にして広がったよ。ここで言っておいたほうがいいと思うが、ブライアン・エプスタインや私、それに、ビートルズに関わっていた人たちは、彼らのために公式行事を避けていたものだった。彼らが、正装が必要になるような形式ばった行事を毛嫌いしていたからだ。それに、あのときは特に、私たちもうまい口実を作ろうとさえしなかった。というのも、正式な招待を受けていなかったからだ。まさか、ビートルズに会うためにフィリピンの貴族たちが200人以上も待っているとは思いもしなかったし、大統領夫妻が出席する公式の昼食会が開かれるなんて知らなかった。私たちのところに、そんな話はまったく届いていなかったんだよ。ちょっと立ち寄ってくれれば、大統領夫人のイメルダ・マルコスが面会してくれるといった類の、非公式訪問の招待しか受けていなかったんだ。そんなに正式な行事だとは思いも寄らなかった(後略)」

トミー・チャールズ

トミー・チャールズとは、アメリカ、アラバマ州バーミンガムのWAQYラジオのディスクジョッキー。
ジョンの「ビートルズはキリストより人気がある」という発言を受けて、最初にザ・ビートルズの曲を自身のラジオ局で放送禁止にした人物。「ビートルズ禁止キャンペーン」を行うなどして、このジョンのキリスト発言を大騒動にまで発展させた張本人と言えるかもしれない。

*一部、Wikipediaより引用してます

1966年
・3月4日
ジョンのインタビューが「ロンドン・イヴニング・スタンダード」紙に掲載される。
ジョン「キリスト教はダメになっていくだろうな。消え去るか、弱小化する。それに関しては議論の余地はないよ。僕は正しいんだし、その正しさはいつか証明されるだろうね。今は、僕たちビートルズの方がキリストよりも有名なんだ。ロックとキリスト教、どちらが先に消え去るかは判らない。キリストは良かったんだけど、弟子たちはのろまで平凡だったからね。僕にとっては、弟子が歪めてしまったせいでダメになったと思えるんだ」
この記事のイギリスでの反応は特に大きくはなく、「いつものジョンの毒舌」程度に受け止められていた。ニューヨーク・タイムズなどの世界中の出版社に配信されたが、その時も特に問題は起こらなかった。

・7月29日
アメリカの雑誌「デイトブック」にこのインタビューの抜粋が掲載される。
この記事を読んだアメリカ、アラバマ州バーミンガムのWAQYラジオのディスクジョッキー、トミー・チャールズはビートルズの曲を放送禁止にすると宣言。「ビートルズ禁止」キャンペーンを開始し、ビートルズのレコードを焼き払うことを呼びかけた。
トミー・チャールズ「反響は甚大だった。我々は、ここバーミングハムで99%の支持を得たし、君も知っているだろうが、アメリカ中のラジオ局が我々の主張に賛同したのだ。10日か2週間のうちに、ビートルズのレコードを放送禁止にしたラジオ局の数は飛躍的に増加したはずだ。素晴らしいことだよ。原因は『デイトブック』誌に掲載された記事だった。モーリーン・クリーヴがロンドンでおこなったインタビューを転載したもので、記事には、キリスト教は衰退しつつあり、ビートルズはイエス・キリストより有名だと述べたジョン・レノンの発言が引用されていた。常軌を逸したくだらない発言だと思ったよ。公共奉仕する義務があると感じていた我々は、ビートルズのレコードを放送禁止にし、リスナーにビートルズ関連商品やビートルマニアをすべてラジオ局へ持ってくるように呼びかけた。8月19日に大きなたき火を計画した。レポーターとも話をした。彼は私と宗教の関わりについて質問し、私は狂信者か何かなのかと尋ねた。私は違うと答えた。教会には定期的に通っているが、今回のこれとそれは関係ないとな。私はただ、若者たちに偶像視されているビートルズのようなグループが出現し、あんな発言をしたということに激しい不快感を抱いたのだ。責任感というものは、成功とともにましていくべきじゃないか」

ザ・ビートルズの曲を放送禁止にしたラジオ局は、ニューヨーク州オグデンズバーグから遠くユタ州ソルトレイクまで広がった。特にバイブル・ベルト地帯での反響が大きく、ビートルズのレコードも燃やされ、南部では大騒動となっていた。
*バイブル・ベルト:アメリカ合衆国の中西部から南東部にかけて複数の州にまたがって広がる地域で、プロテスタント、キリスト教根本主義、南部バプテスト連盟、福音派などが熱心に信仰され地域文化の一部となっている地域。

インタビューをしたモーリーン・クリーブは責任を感じ、ジョンの発言は「最近のイギリスでのキリスト教の衰退の現実を見て憂いたもの」であると擁護した。
モーリーン・クリーブ「ジョンの言葉が私の記事から文脈を無視して引用され、あんなふうに誤って解釈されるなんて、驚きました。私は、彼に軽薄で不敬な気持ちがあったとはこれっぽっちも思いません。彼はビートルズをイエス・キリストと比較したわけではないんです。彼はただ、ビートルズの方が多くの人間に知られているということを客観的に述べたにすぎないのです。しかも、そういう状況をよしと思うのではなく、嘆いていました。アメリカの人々は間違った印象を与えられていたんです。まったく、ばかげていました」

マネージャーのブライアン・エプスタインは、直ちに渡米し記者会見を行った。
ブライアン・エプスタイン「ジョン・レノンが3ヶ月以上も前にロンドンのコラムニストに対して述べたことは、前後の文脈をまったく無視した形で引用された。レノンは宗教に深い関心を抱いており、あのときも、ビートルズの友人でロンドンの『イヴニング・スタンダード』紙の代理人でもあるモーリーン・クリーヴと真剣な討議をしていたんだ。彼が言いたかったのは、ここ50年の間に、イギリスの教会やキリストに対する関心がかなり失われてきたということだ。ビートルズの名声を自慢しようとしたわけじゃない。彼は、若い世代には、ビートルズの方がより直接的な影響力を持っているように見えるということを指摘しようとしたんだ」

・8月11日
シカゴにおいてジョンの謝罪会見が開かれる。
ジョン「イギリスでのキリスト教衰退の事実を指摘しただけ。反宗教的な、不愉快なことを言うつもりなど全くなかった。キリストを人として、自分たちと比べたりもしていない。発言に他意は無かった。口にしてしまったことを申し訳なく思っている。発言が間違って解釈された」

ジョン「僕はただ、たまたま友人でもあったレポーター、モーリーン・クリーヴと話していた。彼女は突っ込んだインタビュー・シリーズのようなものをやっていたんだ。だから、宣伝しようなどと考えていなかったし、自分の発言を説明しようとも思わなかった。僕はビートルズがイエスや神やキリスト教より優れているといったわけじゃない。ビートルズという名前を使ったのは、そのほうが簡単だったからだ。僕はビートルズというものを自分と切り離して、単なる一例として語ることができたから、その名前を使ったんだ。特に、相手が親しい友人だったからね。テレビとか映画とか、とにかく人気のあるものなら何でもよかったんだ。車はイエスよりビッグだ、とかね。僕にとってはビートルズが一番使いやすかったから、その名前を使ったに過ぎない。波紋を呼ぶとは思ってもいなかった。アメリカで論争が起こっていると聴いたときは、本当だとは思えなかった。アデレード辺りでの悪い冗談のようなものだと思った。それが深刻なものだと知ったときは、波紋がどんどん広がっていくことも、僕にはどうにもできないということもわかっていたから、不安で体がこわばった。ことがあまりに大きくなったら、そのときはもう僕には何の関係もなくなってしまうから、返答のしようがなくなる、とね。今まで読んだものや、いろいろ観察してきた結果、キリスト教が衰退しつつあるように見えた、というだけのことなんだ。キリスト教を攻撃したわけじゃないし、それが悪いといったわけでもない。ただ、人々との接点を失い、衰退しつつあるようだと言っただけなんだよ」
ポール「僕たちはみんな、その事実を遺憾に思ってるんだ」
ジョン「キリスト教に代わるものなんてないだろう。僕たちが話しているのはそんなことじゃないんだ。キリスト教は大変結構だとか、僕たちはこれこれをしているとか、あれはしていないとか喋るのはバカげている。僕たちはクリスチャンとして育てられた。敬虔な信徒だとは言わないけどね。キリストはキリストで、彼の偉大さを説く人がいたら、僕は信じるよ。非キリスト教の思想を持っているわけじゃないんだ」
ポール「こんな騒ぎになったからといって、アメリカ人がユーモアに欠けているとは思わないよ。ユーモアのわからないアメリカ人もいる。ユーモアのわからないイギリス人もいる。どこにだって、ユーモアのわからない奴はいるさ。でも、アメリカにはその人口が多いんだ。だから少数派をいじめるのさ」
ジョン「僕たちはまだアメリア・ツアーを楽しみにしているよ。たとえ、こっちではカリフォルニアでしかライヴをやりたがっていないと報道されていてもね。多分、だれかにアメリカではどこが一番好きか尋ねられて、知人がたくさんいるLAに行くのを楽しみにしているとでも答えたせいなんだろうけど」
ジョージ「カリフォルニアにいるときは、よく物を食べるんだ。ホテルの食事とは違うものを食べるんだよ。ホテルの食事に問題があるというわけじゃないよ。僕たちはあそこに家を持っているから。延々と続くホテルの食事から一時逃避するんだ」

中略

レポーター「アメリカのジャーナリストはなぜ、『キリストよりビッグ』発言を正当に扱えなかったのでしょうか?」
ジョン「わからないね。イギリスで記事が出た時は、ごく少数の人が『彼の発言が何だというんだ? 彼は何様なんだ?』と新聞に投稿した。『彼には彼の意見があっていい』と言う人もいた。その後、反響はなくなった。反響はとても小さかった。でも、発言がこっちに届いて子供向けの雑誌に掲載される頃には、もとの意味や文脈が失われてしまい、誰もが突然自分勝手なヴァージョンを作り始めたんだ」
レポーター「ジョン、あなたの発言には多くの司祭が全面的に賛同しているようですし、あなたの発言に強い関心を示し、それを過剰に単純化しているのは、ほとんど、私たちがバイブル・ベルトと呼んでいる地域だけのようです。バイブル・ベルトはキリスト教原理主義で悪名高い地域なんです」
ポール「うん、彼らはジョンがあの発言をしとことによって、彼らを攻撃しようとしたと考えているみたいだけど、彼にそんなつもりはまったくないんだ。あれは何の意図もない率直な発言にすぎないのさ。正しいかもしれないし、間違っているかもしれないが、彼は思ったままを正直に答えたんだ。ジョンがあんなことを言うのは間違っていると考える人がいるなら、その人は発言の自由を認めていないことになるね。ここの人たちはみんなそれを認めていると思ってたのに」

後略

ジョンの謝罪を受けてトミー・チャールズはこう語っている。
トミー・チャールズ「我々はジョンの謝罪とそれを行ったときの態度を受け入れることにした。それぐらいはしてやってもいいだろう。あのような思いつきの発言は、危険なだけでなく若者に強い影響を与えうる。ビートルズは賢い決断をしたと思うね」

後年、ニュー・ヨークのラジオDJ、マレー・カフマンはこう語っている。
マレー・カフマン(マレーザ・Kとしても知られている)「若者の中には、教会に行ってイエス・キリストの教えに耳を傾けることより、ビートルズが音楽やショーを通じてやっていたことに感心を持っている連中が大勢いた。ジョン・レノンが友人のモーリーン・クリーヴに『ああ、ビートルズはイエス・キリストより人気があるんだから、すごいものさ』と言ったとき、彼が言いたかったのは、ビートルズがイエス・キリストに取って代わろうとしているということではなく、キリスト教が多くな問題を抱えているということだったんだ。今のままじゃ、若者は宗教になじむことができない、とね。とても面白いことに、あの発言のあと、キリスト教は教会でコンサートを開いたり、若者を惹きつける新しいアプローチに取り組み始めた。あの発言が、ジョンが事実を付いていることを認めた教会関係者を刺激して鼓舞したんだろう。だから、その問題に対して手を打ち始めたんだ。当時を振り返って考えてみるといい。そんなに昔の話じゃないのに、公民権や習慣や価値観のいくつかは、今の基準に比べると非常に古めかしかったんだ。ジョンの言葉の使い方は不適切だったかもしれないし、マスコミがそれに尾鰭をつけたのは確かだが、あの発言がきっかけとなって、神学者たちが議論をするようになったんだ。あの発言をしたのが神学者だったら、マスコミもあんなに大きく取り上げなかっただろう。ジョン・レノンが言ったからこそ、いい結果も生まれたのさ」

ザ・ビートルズの広報担当、トニー・バーロウ「(前略)災難の年(1966年)、3番目の出来事は、最後のアメリカ・ツアーだ。ちょうど、ビートルズのレコードが燃やされ、ジョン・レノンがアメリカ南部、つまりバイブル・ベルト地帯の狂信者たちから暗殺の脅迫を受けていた時期だった。イエス・キリスト人気の低迷についてジョンが述べた発言が誤解されたせいでね。彼の発言はどういう意味においても自慢話などではなかった。単なる批評だった。それなのに、その発言が南部の州に届く頃には、一部の宗教グループがひどく悪い形に解釈するようになっていて、ジョンはツアー全体を通じて、殺人の脅迫にまとわりつかれた。その地域、南部の州に行ったときのことだが、メンフィスでのコンサート中、爆竹が爆発してね。ステージ脇にいた私たちとステージにいたビートルズの3人は、みんな即座にジョン・レノンの方を見たよ。その時、彼が倒れるのをみても、きっと驚かなかっただろう。もちろん、それには14年ほど早すぎるわけだがね。その前におこなわれた記者会見で、ジョンはメンフィスでのコンサートについて、心ここにあらずといった感じでジョークを飛ばしていた。メンフィスに着いたとkは、一見、何もかもきちんと管理されていて、落ち着いているようだったんだが、そんな見せかけの下に、どことなく険悪な雰囲気が漂っていたんだ。まったく、散々な1日だった。ひどい緊張とプレッシャーにさらされた1日だったよ」

ザ・ビートルズへの賛辞

ザ・ビートルズの活動は、音楽ファンにはもちろん、同じアーティストにも多大な影響を与えてきた。
最後に、そんなザ・ビートルズに影響を受けたアーティスト達の言葉をいくつか(ほんの少しでしかないが)紹介して終わりにしたい。

●フィル・コリンズ
*元ジェネシスのドラマーでヴォーカリスト。彼は子供の頃に子役としてザ・ビートルズの映画「A Hard Day's Night」にエキストラとして出演している。
「『A Hard Day's Night』の中で、リンゴと一緒に川岸を歩く少年がいる。あれは僕だと言われているけれど、それは間違いだ。僕は、最後でビートルズに向かって絶叫している少年たちの一人だったんだ。奇抜な体験だったよ。僕は舞台学校に通っていてね。そこの生徒がみんな、そうだな80人から100人はいたかな、3月31日にロンドンのウエスト・エンドにあるスカラ座に連れていかれて、ビートルズに向かって叫んだんだ。ギャラまでもらったんだよ! 僕たちはそこに座りこんでいたんだが、叫べと指示されるまでもなかった。だって、彼らが現れたんだから。ビートルズがね! あれは1964年で、彼らは誰もが憧れるバンドだった。というわけで、確かに僕はあの映画に出て、その日の終わりに現金をもらったんだ」

●スペンサー・デイヴィス
*イギリスのバンド、スペンサー・デイヴィス・グループのヴォーカリスト兼ギタリスト。スティーヴ・ウィンウッドがいたバンドである。スペンサーは「Magical Mystery Tour」に出演している。
「1967年はスペンサー・デイヴィス・グループにとって信じられないほど忙しい年だった。僕たちのロード・マネージャーのひとりの両親がコーンワルでパブを経営していてね。僕たちは休みが取れると、いつもそこに行って泊まったものだった。その時も、オフになった僕は妻と二人の子供をつれてミニに飛び乗り、そっちへ行って2日ほど休養していたんだ。ニュースを見ていたら、ビートルズがバスに乗って西部に向かっているという話題になった。狭い橋を渡ろうとしたら、バスが通れなくなり、途中でつかえてしまったらしかった。僕は慎重に問い合わせをおこない、彼らがデヴォンにあるアトランティック・ホテルに向かっていることを突き止めた。そして、ホテルに電話をかけて、マル・エヴァンス(ビートルズの個人アシスタント)をつかまえたんだ。僕が『何をしているんだ?』と訊くと、彼は『Magical Mystery Tourをやってるんだ。ポールや他のメンバーが君たち家族にも参加してもらいたがってる』と言った。だから、僕は出かけ、彼らは忙しく撮影して回ったんだ。『Magical Mystery Tour』の写真ページの後ろを見れば、奥の方に立っているジョンとポールのそばに僕が写っているはずだ。妻はジョージの横に、末っ子のリサを膝にのせて坐っている。そんな具合に、僕らはジャケットに写っているのさ。僕はボツになった写真を何枚かもらったんだけど、その中の1枚では、もうひとりの娘のサラがおいたをして、ポールにものすごい目でにらまれているよ」

●ジェイムス・テイラー
*アメリカのシンガー・ソングライター。デビュー・アルバムはアップルからリリースしている。
「『Sgt. Pepper's ~』にはすごい衝撃を受けた。家に持ち帰って『すげえや、これを聴いてみろよ』と言ったことをはっきりと覚えているよ。僕はジャケットをくまなく眺めては、歌詞を読み通し、レコードを繰り返し聴いた。『She's Leaving Home』も好きだったし、『With A Little Help From My Friends』も最高だった。信じられなかったよ! 『Rubber Soul』と『Revolver』に続いて、あんなに素晴らしいアルバムが出るなんて。どれも驚異的なアルバムだったね。のちに、僕はアップルと契約し、あの会社にも言った。でも、ジョンともポールとも、ビートルズのレコードについてじっくり話をすることはできなかった。あの頃は、二人ともとても忙しかったんだ」

●ビル・ワイマン
*ザ・ローリング・ストーンズの元ベーシスト。
「僕たち(ビートルズとストーンス)が敵対し合っているという印象が、マスコミによって造り出された。いつだって、ローリング・ストーンズVSビートルズだった。マスコミはいつも、イギリスの2大バンドだった僕たちの間に敵対関係を打ち立てようとしていた。でも、そんなの大嘘だ。僕たちはとてもいい仲間で、両方とも互いの音楽を好きだったんだ。それに、僕たちの音楽は正反対だった。だから、ふたつのバンドが共存する余地はあったんだ」

●ビリー・ジョエル
*アメリカのシンガー・ソングライター、ピアニスト。
「あの夜、(ザ・ビートルズが出演した)エド・サリヴァン・ショーを見ていなかったら、今日の僕はいないと断言できる。この世に存在してさえいなかったかもしれない。僕の人生が活力に満ちているのも彼らのおかげなんだ。ビートルズが出現するまで、ロックン・ロール・スターになれるなんて思いもよらなかった。ビートルズが出てくるまではソウル・ミュージック一辺倒だったけど、レビッタウン(ニュー・ヨーク)育ちの子供にソウル魂があるなんて気が付かなかった。フィラデルフィアのゲットー出身でなければ資格がないと思っていた。当時は意図的に作り上げられたロック・スターの全盛だった。ファビアン、フランキー・アヴァロンといったカワイ子ちゃん歌手が、金の力でハリウッドの歌手製造工場から送り出されていた。
ピアノを弾き、自分の音楽を作り、コンサート活動をして、そしてビッグになれるなんて本当に思いもよらなかった。そんなことなど到底無理なように思えた。そんな矢先、エド・サリヴァン・ショーで見たのがビートルズだった。
目の前に現れた4人の若者は、サン・フェルナンド・ヴァレイ産とは明らかに違って見えた。ジョンの顔には僕たち町のワルガキが束になってもかないっこない、抜け目のなさが漂っていた。彼らは自前の楽器を操って、自前のアレンジで、自前の曲でテレビに現れた! エド・サリヴァン・ショーに! ロバート・ピーターズや誰やらと一緒に出ていたよ。
おかげで前途が開け、光明を見出して僕は『オレがやりたいのはこれなんだ!』と言った」

●スモーキー・ロビンソン
*アメリカのソウル・シンガー、シンガー・ソングライター。モータウンを代表するアーティストの一人。
「ビートルズとエルヴィス・プレスリーが好きだった理由の一つは、彼らは白人のビッグ・スターだったのに、黒人アーティストを聴いていたこと、つまり黒人の音楽をずっと熱中して訊いていたことを認めた最初の人たちだったということなんだ。当時、世界は白人と黒人が対立していたから、彼らが公言してくれたことはこの上ない朗報だった。特に音楽的には二極対立は今の比ではなかったからね。
なぜ音楽にレッテルを張る必要があるのか、特に今日ではなおさらわからない。でも、その頃はもっとひどかったからね。大多数の黒人は、白人系のラジオ局では演奏することなんかまったくできなかった。だから、エルヴィス・プレスリーとビートルズが黒人音楽を聴き、そして親しんできた黒人を手本にして自分たちのスタイルを作ったことを認めたことは、素晴らしくも、僕を認めてくれたことでもあったわけだ。だから、ビートルズがモータウンが好きで、僕の曲を何曲もレコーディングしたと語ってくれたことをとても誇りに感じていた」

●スティング
*イギリスのロック・バンド「The Police」のベーシストでヴォーカリスト。
「僕がミュージシャンになった理由はビートルズにあるんだ。労働者階級の出だけど学歴があるという点で、彼らの境遇は僕と似ている。彼らが自分たちの曲を自作したということには大きな影響を受けた。これはビートルズの画期的な功績だよ。僕が成功したのも自分で自分の曲を書けたおかげさ」

●アンディ・サマーズ
*イギリスのロック・バンド「The Police」のギタリスト。
「ジョージ・ハリスンはとても上手なギター・プレイヤーだったし、正確なプレイをした。彼のギター・プレイを聴き直してこらん。とにかく聴かせるよ。
彼が自分のギター・プレイを嫌っていたことは知っているよ。彼はギターの名手ってわけじゃない。当時の名人はエリック・クラプトンさ。ジョージは曲の持つフィーリングをよく捕えて、素晴らしく、そして味のあるギターを弾いたね。
いつも『Something』のギター・ソロはすごいと思っていたけど、彼自身は気に入らなかったんだ。彼が自分のギター・ソロを嫌っていたのは知っているよ。『Help!』の終わりで、チェット・アトキンス風にちょっぴりギター・ソロをやってたけど、実によかったね。
楽器に命をかけていたという意味で、彼は正に真のプレイヤーだった。彼はインド音楽を学び、セゴビアにあこがれ、チェット・アトキンスに耳をそばだてた。彼はギターに夢中だった。彼は真摯なプレイヤーだと断言できるよ」

●ブルース・スプリングスティーン
*アメリカのロックン・ローラー。
「僕が最初に学んだ曲は『Twist And Shout』だった。ジョンが『Twist And Shout』を歌わなかったら、僕たちはここにはいなかったよ」

●ピーター・トーク
*ビートルズへの対抗バンドとしてアメリカで組まれたバンド、ザ・モンキーズのベーシスト、オルガニスト。
「ビートルズから受けた衝撃はものすごかった。彼らが出現するまで、僕はフォーク・シンガーだったんだ。当時はエルヴィス・プレスリーが全盛だったけど、彼もたいしたミュージシャンではなかった。彼は売り出しはじめた時にはびくびくしてたけど、ツアーを重ねるうちにすっかり『年老いたエル』に成り下がってしまったんだ。そして商業主義のミュージシャンは誰にも顧みられることはなくなってしまって、残ったのはピート・シーガーとフォーク・ミュージックだけになってしまったんだ。そんなわけで僕たちはヴィレッジ・ストリートにたむろしていた。僕に、スティーヴン・スティルス、ジョン・ホプキンス、ジョン。セバスチャン、リッチー・へブンス、そしてリチャード・プライヤーさえも地下クラブでコメディーをやるような始末だった。そんな時にビートルズが出現したんだ。大きな転機だったよ、アメリカにとってはね。
エルヴィスとは表現方法が違っていたけど、ビートルズにもおどおどしたところがあった。ビートルズは甘いハーモニーを披露して、おまけにギターでブルースをちらりと弾いて見せた。そして、何よりも彼らの独創的な音楽は思索と創造性に富んでいたんだ。それはとてつもなく素晴らしかったよ。だから、誰かに『モンキーズは歌って演奏してコメディーを演じて、まるでビートルズになるつもりなのかな?』と言われたときに自然にビートルズが好きになったよ」

●テイラー・スウィフト
*アメリカの女性ポップス・シンガー。
「私がビートルズとカントリーに夢中になっていることは親にとっては好ましいことだった。ヘビーメタルに夢中になるよりは断然いいし、私のおじさんとおばさんはビートルズが大好きだった。だけど、友達には不評だった。周りの友達は誰もビートルズを知らなかったし、カントリーミュージックをダサいって思ってたから。だけど、特にビートルズは曲を作る事はとても健康的な事だって教えてくれた。ただ話をするだけなら問題になってしまうことも曲にするだけで許されるの」

●ブライアン・フェリー
*イギリスのロック・バンド、ロキシー・ミュージックのヴォーカリスト。
「僕の世代は直接、ビートルズを聴くというよりもおそらくビートルズが聴いてきた音楽を聴いて育った世代なんだ。だけど、ビートルズ、特にレノンとマッカートニー、彼らは僕に明るい道を示してくれたのかもしれないね。僕も彼ら同様、労働者階級だったし、彼らの楽曲はちょっと芸術作品みたいだったよね。特にサージェントペパーズの詩は素晴らしかった。その時までにあんな楽曲を聴いたことはなかったよ」

●ジョージ・ベンソン
*アメリカのジャズ・ギタリスト
「ビートルズが他の多くの白人ミュージシャンと違ったのは黒人から影響を受けた後にそれをもっと素晴らしい形にして僕らに返したことだ。彼らは泥棒じゃなかった。彼らは新しい事をしてミュージシャンの常識を押し広げたんだ。そして、ある意味では僕も影響を受けた一人だった。僕も元々、ジャズミュージシャンだったけど前に進んだんだよ」

●ジャコ・パストリアス
*アメリカのジャズ・ベーシスト。
「ザ ビートルズがターンテーブルで演奏をしている間中、僕はずっとマッカートニーと頭の中で話していたんだ。実際には僕は彼に会ったことがなくて、彼がベース演奏に触れている記事を見た事は無いんだけどね。その時、ずっとマッカートニーは自身の言葉で話をしていたんだよ。とてもメロディックなやり方で、それまでには無いやり方でね。それはビートルズがポピュラーミュージックをひっくり返した事と同様に新しい事だったんだ。僕は学生時代、良くビートルズを聴いていて彼らのファンだよ。ポールマッカートニーのベースラインは魔法だよ。彼はベースでメロディーを弾いていたんだからね。ベースを持っている人はたくさんいるけど本当の意味でベースプレイヤーと呼べるのはほんの一握りだけさ」

●スライ・ストーン
*アメリカのソウル・ファンク・バンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのリーダー。
「ビートルズはおそらく大部分の音楽グループに影響を与えた。つまり、彼らは世界に衝撃を与えたんだ。ほとんどのポピュラー音楽に、とても自然に小さな部分にさえも、ある種の影響を与えたんだよ。なぜならば彼らの音楽はまるでトップのように思えたから。つまり、君にも自然にビートルズの楽曲風っていうものがわかるだろう?」

●カート・コヴァーン
*アメリカのロック・バンド、ニルヴァーナのギタリスト、ヴォーカリスト。
「10代の頃は手当たり次第に何でも聴いていたね。本当に時々だけど小遣いが入ってくるとシングルが買えた。うちのおばさんたちがビートルズのレコードをくれたんで、しばらくはビートルズばっかり聴いてたかな。ビートルズは気に入ってたよ。うちの母親は家の中にイギリスの文化を取り入れることにずっと拘っていたしね。
おばさんがザ・ビートルズのレコードをくれたんだ…だから、小さい頃にザ ビートルズの曲はほとんど聴いた。ツイてる日には、シングルを買ってもらうこともあったよ。
ビートルズで一番好きだったのは、間違いなくジョンレノンで決まりだよ。僕はビートルズの曲のうち、レノン=マッカートニー作品はいつでも流さず聴くし、どの曲のどの部分を二人の内のどちらが書いたのかは詳しくは知らないけれど、ポールマッカートニーの曲を聴いている時にはその曲が僕を包み込んでくれていたのに対して、ジョンレノンの曲は明らかに心乱れていた。僕はそこに共感出来たんだ」

●ディヴィッド・バーン
*アメリカのロック・バンド、トーキング・ヘッズのリーダー。
「レノン=マッカートニーはもうアメリカではジョージ・ガーシュインやコール・ポーターみたいなものなんだ。レノンはマイナーで辛辣でへヴィーなイメージ。マッカートニーはメジャーでスイートに歌ってた。全体の印象としてビートルズはメジャーで辛辣にやってたんだよ。他のバンドにはそんなことは出来なかった。つまり、ビートルズは二人でそれをやっていたんだ」

●ジェフ・ベック
*イギリスのギタリスト。
「ビートルズはおそらく、プロデューサーのジョージ・マーティンがいなければかなり素晴らしい『バーバンド』として歴史に名を残していただけだろうね。もちろんジョン・レノンとポール・マッカートニーは素晴らしいソングライターだけど、それは生の原材料だった。『She Loves You』のイェーイエーのパートでもわかるようにジョージ・マーティンは上手く装飾したんだよ」

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