進ぬ!電波少年のネタバレ解説・考察まとめ

『進ぬ!電波少年』とは日本テレビ系列で1998年から2002年まで放送されたバラエティ番組である。前作『進め!電波少年』につづく、電波少年シリーズ第2弾の番組である。番組MCは前作から松本明子が引き続き起用された。前作MCだった松村邦洋は、番組内容などからMCを外れ、朋友のチューヤンや、女優の室井滋がMCとして起用された。番組コンセプトやスタッフは前作同様で、内容は前作で好評だったヒッチハイクシリーズの第3弾や、体当たり合宿方式の企画が実施された。前作で好評だったアポなし突撃は行われなかった。

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電波少年的スワンの旅 in The World

9ヵ月ぶりに東京に戻ったRマニアの2人は、東京に着いた日にマネージャーと食事をする。食事の席でマネージャーから、明日インドへ海外ロケに行くことを告げられる。ロケの内容は、インドの仙人と綱引きをするというものであった。初めての海外ロケに浮かれインドに旅立ったRマニア。翌日インドのカルカッタの撮影現場へ到着した。現場に到着したスタッフが、撮影場所を間違えたといって姿を消してしまった。すると、1人の子どもが衛星電話を持ってRマニアに近づいてきた。Rマニアが電話に出ると、電話の相手はTプロデューサーだった。偽番組のロケで、Rマニアはインドに連れてこられたのだった。
Tプロデューサーは撮影現場はインドではなく、インドネシアだとRマニアに告げる。足は用意しておいたから、とガンジス川に浮かぶスワンボートを見たRマニアはその場に崩れ落ちてしまった。しかしRマニアはインドとインドネシアの距離感がわからず、参加をOKしてしまう。インドとインドネシアは直線距離で4000kmも離れている。10カ月にも及ぶ長い過酷な旅の始まりだった。
インドを出発したRマニアだったが、バングラディシュとミャンマーの国境地帯はスワンの移動が認められず、仕方なく飛行機とヒッチハイクでミャンマーを通過することになった。
ミャンマーに入ったRマニアだが、ヤンゴンまでの道が寸断され飛行機か船でしか進めない状況に。そんな中ヤンゴンまでの道がつながっている場所まで行く船を発見した。Rマニアは同行ディレクターとともに乗船したが、ここでアクシデントが起こってしまった。同行ディレクターが撮影してはいけないものを撮影したようで、ディレクターともどもRマニアも拘束されてしまう。パスポートを没収され軟禁状態に。その後国外退去処分にされてしまう。
ミャンマーからは国外退去処分を受け、マレーシア、シンガポールでしゅくが体調を崩すなど旅の続行の危機もあったが、何とかゴールのインドネシアに到着する。
ガンジス川ではワニに、海ではサメに追いかけられるハプニングもあった。
インドネシアでは危険な海域をシージプシーに守られながら、Rマニアはゴールのあるジャワ島のジャカルタを目指した。
途中お金が無くなったRマニアは、相撲パフォーマンスやココナッツ農園でのアルバイトなどをしながらお金をかせぎ、ゴールへと向かって進んだ。
そして10月10日、ついにゴールのジャカルタの港に到着した。
無人島脱出、スワンの旅(愛媛~東京)、スワンの旅Ⅱ(東京~仙台)を経て、1年6カ月がたっていた。
企画終了後、Rマニアの2人はスワンの旅で鍛えた脚力を活かし、『雷波少年』の企画「シドニーへの道」で競輪競技でシドニーを目指すことになった。
2人で競輪学校へ短期入学したのち、しゅくがサポート役で中島が競輪選手権に出場するも、ケガで断念することになってしまった。

坂本ちゃんが東大合格を目指す 「電波少年的東大一直線」

OA画面

「電波少年的東大一直線」は、大学にあこがれを抱く、若手芸人が日本の最高学府、東京大学入学をめざす企画である。挑戦したのはアルカリ三世の坂本ちゃん。本名、坂本恭章(さかもとやすあき)。坂本ちゃんが挑戦する前にカズマキの小倉一真が挑戦していたが、2度の脱走を企て、リタイアしていた。
坂本ちゃんは日光江戸村でバイトをしていたところ、いきなり四谷の部屋へ連行される。当時の坂本ちゃんの学力は、引き算もできないほどの学力であった。
そこで、東大出身の家庭教師ケイコ先生、本名唐木恵子(からきけいこ)が勉強のサポートをすることになる。ケイコ先生もスタジオで「電波少年」を観覧中にTプロデューサーに四谷の部屋に連行された。
2人は部屋の外に出られず、毎日実施されたテストで、80点以上取らなければ食事もナシという過酷なルールのもと東大合格をめざし、受験勉強をしていった。
2人は日々勉強に励んでいたが、センター試験での点数が足りず、東大受験を断念することになった。

坂本ちゃんが大学合格を目指す「電波少年的どこでもいいから一直線」

OA画面

東大受験を断念した坂本ちゃんだったが、これまでしてきた受験勉強を無駄にせずにどこの大学でもいいから合格を目指す、という内容に変更し企画は続行された。
結果、坂本ちゃんは15の大学を受験し、そのうち8校に合格する。坂本ちゃんは、合格した大学の中から日本大学文理学部への入学を決める。
坂本ちゃんは高校時代日本大学の付属校に通っていたが、学力が足りず内部進学ができなかった。日本大学へ進学した坂本ちゃんだったが、芸能活動が忙しく7年間在籍したが、中退してしまった。

『進ぬ!電波少年』で華原朋美、松本人志が企画に挑戦

電波少年シリーズでの企画は無名のお笑い芸人などが、挑戦していた。
『進ぬ!電波少年』では人気歌手の華原朋美や、人気お笑い芸人ダウンタウンの松本人志も挑戦することになった。

華原朋美の全米デビューへの道

OA画面

「華原朋美の電波少年的全米デビューへの道」は、歌手を休養していた華原朋美が単身アメリカにわたり、自力でレコードデビューをめざす企画である。
華原は無名の若手芸人とは異なり、事前に企画の大まかな内容を知らされていたので、Tプロデューサーが現れても驚くことはなかった。
華原は全米デビューへ向け、単身アメリカに向け旅立った。アメリカで降り立った場所は小さなレストランが1件あるだけの場所。レストランでトイレを借り、水を飲み、レコード会社のあるロサンゼルスへ向けて第一歩を踏み出す。
日本では有名な歌手である華原だったが、ロサンゼルスにあるレコード会社に飛び込みで訪れるが、話すら聞いてもらえない。そんな中、偶然にもレコードプロデューサーと出会う。アメリカでデビューするなら、英語の歌でなければだめ。雑誌を見てオーディションを受け、エージェントを探してクラブに出演しなければデビューは難しい、とアドバイスされた。華原は家を借り、アルバイトをしながらオーディションを受け続ける。そんな中、1社のエージェントから返事が来る。そこで紹介されたクラブには出演できなかったが、別のクラブで出演することに成功しする。華原は昼間はアルバイト、夜はクラブで歌う日々を続ける。クラブで歌っていた華原を見た人物からニューヨークでオーディションを受けないか、との申し出があった。華原は5カ月暮らしたロサンゼルスを去り、ニューヨークへ向かう。オーディションの相手は大物プロデューサー、アンディー・マーベル。さまざまな課題を克服し、オーディション結果は見事に合格。「Never Say Never」でデビュー。日本をたってから7カ月がたっていた。

電波少年的松本人志のアメリカ人を笑わしに行こう

SASUKEのタイトル画面

「松本人志のアメリカ人を笑わしに行こう」は、日本のお笑いの方がアメリカのコメディーより面白いのではという疑問から、ダウンタウンの松本人志が挑戦した企画である。
この企画はTプロデューサーが路上で松本人志に「アメリカ人を笑わしに行こうか」と声をかけスタートした。
松本は企画をスタートする際に、アメリカ在住の吉本興業の同期の野沢直子(のざわなおこ)を訪ねた。野沢は9年前に渡米し、アメリカで活動をすでに行っていた。松本が野沢にアメリカ人を笑わしているのかと問うと、アメリカ人と日本人では笑いのツボが違うので無理。アメリカ人を笑わせるには、笑いが単純になってしまうと答えた。
その後Tプロデューサーと松本はコメディーショーを観覧し、アメリカ人は面白いものをやれば認めてくれる、との仮説を立てた。
企画を進めるにあたって、最初に行ったのが松本のコント作品集『VISUALBUM』をアメリカ人に見せることだった。作品を見たアメリカ人の反応はいまいちだったが、ヒントをつかむ。アメリカ人には天丼がうける、というものだった。天丼とは、やったことを忘れたころにもう一度繰り返す、というお笑いの手法である。
松本は事前の調査でアメリカ人を笑わすには「日本のお笑いを100点とすると65点ぐらいがちょうどいい」との結論を得た。松本は65点は手を抜くのではなく、全力をかけて65点の笑いをつくらなければアメリカ人を笑わすことはできない、と答えるのであった。松本は事前調査を踏まえ、アメリカ人向けコント「SASUKE(佐助)」を制作する。「SASUKE(佐助)」はアメリカ人向けの笑いに、日本の笑いの要素を取り入れた作品であった。
松本は何度かの中断をはさみながら、試行錯誤の末「SASUKE(佐助)」を完成させる。完成した「SASUKE(佐助)」は、ニューヨークで上映される。観客は、人種・年齢・性別をアメリカの比率に合わせた200人。上映後の評判はおおむね好評であった。

カウントダウンフライング事件

OA画面

カウントダウンフライング事件は、『進ぬ!電波少年』系列の年またぎ特別番組『いけ年こい年世紀越えスペシャル2000〜2001』で起こった。
21世紀を迎えるカウントダウンを2分早めて行うという内容であった。
Tプロデューサーは当初、2分遅らせて行う予定だったが、前日の30日に2分早めることに決定した。
2分早めてカウントダウンすることにより、電波少年の視聴者は千年に一度のカウントダウンを見逃すことになる。
番組終了後、進行役の当時日本テレビアナウンサーの松本志のぶが謝罪を行うが、全国の視聴者から苦情が殺到することになってしまった。
後日、BPOから注意を受け、日本テレビは謝罪することになる。
Tプロデューサーはこの企画を行うにあたって、辞表をポケットに入れ、辞職を覚悟で臨んでいた。

2000年になって初めての企画「電波少年的箱男」

OA画面

「電波少年的箱男」は世界名作文学シリーズの第2弾、安倍公房の「箱男」がモチーフになっている。
『進ぬ!電波少年』が2000年になって初めての企画である。
挑戦するのは川元文太(かわもとぶんた)。お笑いコンビ、ダブルブッキングのボケ担当である。
川元は、電波少年的地球防衛軍のオーディションに呼ばれた。オーディションで川元は「世の中は悪い人といい人。どっちが多いと思うか」とTプロデューサーから聞かれた。川元は「悪い人が多い」と答える。この答えにTプロデューサーは、川元に人間嫌いの印象を強く持った。Tプロデューサーは人を信じられない川元を人との触れ合いのなかで、少しでも信じられるようになれば、と箱男に起用する。
オーディションに合格したことを知らずに映画館にいた川元。場内にインペリアル・マーチが流れ、スクリーンにTプロデューサーが現れる。現場にTプロデューサーが現れ、その場で川元を連れ去る。
6時間後、連れてこられた場所は、本土最南端鹿児島県の佐多岬。あたりに人影はなく、大きさが120cm角の銀色に光る箱が置かれている。箱は畳半畳分のスペースと、簡易のトイレがついているだけ。体を伸ばすこともできず、外部との直接コミュニケーションはできず、メッセージボードでの発信のみ。食べ物や飲み物は引き出し部分を押して、差し入れてもらうしかなかった。
ゴールは、箱を東京までの1500キロを見知らぬ人の善意で押してもらいゴールする、という人の善意に頼った企画であった。Tプロデューサーが「やりますか、やりませんか」と恒例の質問をすると川元は「死なないですよね」と質問を返すと、Tプロデューサーはそんな人はいないと答えた。川元自身も人を信じることができるようになりたいと、企画に参加する事になった。
佐多岬からスタートした川元は、スタートの直後から悪態をついていた。どんなに親切にされても不満や悪態をつき、お礼の言葉は一言もなかった。
しかし、箱が公道に置きっぱなしになることから鹿児島県警から注意を受け、企画の続行が危うくなった。急きょTプロデューサーが現場に飛んで川元の様子を見ることにした。しかし、いろいろな人の善意に触れても変わらない川元を見て、Tプロデューサーは企画の続行を決定する。箱を押す場所を公道から私有地に変更し、了解を得た私有地を箱が1500キロ動いたところでゴールにルールを変更することにした。
川元はいろいろな場所に移動したが、人の善意に触れても無視をしたり悪態をつくなどの態度は変わらなかった。
老夫婦から毛布を借りて親切にしてもらったにもかかわらず、川元は「あしたからも貢がせてやります」と悪態をつく始末。これを見たスタッフはさすがに怒り、箱の場所を神社へと移動した。箱男はすでにテレビでも放送されていたため、箱を見た近隣の人が冷やかし見物や、差し入れをしてくれるようになった。しかし川元の態度は変わらず、不満や悪態ばかりであった。川元の態度を快く思っていなかった視聴者からビタミン剤と称して下剤を飲まされてしまうこともあった。その後、箱は通学路や港町、農家や陶芸家の家、ガソリンスタンドなどを移動していった。
川元は、子どもなどにはひどい悪態はつかなかったが、礼を言うことはなかった。それでも陶芸家の家では陶芸を楽しんだり、ガソリンスタンドではメッセージボードにハイオクなどを表示し、アルバイトもした。ガソリンスタンドではアルバイト代として、5000円をもらったりもしていた。人と触れ合いながら、川元は徐々に心を開いていった。そんなとき、アルバイトで稼いだ5000円で下着を買ってきてもらうよう、近くに来たカップルに頼むことに。しかし、カップルは5000円を受け取ったが、返って来ることはなかった。後日、5000円は手紙とともにスタッフ宛に返却され、川元のもとへ。川元は「返すくらいなら、初めから盗るな」と怒っていた。川元は、このことで開きかけていた心をまた閉じて悪態をつくようになってしまった。
川元の態度に腹を立てた視聴者が、川元が入っている箱を誰もいない不法投棄の場所まで持って行ってしまった。人が通る気配がまったくなかったが、スタッフはそのまま見守ることに。川元は食べ物を持っていなかったが、人が誰も通らないので、水も食べ物も手に入れることができなかった。さすがに危険と判断したスタッフから飲み物と食べ物が差し入れられ、箱をトラックに載せ、別の場所に移動させた。
箱が移動した場所は、陸上競技場のトラック。
夜明けとともに、箱がゆっくりと移動した。箱を押していたのは川元の彼女。川元の彼女は近くに来たら呼んでくださいと、スタッフ宛に手紙を書いていた。
川元は彼女に帰れといったが、彼女は帰らなかった。陸上競技場の電気が消えて、真っ暗になっても川元の彼女は一睡もせずに箱を押し続けた。川元が帰れと言っても彼女は押し続けた。夜が明けて仕事の時間になったので帰るといった彼女に、箱男が始まって一度もなかった感謝の言葉「ありがとう」がメッセージボードに。その瞬間、箱が突然開いた。人を信じられない男が、人を信じた時、箱は開かれ、箱男は突然ゴールとなった。
川元は6カ月間箱に入っていたため、箱が空いたときには自力で立つことができなかった。箱に入る前に1.5だった視力も下がってしまった。
企画が急きょ終わった背景には、BPOからの批判もあったと言われている。

当時無名だった森三中・黒沢かずこ、いとうあさこが参加していた「電波少年的15少女漂流記」

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