進め!電波少年のネタバレ解説・考察まとめ

『進め!電波少年』とは、1992年から1998年まで日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組である。出演者はMCの松村邦洋と松本明子の2人。スタジオではセットを組まず、クロマキー合成を用い、出演者の顔が横に伸びるなどの斬新な手法がとられた。番組内容は無名タレントを起用した体験取材で構成されている。主なものは、日本や海外の政治家や著名人などにアポなしで突撃する、「アポなしロケ」や、海外を貧乏旅行する「ヒッチハイク」などである。斬新な内容から高視聴率もたびたび獲得した、伝説のバラエティ番組である。

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『進め!電波少年』の概要

『進め!電波少年』とは1992年7月5日から1998年1月1日まで日本テレビ系列で放送された番組である。最高視聴率は30.4%を記録した。1990年代の日本テレビを支えた伝説のドキュメント・バラエティ番組である。
『進め!電波少年』は『笑撃的電影箱』の第1部として1992年7月5日から番組がスタートした。『笑撃的電影箱』とは日本テレビ系列局の日曜22:30~23:30のバラエティ枠で、1部が『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』、2部が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』が1991年10月20日から1994年3月27日に放送されていた。ウッチャン・ナンチャンが映画撮影のため『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』を休止することになり、その後番組としてスタートすることになる。
『進め!電波少年』は当初ウッチャン・ナンチャンが戻ってくるまでの3カ月のつなぎ番組であった。
番組企画は当時日本テレビ制作局にいた土屋敏男が上層部より何かやれといわれ、急きょ企画したものである。土屋は後に出演者に企画を「やりますか、やりませんか」とせまり、アイマスク・ヘッドフォンをかけ連れ去り、迫ったT部長、Tプロデューサーその人であった。
土屋の番組企画発想の原点は、若手時代に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で経験したディレクター時代であった。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の総合演出はテリー伊藤。テリー伊藤の演出はまさにドキュメント・バラエティそのものである。
土屋は、どうせ3カ月のつなぎ番組なので「見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」というコンセプトで、どこまでやれば取材拒否をされるか、を構成作家の小山薫堂とともに企画。
番組タイトルは当初、『やったろうじゃん』であったが、構成作家のそーたにが『電波将軍』といったのを土屋が『電波少年』と聞き違え、それに進めをつけて『進め!電波少年』に決定した。
MCは日本テレビ上層部より指定された松村邦洋(まつむらくにひろ)と松本明子(まつもとあきこ)。演出の土屋は2人を知らなかったため、視聴者は2人のツーショットなど見たくもないだろうと考え、セットを組まず2人の顔だけをクロマキー合成で収録。クロマキー合成に映像効果を持たせるため、世界に数台しかなかった「ヒット9000」を使い、2人の顔が横に伸びたり、爆発したりするなどの斬新なものとなった。
『進め!電波少年』の企画はドキュメント・バラエティそのもので、アポなし、突撃、ヒッチハイクといった従来の番組制作では考えられないものばかり。企画の題材も大物政治家やマフィア、暴力団、スラム街などムチャな題材ばかりであった。
その他の出演者も、企画によっては長期拘束をしなければならなかったため、スケジュールの空いている無名タレントが起用された。
番組当初は視聴率が低迷したが、過激な内容で、徐々に視聴率もアップしていった。『進め!電波少年』は当初つなぎの番組であったが、人気が出たため続行が決定。内容がますます過激になっていった。
番組企画は国内にとどまらず、『電波少年INTERNATIONAL』として海外でもアポなし、突撃の企画が次々と行われる。
松村や松本は永田町界隈ではブラックリストに載り、出入り禁止になるまでに。当初は嫌がられたアポなしロケだが、突撃先も徐々に慣れたことで、歓迎されるようになってしまった。危機感を抱いた土屋は
番組内容をアポなしロケから、ヒッチハイクしながら貧乏旅行をするヒッチハイクに変更する。ヒッチハイク企画は人気を博し、猿岩石の「ユーラシア大陸横縦断ヒッチハイク」ドロンズの「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」へと引き継がれていった。
アポなしロケは行われなくなっていき、当然ながら松村邦洋の出番がへっていった。結局松村は『進め!電波少年』を降板することに。
『進め!電波少年』の終了は突然だった。NHK紅白歌合戦の裏番組でドロンズの「南北アメリカ縦断ヒッチハイク」のゴールを生中継していたとき、突然、『進め!電波少年』終了と書かれたボードを見せられ、『進め!電波少年』は終了となった。
電波少年はその後『進ぬ!電波少年』『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』『雷波少年』『雲と波と少年と』と番組名を変え、電波少年シリーズとして2003年まで続くことになる。

『進め!電波少年』の歴史

番組スタート

MCの松村邦洋(まつむらくにひろ)と松本明子(まつもとあきこ)

『進め!電波少年』は『笑撃的電影箱』の第1部として1992年7月5日から番組がスタートした。『笑撃的電影箱』とは日本テレビ系列局の日曜22:30~23:30のバラエティ枠で、1部が『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』、2部が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』が1991年10月20日から1994年3月27日に放送されていた。ウッチャン・ナンチャンが映画撮影のため『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』を休止することになり、その後、ウッチャン・ナンチャンが戻ってくるまでの3カ月間のつなぎ番組としてスタートすることになる。

松村邦洋の最初の企画 エイズ検診

『進め!電波少年』で松村邦洋の最初の企画が「エイズ検診」であった。
放送当時、社会問題になっていたエイズ。派手なイメージのある芸能人に実際にエイズ検診を受けてもらうという内容の企画。一番最初にMCの松村邦洋が検診を受けることになった。検診の結果を紅白の旗を持った医者が、陽性だったら赤を、陰性だったら白を上げるといった内容であった。松村は陰性だったが、エイズというセンシティブな内容のため、企画は放送されなかった。後日、番組イベントで未公開映像として公開された。

松本明子最初の企画 松本明子の1000万円大輸送!

OA画面

『進め!電波少年』で松本明子の最初の企画は「松本明子の1000万円大輸送」であった。
松本明子が、帯封がついたままの現金1000万円を体につけて、原宿の街に設けられたポイントを歩いていく企画。
松本は1000万円をつけたまま、原宿駅から竹下通り、表参道の当時の富士銀行まで持ち歩くというものであった。
私生活でも節約が趣味の松本が、ファーストフード店で買ったジュースを100万円の束から直接払ったりしながら、普段持ちなれない現金を持つとどうなるのか、といった内容であった。

電波少年最初のロケ 渋谷のチーマーを更生させたい!

『進め!電波少年』の最初のロケが「渋谷のチーマーを更生させたい!」であった。
放送当時、渋谷のセンター街にたむろしていたチーマーたちが社会問題になっていた。チーマーに扮した松村邦洋がチーマーたちを立ち直らせようとチーマーたちの元へ向かった。更生したチーマーには更生証明書を松村が手渡す、といった内容である。パート3まで制作された。松村が追い詰められるほどチャーミングになるのを見たスタッフは、内容をより過激なものにしていった。

アポなし突撃の誕生 憧れの227cmの岡山さんに会いたい!

松本明子と岡山 恭崇(おかやまやすたか)

『進め!電波少年』第1回目の企画が「憧れの227cmの岡山さんに会いたい!」であった。住友金属に所属していたバスケットボール選手、227cmの「岡山 恭崇(おかやまやすたか)」に松本明子が日本一のタカイタカイをしてもらう、といった内容であった。
当初、所属していた住友金属を通じて依頼をお願いしたが、断られてしまった。そのため、帰宅途中の岡山にアポなしで突撃したところ、見事に成功する。突撃に成功した松本明子の目に涙が浮かんだ。
これを見たプロデューサーの土屋はアポなし突撃の成功を確信し、次々とアポなし突撃の企画を行っていった。

大物アポなしロケの誕生 森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい!

森英恵(もりはなえ)にスタッフジャンパーを採寸してもらう松本

『進め!電波少年』が軌道に乗りかかったころ、MCの松本明子がプロデューサーの土屋に番組のスタッフジャンパーがほしいと頼んだ。松本の申し出を受けて土屋が「それならば、森英恵(もりはなえ)に頼もう」と回答。これを受け森英恵の広報に依頼を打診したが、多忙を理由に断られていた。
当初、土屋も無理だろうと考えていたが、ダメもとで表参道の森英恵のビルにアポなしで向かったところ、たまたまパリから帰国した森英恵に遭遇した。
松本明子がアポもとっていない森英恵にスタッフジャンパーの制作を打診したところ、森英恵が面白がって引き受けてくれることになった。大物がアポなしで成功した初めてのロケになった。
このことで、大物も意外としゃれが通じるのでは、と考えたスタッフが事前連絡せずに行ってしまえ、ということになりアポなしが誕生した。
後日、プロデューサーの土屋が、森英恵は『進め!電波少年』の大恩人だと語っていた。

ライブ突入シリーズの第1弾 入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい!

松村邦洋(まつむらくにひろ)

松村がパンクバンドの舞台に突入して、自身のギャグ「バウバウ」の入れ墨を入れてもらう企画。パンクバンドのライブに突入した松村はスタッフや観客にボコボコにされ3分程度でロケが終了してしまう。ロケが早く終わることから、ボコボコにされながらも松村はほほえんでいた。
ライブ突入計画はシリーズ化されたが、松村の突撃を警戒して警備が強化され、松村の突撃が難しくなった。

マスコットガール「電波子」登場

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