進ぬ!電波少年のネタバレ解説・考察まとめ

『進ぬ!電波少年』とは日本テレビ系列で1998年から2002年まで放送されたバラエティ番組である。前作『進め!電波少年』につづく、電波少年シリーズ第2弾の番組である。番組MCは前作から松本明子が引き続き起用された。前作MCだった松村邦洋は、番組内容などからMCを外れ、朋友のチューヤンや、女優の室井滋がMCとして起用された。番組コンセプトやスタッフは前作同様で、内容は前作で好評だったヒッチハイクシリーズの第3弾や、体当たり合宿方式の企画が実施された。前作で好評だったアポなし突撃は行われなかった。

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『進ぬ!電波少年』の概要

『進ぬ!電波少年』とは1998年1月11日にスタートし、2002年9月29日まで放送された、最高視聴率も30.4%を記録する、日本テレビ系列を代表するバラエティ番組である。
放送内容は前作の『進め!電波少年』をリニューアルする形で、同様の番組コンセプトとスタッフで制作された。
オープニングは前作のタイトル『進め!電波少年』のめの文字がぬにアニメーションで変わるオープニングに変更された。しかし番組名称が「進ぬ」なので、日本語ではないと、日本テレビが認めなかったので、一般的には番組名は「電波少年」の呼称が使われ『進ぬ!電波少年』は番組内でしか使われなかった。
番組MCは前作の『進め!電波少年』から松本明子が引き続き起用されたが、前作MCの松村邦洋は起用されなかった。
MCは途中から松本明子のほかに朋友のチューヤンが起用され、松本明子が産休で休んだ時期には女優の室井滋もMCとして起用された。
番組内容は前作の『進め!電波少年』で好評だった、ヒッチハイク企画が完結編として第3弾「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」を実施。挑戦者は従来の無名お笑いコンビではなく、日本人の俳優の卵と、香港のDJという、国も仕事も違う2人による挑戦となった。
その他企画では、無名芸人を長期間にわたって拘束する、体当たり合宿方式の企画が行われた。無名芸人のなすび、Rマニア、坂本ちゃん、などを起用し、次々と企画をヒットさせていった。
無名芸人を参加させるときに、前作以上にTプロデューサー(T部長)が頻繁に登場するようになった。
体当たり合宿方式の企画では、歌手の華原朋美(かはらともみ)やダウンタウンの松本人志などの有名どころも参加した。企画参加時には無名だった、いとうあさこや、黒沢かずこなども挑戦していた。
しかし、川元元太(かわもとげんた)が挑戦した「電波少年的箱男」がBPOから指摘を受けるなど、企画の過激化や、マンネリ化から、人気も徐々に下降していった。電波少年シリーズは2002年9月29日、ついに最終回を迎えることに。最終回のエンディングではオープニングCGの建物が壊れ、青空から夕焼けになり最後は暗闇になってしまった。

『進ぬ!電波少年』の歴史

番組スタート

OA画面

『進ぬ!電波少年』は前作の『進め!電波少年』の後を継ぐ形で、1998年1月11日に番組がスタートした。番組MCは前作のMCだった松村邦洋は降板、もう一人の前作MCだった松本明子がそのままMCを単独で行う形で番組がスタートした。
番組スタートと同時に、なすびの「電波少年的懸賞生活」がスタートした。

リニューアル後の初めての企画 なすびの「電波少年的懸賞生活」スタート

OA画面

「電波少年的懸賞生活」は『進ぬ!電波少年』の第1弾の企画である。ヒッチハイクから部屋物といわれる企画の第一弾でもあった。
「電波少年的懸賞生活」は、人は懸賞だけで生きていけるのかをテーマに実施された。ゴールは懸賞の当選金額が100万円になるまで。挑戦者はオーディションに集まった無名の若手芸人20人のなかから選ばれた。「電波少年的懸賞生活」のオーディションは懸賞に当たる運だけが必要と説明され、20人全員でくじ引きを行った。当たりを引いたのはなすび(本名:浜津智明(はまつともあき))。当時まだ、大学の4年生であった。
オーディション合格直後なすびは、Tプロデューサーによりアパートの一室に連れていかれる。なすびが部屋に到着すると、Tプロデューサーから「脱いで」と服を脱ぐよう指示される。すべてのものを懸賞で手に入れるため、身につけているものはすべて没収されてしまう。なすびに支給されたものは大量のはがきと筆記用具、乾パンのみであった。使えるのは電気と水だけ。トイレットペーパーもなく、用を足した後はシャワーで流すしかなかった。歯ブラシもなかったので、懸賞で歯ブラシが当たるまで歯も磨けなかった。
なすびはオーディションからそのまま、隔離されてしまったため、両親にも居場所を伝えられなかった。スタッフはなすびの両親に「いま、事情があって息子さんを預かっています。しかし、事情はお話しできません」。と伝えた。
なすびは1日に300通ほどのはがきを書いていた。最初の当選はファイバーゼリーだった。なすびは懸賞でさまざまなものを手に入れる。当選した時にはうれしさのあまり、当選の舞を踊ってしまう。当選の舞は意識したものではなく、無意識で喜びを表現したものであった。お米が底をついたときには、ドッグフードと水だけというときも。
「電波少年的懸賞生活」は孤独との闘いでもあった。収録したビデオテープを交換するため、ADがなすびの部屋を定期的に訪れたが、会話はなかった。Tプロデューサーからの指示で、なすびを追い込んだ方が面白くなるから、会話はするなとの指示が出ていた。なすびはスタッフから「テレビでは放送しない」などと伝えられていたため、自分が有名になっていることを知らなかった。
24時間のインターネット生中継も始まり、なすびはますます有名になっていったが、なすびは部屋からの脱出も考えるようになった。しかし、自分が全裸で助けを求めると警察官の親に迷惑がかかると思い、脱出をすることはなかった。
「電波少年的懸賞生活」最後の当選品はコメ2キロだった。なすびはゴールしたことに気づかず、夜になって部屋にやって来たTプロデューサーからゴール達成を聞かされる。懸賞生活成功ゴールおめでとう記念のプレゼントは、以前からなすびが食べたかった豚骨ラーメン。
なすびが部屋に連れてこられてから、ゴールするまで335日(11カ月と1日)、賞金総額100万164円だった。

なすびの「電波少年的懸賞生活IN KOREA」がスタート

OA画面

Tプロデューサーは懸賞生活成功ゴールおめでとう記念のプレゼント第2弾と称して、なすびを韓国に連れ出す。懸賞生活成功ゴールおめでとう記念のプレゼント第2弾は本場韓国の焼き肉であった。なすびは骨付きカルビや、プルコギを堪能した。懸賞生活成功ゴールおめでとう記念の第3弾は遊園地。
ジェットコースターに乗ったり、アイスクリームを食べたり、遊園地を満喫する。遊園地を満喫したなすびにTプロデューサーは懸賞生活成功ゴールおめでとう記念のおまけと称して、なすびは市場に連れていかれショッピングを楽しむ。市場でつぼにはいったキムチを買ったり、屋台料理を楽しんだりもした。韓国を楽しんだなすびに、Tプロデューサーは宿泊場所に行こうとなすびをつれ出し、懸賞生活部屋へつれていく。部屋についたなすびに、Tプロデューサーは「脱いで」と一言。なすびの「電波少年的懸賞生活IN KOREA」がスタートする。人は韓国の懸賞だけで生きていけるかをテーマに実施。最初はチャレンジを逡巡していたなすびだったが、ゴールが日本への飛行機代片道分とわかりチャレンジすることに。
最初に届いたのはカタログであった。なすびは出したはがきがきちんとついていることがわかり当選の舞をおこなった。
当選品の第1号はキムチ。ゴール金額は開始2カ月ほどで達成したが、飛行機代をエコノミーから、ビジネスへ、そしてパリ経由となすびが気づかないことをいいことに、スタッフが勝手にスケールアップさせていった。しかしなすびがゴールしているのでは、と気づく。目標金額を達成したなすびはヘッドホン・アイマスクをつけられ、日本へと帰国する。なすびはスタジオ内に設けられた懸賞生活部屋に模した箱に入れられ、懸賞生活時と同様に全裸になる。部屋に入ったなすびが全裸になったとき、周囲の壁が壊れ、観客の「なすびゴールおめでとう」の声でゴールを告げられる。1年と3カ月にわたる懸賞生活が幕を閉じた。
なすびはこの企画が放送されていたことも、自分が有名になっていたことも知らなかった。
同じ企画があったら挑戦するかと問われたなすびは、二度とやらないと答えた。

ヒッチハイク三部作完結編「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」がスタート

朋友(パンヤオ)
左が伊藤高史(いとうたかし)、右がチューヤン

「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」は電波少年シリーズで行われたヒッチハイクの完結編である。「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」の挑戦者は、前回の2回と違い、まったく知らない2人によるチャレンジであった。
1人目は役者の卵、伊藤高史(いとうたかし)21歳と、もう1人は香港でDJをしていた謝昭仁(チェチューヤン)25歳の2人。
伊藤は午前5時にTプロデューサーが部屋を訪れ、何も聞かされぬまま。チューヤンは香港で日本のテレビ番組に出演できるオーディションに参加していたが、合格を聞かされることなく2人は連れ出される。
場所はアフリカ大陸最南端の喜望峰。何も聞かされていない伊藤とチューヤンは初めて喜望峰で出会い、企画の内容を聞かされる。その内容はアフリカ大陸最南端の喜望峰から、北極圏のスカンジナビア半島まで、アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクであった。
2人はスタジオのゲストで来ていた、横浜銀蝿の翔からの提案で、2人のコンビ名が朋友(パンヤオ)と名付けられた。朋友は広東語で親友の意味である。
英語が話せない伊藤、日本語が話せないチューヤン。2人が最初に行ったのはお互いを知ることであった。
チューヤンが英語が話せることから、初めてのヒッチハイクの交渉はスムーズに行うことができた。しかし、2人はたびたび衝突する。お金を使いたくない伊藤は野宿を提案するが、お坊ちゃん育ちのチューヤンは拒絶。渋々ながら初めて野宿をしたチューヤンは、一睡もできなかった。
朋友の2人はたびたび衝突しながらも8カ国目のケニアで赤道に到達する。スタートしてから147日がたっていた。ケニアで朋友の2人にヒッチハイクを断念しなければならない危機が訪れる。ケニアから先に進む場所に強盗団が潜伏していたり、戦争状態だったり、無政府状態の場所も存在するなど、先に進めないことがわかった。朋友に残された道は、危険と知りながら先に進むか、旅を断念するかの2つ。これを受け番組でテレゴングを実施。結果は飛行機を使っても旅を続ける、というものだった。
飛行機を使って、危険地帯をぬけた朋友の2人だったが、旅は簡単なものではなかった。朋友は、スーダンでエジプト方面へと進むラクダの行商の仕事を得た。道中は50度を超える炎天下が550キロも続く。熱さでラクダが死んでしまうほどの状況だった。そんななか、伊藤が脱水症状を起こし気絶してしまう。チューヤンの介抱もあり、なんとか意識を回復し、危機を脱した。
朋友はスタートから216日でアフリカを脱出する。
フィンランドではお金が無くなり5日間も絶食状態になってしまう。それまで、チューヤンの絵を売ってお金を得ていたが、絵がまったく売れない。伊藤はかねてより練習を重ねていたパフォーマンスで、わずかなお金を得てハンバーガーを買い、危機を脱する。
さまざまなアクシデントにあいながらも、朋友はゴールをめざしていた。そしてついにゴールのヨーロッパ大陸最北端、ノルウェーのスレットネス灯台に到達する。
スタートから290日、移動距離22,710km、通過した国は18カ国。1998年11月14日だった。

1年6カ月に及ぶスワンの旅へつながるRマニアの「電波少年的無人島脱出」がスタート

OA画面
Rマニア 左がしゅく、右が中島

食事に出かけるために町を歩いていたRマニアの2人。そこへ路肩に止めてあったロケバスからTプロデューサーが、食事をおごるから乗ってけ、と声をかける。ロケバスに乗ったRマニアの2人にアイマスクとヘッドホンが渡される。三日後に、何も知らされずつれてこられた2人はここはどこかと、Tプロデューサーに訪ねると、一言「無人島」と答えるTプロデューサー。そこは、食べ物も水もない無人島であった。この無人島は愛媛県にある由利島という名前で、TOKIOの鉄腕ダッシュで使われているダッシュ島である。
この企画のゴールは自力で島を脱出し、自分たち以外の人間にあうことであった。Tプロデューサーは恒例の「やりますか、やりませんか」とRマニアの2人に聞くと、2人はやります、と答えた。スタッフはRマニアを残し島から去っていくとき、面白くなかったらオンエアーはないと告げる。スタッフから渡されたリュックを開けると、カメラが。島からの脱出はRマニアが撮ることに。
何もない無人島でRマニアは、雨水を飲み、小さな貝や野草で飢えをしのぐ。カタツムリひとつでケンカになったこともあった。海に浮いているみかんを拾おうとしてひじきに絡まりおぼれそうになったことも。無人島に来てから102日目。イカダをつくったRマニアは島からの脱出を試みる。6時間いかだをこぎ続けたRマニアはついに島を発見した。Rマニアがたどりついたついた島は二神島という名前の島であった。2人は島を散策し、島の住人を発見し、ついにゴールを達成する。
ゴールを遂げたRマニアにTプロデューサーから電話が入る。無人島脱出は次の企画につながる序章にしか過ぎなかった。

電波少年的スワンの旅

OA画面

Tプロデューサーからの電話の内容は、電波少年スペシャルの前説の仕事があるから東京に早く帰ってこい、足は用意しておいたからというものだった。2人が目にした足は、1台のスワンボートだった。2人に課せられた新たな使命は愛媛から東京までスワンボートをこいで、10月にある前説までに帰って来ること。最初は楽しんでいた2人だが、こぎ続けることで金玉がうんでしまうほど過酷なものであった。2カ月かけて東京にたどり着いた2人だったが前説の仕事には間に合わなかった。

電波少年的スワンの旅Ⅱ

仙台へ向かう、Rマニアの2人。

ゴールしたRマニアの前にTプロデューサーが現れる。Rマニアは前説に間に合わなかったことをTプロデューサーに謝罪。すると、RマニアにTプロデューサーから次の前説が仙台であると聞かされる。Rマニアは、前説の場所の仙台を目掛け、再びスワンボートをこぐことになってしまった。
順調にこぎ続けたRマニアだが、漁船の網にスクリューが絡まるアクシデントなどもあり、仙台到達は容易ではなかった。。東京を出発して81日目Rマニアはようやく仙台に到着する。
今度は前説の時間に間に合い、前説の仕事を無事終了する。仕事を終えたRマニアは、東京から2カ月半かかった道のりを新幹線でわずか、2時間で東京に帰ってきた。

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