2012年から2015年に亡くなった芸能人・著名人まとめ

芸能界やスポーツ界、財界などで活躍する芸能人・著名人の訃報が流れると、世間では大きな衝撃が生まれて、その人物の特集記事やコーナーが組まれることが多く有る。本記事では「2012年」から「2015年」の間になくなった芸能人・著名人の情報を、その方の生前の活躍ぶりと共にまとめて紹介する。

やしきたかじん

出典: girlschannel.net

やしきたかじん

「やっぱ好きやねん」などのヒット曲で知られるタレントで歌手。本名は家鋪隆仁。
亡くなったことが1月7日判明。64歳。
49年、大阪市生まれ。龍谷大学経済学部中退後、76年に歌手デビュー。86年発売の「やっぱ好きやねん」がヒットし、94年には「東京」で全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」を受賞。
トークバラエティー番組「たかじんのそこまで言って委員会」など3本のレギュラー番組を持っていた。いずれも高視聴率を誇り、「関西の視聴率男」と呼ばれた。
12年1月、初期の食道がんを理由に芸能活動を休止。手術後の13年3月に復帰したが、5月に再び体調を崩し、長期休養に入った。

エウゼビオ

エウゼビオ

サッカーの元ポルトガル代表で1966年ワールドカップ(W杯)イングランド大会で得点王。本名エウゼビオ・ダシルバフェレイラ。
1月5日、心不全で死去。71歳。
高い身体能力を誇るストライカーで「黒豹(くろひょう)」の愛称で親しまれた。ベンフィカで頭角を現し、62年にはチームを欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)優勝に導いた。66年W杯では北朝鮮に0―3とリードを許したところから4得点を挙げる活躍。計9得点で得点王となり、ポルトガルが過去最高の3位に入る原動力となった。65年には欧州最優秀選手(バロンドール)を受賞した。

今井重幸

今井重幸

作曲家、演出家。
1月4日、食道がんのため死去、81歳。
舞踏家の長嶺ヤス子さんや土方巽氏の舞台演出のほか、テレビや映画の音楽を手掛けた。

山下徳夫

出典: www.senshu-u.ac.jp

山下徳夫

元官房長官。
1月1日午前1時30分、老衰のため佐賀県伊万里市の自宅で死去、94歳。
1969年の衆院選で旧佐賀全県区に出馬し、初当選。連続10回当選を果たした。第2次中曽根内閣で運輸相として初入閣し、国鉄民営化や85年の日航ジャンボ機墜落事故の対応に当たった。また第1次海部内閣では官房長官、宮沢内閣で厚相を務めた。

2013年12月

桂春駒

出典: www.oct.zaq.ne.jp

桂春駒

落語家、本名は宮本和俊さん。
昨年12月31日、肝不全で死去、62歳。
大阪市出身。1971年に桂春団治さんに入門し、国立文楽劇場で独演会を重ねた。劇団往来で俳優としても活動していた。

大滝詠一

出典: www.radiodays.jp

大滝詠一

ミュージシャン。
12月30日死去。午後5時すぎ、東京都瑞穂町の自宅で倒れ病院に運ばれたが帰らぬ人となった。病死。65歳。
81年に、シングル「君は天然色」がヒット。同曲が収められたアルバム「A LONG VACATION」がヒット「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。松田聖子のアルバムプロデュースなどでも話題になった。
97年には12年ぶりにシングル「幸せな結末」を発表し、フジテレビのドラマ「ラブジェネレーション」の主題歌としてミリオンセラーを達成した。

大木伸夫

大木伸夫

演歌歌手、本名は川内優。
12月30日、間質性肺炎のため死去、88歳。
浪曲師から演歌歌手に転身。代表曲は「涙の酒」。

PIE

PIE

ロックバンド・AURAのギタリスト(本名は平川秀治)。
12月28日に死去。46歳。
オフィシャルサイトでは「PIE 本名 平川秀治 儀 かねてより病気療養中のところ12月28日永眠いたしました。生前のご厚誼を厚く御礼申し上げます」と報告。
PIEさんは今年5月に公式サイト内のブログで肺がんのため入院したことを告白。闘病生活の様子をブログに綴り、今月25日には元スタッフがお見舞いに来たことを明かしていた。

高橋久子

出典: news.nicovideo.jp

高橋久子

最高裁初の女性判事。
12月21日、老衰で死去、86歳。
東大卒業後の1953年、旧労働省に入り、雇用統計課長、婦人少年局長などを歴任。退官後、94年に女性として初めて最高裁判事に就任し、97年まで務めた。2000年春に勲一等瑞宝章を受けた。

大浦正文

出典: blog.livedoor.jp

大浦正文

92年バルセロナ五輪の男子バレーボール代表。
12月20日午前、胃がんのため都内の病院で死去。44歳。
大浦さんは長崎県対馬市出身。長崎商卒業後、88年に日本リーグ(Vプレミアリーグ)サントリーへ入社した。同期にはサントリーのアドバイザー荻野正二氏らがいる。跳躍力のあるウイングスパイカーとして活躍し、日本代表として89、91年W杯、90年世界選手権に出場。バルセロナ五輪では6位入賞に貢献した。

ハイル・カラシニコフ

出典: ja.wikipedia.org

ハイル・カラシニコフ

世界的に普及した自動小銃「AK47」を開発したロシアの銃器設計者。
12月23日、病気のため死去。94歳。
第2次大戦でソ連の戦車部隊に所属し、ナチスドイツとの戦いに従軍。自動化された小火器で武装されたドイツ軍に衝撃を受け、新しい銃器の設計を決意した。戦後間もなく、使いやすくて壊れにくい自動小銃「AK47」の開発に成功。旧共産圏を中心に普及した。一方で、その銃の特徴からコピー製品も大量に出回り、多くの紛争地やテロリスト集団にも使われ、「史上最悪の大量殺害兵器」とも言われた。

大東隆行

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