RCサクセション(RC Succession)の徹底解説まとめ
RCサクセション(RC Succession)とは、1970年にデビューした日本のロック・バンド。ヴォーカリストの忌野清志郎とギタリストの仲井戸麗市を中心に、数々の名曲・名盤を残してきた。現在でも多くのミュージシャンが影響を受けたバンドとして名前を挙げている。1991年に活動休止状態に入り事実上の解散。2009年5月2日、忌野清志郎の死去により、RCサクセション復活の夢は永遠に絶たれた。
小川銀次(おがわぎんじ)
生年月日:1956年9月24日
出生地 :
本名 :同じ
愛称 :
担当 :ギター
没年月日:2015年8月2日
17歳からギターを始める。18歳で「ねずみ小僧(後に「Bem)」、19歳で「絵の見える音楽」をコンセプトとしたバンド、「CROSSWIND」を結成。1978年に「CROSSWIND」でデビュー。翌1979年にセカンド・アルバム「CROSSWIND 2」を発表するが、その間に自らのバンド以外での活動も頻繁に行う。
1978年12月、下北沢ロフトにおいて、新井田耕造がドラムスを担当する「ZONE」のライヴにサポート出演した際に仲井戸麗市と忌野清志郎に出会い、RCのサポートを依頼される。当時、RCのギタリストだった春日博文の誘いもあり、自らのバンド「CROSSWIND」と掛け持ちする形で、1979年1月にRCに参加。入れ替わるように春日博文はカルメン・マキのソロ・アルバムに参加するため、RCを脱退して渡米している。
自らのバンド「CROSSWIND」とRCとの掛け持ちを続けていたが、あまりにも多忙になったため、1980年4月5日、久保講堂で行われた「RHAPSODY」のレコーディング・ライヴを最後にRCを脱退、「CROSSWIND」に専念することになる。かなりのギター・テクニックを持っており、RCの中では浮いた存在になることもあったという。思い切り弾けないという欲求不満が溜まったことも脱退の一因だといわれている。
1984年に「CROSSWIND」は活動停止に。以降、「小川銀次Band」、「the-Orchestra」、「小川銀次&Inner-WIND」と自分のバンドを3分割して活動。同時にソロ・アルバムの作成にも入る。
1991年2月13日から1996年3月22日までフジテレビで放送されていた「北野ファンクラブ」で久しぶりに清志郎 と再会。二人のギターをバックに、北野武が「雨あがりの夜空に」と「スローバラード」を替え歌で披露した。2001年には同時に12枚のフル・アルバムをリリース、同時に彼自身のレコード会社「POWER RECORD」を設立している。
2015年8月2日、死去。享年58歳、清志郎と同じ歳で逝ってしまった。
彼のオフィシャル・ホームページには彼の死に関するニュースの記述は見当たらない。ホームページ自体の更新が止まっているようにも見えるが、2016年のリリース記事も記載されている。彼のプロフィールのページにはこんな記載が残されていた。「死ぬにはちょいと早いけどギター弾くのに年よりすぎるっていうことはないんだぜ」。
ご冥福をお祈りします。
春日博文(かすがひろふみ)(1978年、1990年 ~ 1991年)
春日博文(かすがひろふみ)
生年月日:1954年1月25日
出生地 :東京都港区
本名 :同じ
愛称 :ハチ
担当 :ギター、ドラムス
1972年から1977年に渡り、カルメン・マキとともに結成したカルメン・マキ & OZに在籍。清志郎のことは以前から高く評価しており、RCの暗黒時代には自らのライヴの前座などに出演させたりしていた。
カルメン・マキ & OZ解散後の1978年1月18日、ライヴ・ハウス「屋根裏」で行われたRCのライヴに酔っぱらって飛び入り。スローバラードなどを共演。当初はあまり春日のこをとよく思っていなかったRCのメンバーも、これを境に仲良くなりだす。特に清志郎は、春日のステージングのうまさに感動し、RCへの参加をその場で要請している。春日は「ドラマーを変更すること」を条件に、ギタリストとして正式にRCに参加する。
春日の条件とおり、それまでのドラマーだった土井耕太郎に変わり、新井田耕造が参加。また、同じ頃に春日は清志郎に対して、ヴォーカルに専念することを提案している。
この時期、仲井戸麗市も頻繁にライヴに参加し始め、春日はRCのエレキ化に一役買うことになる。ところが、別の仕事が多忙になりRCのライヴに参加できないことが多くなる。そして1979年1月、カルメン・マキのソロ・アルバムに参加するために渡米したのを機にRCを脱退している。
1990年、ドラムスの新井田耕造、キーボードのG2が脱退したため、今度はドラマーとしてRCに復帰。RCのラスト・アルバムとなった「Baby a Go Go」のプロデュースも行う。
RC関連のプロデュース業としては、1985年の仲井戸麗市のソロ・アルバム「THE仲井戸麗市BOOK」、1990年の同じく仲井戸麗市のソロ・アルバム「絵」がある。この「絵」をプロデュースしている時の春日の言動がRCの解散の原因になっているといわれている。ただし、本人はそのことを認めていない。
RCサクセションの略歴
1950年~1967年:結成前夜
●1950年
10月9日
加藤秀明(仲井戸麗市)東京新宿区戸山ハイツに生まれる。
●1951年
4月2日
栗原清志(忌野清志郎)東京都中野区に生まれる。
9月19日
桶田賢一(破廉ケンチ)東京都国立市に生まれる。
12月5日
小林和生 東京都国分寺市に生まれる。
●1953年
3月25日
新井田耕造 東京都台東区浅草に生まれる。
●1954年
1月25日
春日博文 東京都港区に生まれる。
9月17日
柴田義也 兵庫県神戸市に生まれる。
●1956年
9月24日
小川銀次生まれる。
●1957年
清志郎、小平の幼稚園から国分寺の「みふじ幼稚園」に転園。そこで小林と出会うが、すぐに小林は親が経営する保育園に転園してしまう。
●1958年
4月
清志郎と小林は、国分寺第二小学校に入学し、そこで再会する。
清志郎、自作漫画雑誌「鳩」を制作し、小学校卒業まで続ける。
●1958年
清志郎、この頃からメガネを着用するようになる。
●1964年
4月
清志郎と小林は、国分寺第三中学校に入学し、ともに山岳部に所属する。
山岳部の合宿に登山ナイフを持参したのは、清志郎と小林の二人だけだった。
小林は運動神経がよく、バック転や鉄棒での大車輪をしていた。
●1965年
5月
この年の1月にベンチャーズが2度目の来日を果たし、日本全国に空前のエレキ・ブームを巻き起こす。
清志郎もこのエレキ・ブームに乗り、手製のギターを作成している。ただし木を切っただけの音の出ないギターではあったが。その後、立川にある尾崎楽器店で初めてのギター(3000円のガット・ギター)を購入している。
8月
清志郎と小林は、隣のクラスの田中利和と3人で「No Names」を結成する。清志郎と小林にとって初めてのバンドである。田中はギターを持っているという理由でメンバーになっている。
11月
破廉が国分寺第三中学校に転校してくる。ギターが上手かったという理由で彼も「No Names」に参加、4人組となる。ただし、この「No Names」は、特に何かを披露することもなく数か月で解散してしまう。
●1966年
6月
清志郎、小林、破廉の3人は、フォーク・ブームに乗り、「The Clover」を結成する。PPM(ピーター・ポール&マリー)やキングストン・トリオをカヴァーしていた。また、ベンチャーズの「パイプライン」をアレンジした「オキナワライン」という楽曲も演奏していた。
当時の日本は、ヴェンチャーズによるエレキ・ブームから、フォーク・ブームに急速に移行していた。一因として「エレキ・ギターは青少年の不良化を促す」といった誤った世論が広がったため、というのがあげられる。また、エレキ・ギターにはアンプといった付属品が必要であるが、アコースティック・ギターには不要であることから手軽、ということも一因にある。当時吹き荒れていた学生運動との関係も無視は出来ないだろう。マイク眞木の「バラが咲いた」や森山良子の「今日の日はさようなら」がヒットしたのもこの年である。
ただし、この1966年にはザ・ビートルズも来日しており、それに影響を受けたグループ・サウンズのブームも始まる。海外のロックでも急進的な改革が始まっており、音楽的には混沌とはしているがとても面白い時代だったと想像できる。清志郎たちもそうした時代の流れを全身に感じ取っていたのではないだろうか。
●1967年
3月
国分寺第三中学校の卒業謝恩会における演奏を最後に「The Clover」は解散する。高校進学による解散であった。
謝恩会ではPPMの「悲惨な戦争」、「虹と共に消えた恋」、「パフ」などを演奏した。
4月
3人はバラバラの高校に進学。
清志郎は都立日野高等学校に進学。
同級生に三浦友和がいたことは有名。彼とは毎朝、多摩動物公園行きのバスで一緒になっていたという。
また、小林晴雄という美術部顧問の先生がいた。彼は「勉強が嫌いだから絵描きになった」という先生で、「職員室が嫌いで、美術準備室でいつも一人でたばこを吸っていた」という。この先生こそRCの最初のヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルとなった先生であった。
この頃から清志郎は曲作りを始めている。
しばらくは色々なバンドを掛け持ちし、ザ・タートルズの「ハッピー・トゥゲザー」や、同級生の三浦友和とともにクリームのコピー・バンドを手伝ったりしていた。
小林は都立北多摩高等学校に進学。
同校の卒業生には、「ターミネーター3」のDVD盤で「ジョン・コナー」の吹き替えを行った声優の「石母田史朗」などがいる。
残念ながら2013年をもって閉校している。
高校に入学してしばらくは軽音楽部に所属。女の子とデュエットなどをしていた。
破廉は都立冨士森高等学校に進学。
同校の卒業生として、「YAWARA!」や「20世紀少年」を描いた漫画家「浦沢直樹」などがいる。また、国民栄誉賞を受賞した将棋棋士「羽生善治」も在校していたが、すでにプロになっていたため出席日数が足りず、やむなく都立上野高等学校通信制に転入し、卒業している。
1968年~1972年:RC結成からデビューへ
●1968年
7月
清志郎、小林、そして国分寺第三中学校の2年先輩の武田清一の3人で、「The Remainders of The Clover」結成。「Remainder of」には「残りのもの、残り、残余」という意味があるので、「The Clover の残党」という意味になる。
このタイミングで小林はギターからベースに転向。新宿の丸井でウッドベースを購入している。
学校の文化祭や先輩の知人の結婚式で、「金曜の大雪」「僕の目は猫の目」「電話が鳴っている」などのオリジナル曲を披露していた。
この時期、破廉は別のバンドで活動していた。
10月22日
フォーク喫茶「フォークビレッジ」で演奏。この時初めてギャラをもらうが交通費程度だった。ザ・ビートルズの「And I Love Her」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」のカヴァーや、「やせこけた女」「雨がやんで」「明るいあの娘」といったオリジナル曲を披露した。
11月
「The Remainders of The Clover」解散。
武田清一は1972年に「日暮し」を結成。翌1973年4月にシングル「まちぼうけ~佐渡を恋うる詩~」で日本コロムビアからデビュー。1977年には代表曲「い・に・し・え」を発表している。また、1988年2月25日に発売されたRCのアルバム「MARVY」に収録されている「AN OLD STORY ありふれた出来事 PART 2」は日暮しの「ありふれた出来事」の歌詞を変えたもので、作詞:忌野清志郎・作曲:武田清一の作品である。
11月
The Remainders of The Clover」解散後、清志郎、小林、破廉の3人が再び集まり「The Remainders of the Clover succession」結成。「succession」には「継続、連続、引き続いて」という意味があるので、「The Clover の残党の継続」という意味になる。「The Remainders of the Clover」を略して「R.C.」とし、これが「RC Succession」となる。「ある日作成しよう→あるひさくせしょう→あるしーさくせしょん」というのは、清志郎が説明するのが面倒なので、後付で考えた名前の由来である。
「The Remainders of the Clover succession」にはもう武田清一は在籍していないが、1972年7月5日に発売されたRCのシングル「キミかわいいね」のB面「あの歌が想い出せない」は、詞:忌野清志郎・作曲:武田清一の作品である。2015年に「日暮し」の2枚のアルバム「ありふれた出来事」と「記憶の果実」がCD化された際に、2枚同時購入の特典として、この「あの歌が想い出せない」のデモが収録されたボーナスCDが配られている。楽曲の名義は「RCサクセション+武田清一」、つまり「清志郎、小林、破廉、武田」の揃い踏みである。
この「あの歌が想い出せない」は第2期かぐや姫のデビュー・アルバム「はじめまして」に収録されており、清志郎がかぐや姫に売り込みにいった、という説があるがこれは全くのデマ。武田は「ストロベリー・クリーム(武田が当時在籍していたバンド)をやっていた頃に、山田パンダ(かぐや姫のベーシスト)と知り合いになって、当時僕がストロベリー・クリームでこの曲を歌っていたのを聴いた彼が、『僕らにも歌わせてくれないかな?』と言ってきたんですよ。当時はRCもライヴで歌っていたみたい。それで僕がキヨシ(清志郎)のところに行って、『山田パンダたちが歌いたいって言ってるけどどうする?』って訊ねたら『清ちゃん(武田)がいいならいいよ』ということだったので、彼らがカヴァーしたんですよ」と説明している。
●1969年
この年、清志郎は高校をサボって、初来日したサム&デイヴの渋谷公会堂でのライヴを見ている。
お金がなくてチケットが買えなかったので、荷物持ちや雑用をする条件でツアーバスに乗り込み、裏からコンサート会場に入れてもらっている。
3月3日
清志郎、当時のガール・フレンドのチイコさんと2時間35分にも及ぶ長電話をする。これがのちにRCの楽曲「2時間35分」になる。
4月14日
TBS系のテレビ番組「ヤング720」のアマチュア・バンド・コーナーのオーディションに出演。「泥だらけの海」を披露し合格。同オーディションに応募したのは破廉。
この時に、彼らより一歳年上の金田仁という人物に出会い、彼らの初代マネージャーに名乗りでる。彼は清志郎にオーティス・レディングなどのR&Bを聴くことを進めるが、これは彼が清志郎が黒人っぽいと感じたからである。これを機に清志郎はR&Bに傾倒していく。この時、清志郎はR&Bやソウルのレコードを借りているが、これらは金田仁の物ではなく、彼の弟が所有するレコードであった。
この金田仁という人も波乱万丈な人生を送る。RCの初代マネージャーという称号だけではなく、のちにフィリピンからの拳銃301丁の密輸事件を起こし、懲役15年の有罪を受け「拳銃密輸王」の悪名も与えられることになる。1999年6月、仮出所。刑期満了後は贖罪の意を込めて、日本とフィリピンの架け橋になり、フィリピンで学校建設や、日米比の戦没者慰霊碑の建立などに力を注いでいるという。
6月8日
TBS系のテレビ番組「ヤング720」において「どろだらけの海」を演奏するRCが放送される。司会は元ザ・フォーク・クルセイダーズの北山修。RCのテレビ初出演である。
この頃からメンバーは芸名を使い始めている。つまり「忌野清志郎」「林小和生」「破廉ケンチ」がそれらである。また清志郎は作曲家のペンネームとして肝沢幅一(キモサワ・フクイチ)を使用し始める。この「肝沢幅一」とは、清志郎の父親が「沢田研二」のことを「肝沢幅一」と間違って覚えていたことからきている。
8月21日
赤坂の東芝スタジオにおいて、「東芝カレッジ・ポップス・コンサート」の予選に参加。予選通過を果たし、渋谷公会堂で行われる決勝への進出を決める。
8月29日
渋谷公会堂において「東芝カレッジ・ポップス・コンサート」の決勝が行われる。RCは「どろだらけの海」、「宝くじは買わない」、「ぼくの好きな先生」を披露、3位入選となる。初代マネージャーの金田からプロになることを勧められ、後日東芝音工(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→UNIVERSAL MUSIC EMI Records Japan)と契約をする。
この時の模様は同年11月1日発売のアルバム「カレッジポップス・コンサート実況録音盤」に収録されている。楽曲は「どろだらけの海」であり、これがRCにとって初めての公式の音源となる。2007年8月8日には紙ジャケット仕様の初回限定生産としてCDも発売されており、現在は中古で出回っている。
11月4日
当日付の朝日新聞の「身の上相談コーナー」に、清志郎の母・久子さんが投書をしている。以下がその内容である。
「十八になる私の子供は小さい頃から寝起きのいい方ではありませんでしたが、高三になってからは登校時間になっても起きず遅刻はしょっちゅう、 月に一日は休んでしまいます。私どもも口がすっぱくなるほどいい、先生から注意を受けましたが相変わらず直そうとしません。性格は内向的でハキハキしませんが、お友達には好かれているようです。高校を卒業したら美術大学へ入る予定でしたが、最近では進学したくないと申します。それと申しますのが、お友達と三人で組んでギターを弾き、自分で作詞作曲したのをレコードに吹き込んだり、あちらのホール、こちらの放送局と時々出演して多少は受けているようです。学校を休んだ日は一日中寝ております。こんな状態を繰り返していては、心身ともダメになってしまうのではないかと心配です。どうしても大学へ行かないのなら高校を出てお勤めをして欲しいと申しますと、お勤めなどいやだ、ギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だかわからなくなりました。プロには簡単になれるものでしょうか。学校に真面目に行かせるにはどうしたらよいでしょうか。 (東京都・H子)」
*ここで忌野清志郎のご両親について説明しておかなければならないだろう。
この「久子」さんというのは、清志郎の実の母ではない。実母は「冨貴子」さんといい、清志郎が3歳の時にお亡くなりになっている。享年33歳。「久子」さんというのは、「冨貴子」さんのお姉さん、清志郎にとっては伯母さんにあたる方になる。
「冨貴子」さんの最初の旦那さんは、太平洋戦争での「レイテ島の戦い」で戦死している。清志郎は「冨貴子」さんの再婚相手「新井弘」さんとの間に生まれた子供となる。
「冨貴子」さんが亡くなった時、3歳の清志郎は「久子」さんのご家族に預けられた。実父である「弘」さんとは離れて暮らすようになるが、時々清志郎の様子を見に来ていたそうである。また清志郎は喉頭がんの闘病生活に入ってから、「弘」さんと二人で温泉旅行に出かけている。
清志郎の育ての父、「久子」さんの旦那さんは「栗原康平」という。清志郎の本名「栗原清志」はここからきている。「康平」さんが亡くなったことを、清志郎はラジオの仕事中に知ることになり、とてもショックを受けたという。
12月24日
東芝のスタジオで「宝くじは買わない」と「泥だらけの海」をレコーディングする。レコーディング・ディレクターは後に株式会社ファンハウスの社長になる新田和長が担当した。
また元ホリプロでフリーのプロデューサーだった奥田義行がRCのマネージメントを申し出る。奥田は後に井上陽水を引き連れて音楽事務所「りぼん」の社長になる人物。RCが「干される」原因を作った人物でもある。また、RCは「りぼん」に所属することになるのだが、1985年にすったもんだの末に独立することになる。
●1970年
この年、清志郎は最初の家出をしている。友人と2人で部屋を借りたが、引っ越し初日に「ほんの小っちゃい音で」アンプを通して弾いたエレキ・ギターの音に驚いた大家に追い出されている。
またこの頃、時々RCに参加してボンゴを叩いていた三浦友和は、奥田から「君はバンドマンには向いていない」と言われたことを機に、音楽活で生計を立てることを断念、消去法で俳優の道を選択した。
3月5日
シングル「宝くじは買わない」でデビュー。
4月
渋谷にあるライヴ喫茶「青い森」を中心にライヴ活動を始める。この頃のセット・リストには、1972年2月5日に発売されるファースト・アルバム「初期のRC・サクセション」収録の楽曲以外に、「僕とあの娘」「ファンからの贈り物」「ダーリン・ミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知ってる」「お墓」といった後にレコーディングされる楽曲も含まれていた。
12月5日
セカンド・シングル「涙でいっぱい」をリリース。
●1971年
この年、ホリプロと契約する。給料は3万円。
マネージャーの奥田はもともとはホリプロの社員であったが、事情により一旦ホリプロを退所してフリーになっていた。そしてRCの才能に惚れ込み、彼らの面倒を見ていたのだが、金銭的に苦しくなり、古巣に泣きつくような形でRCを連れてホリプロに戻ってきたのだ。
この頃、清志郎は仲井戸と出会っている。当時仲井戸は古井戸のメンバーであり、古井戸はまだ3人組だった。出会ったきっかけは、楽屋でどちらかがチョコレートを分けたこと。お互いに「あれはお前がくれたんだよ」と言い合っている。
この頃から「青い森」に加えて、小劇場「渋谷ジァンジァン」でもライヴを行うようになる。
4月
泉谷しげるが「青い森」でRCを初めて見て衝撃を受ける。泉谷は当時のRCに対して「凄かったね。アコースティック・ギターのリズム隊なのにロックなんだよ。ウッド・ベースなんてスリリングで、すげえソウルフルなんだよ」と称賛している。
11月5日
泉谷しげるのデビュー・アルバム「泉谷しげる登場」が発売される。バック・バンドとして古井戸が参加。
●1972年
1月25日
エレック・レコードのオムニバス・アルバム「唄の市 第一集」で古井戸が公式音源デビュー。「花言葉」、「大雪のあとで」が収録された。
2月5日、ファースト・アルバム「初期のRCサクセション」とサード・シングル「ぼくの好きな先生」を同時リリース。
「ぼくの好きな先生」は初のヒットとなり、テレビ神奈川で放送されていた「ヤング・インパルス」にレギュラー出演するなど、テレビへの出演が増える。「ヤング・インパルス」の映像は2003年12月10日に発売されたDVD「ライブ帝国 RCサクセション 70's」にまとめられてリリースされている。
3月5日
古井戸のデビュー・アルバム「古井戸の世界」がエレック・レコードからリリースされる。
5月
井上陽水と共にモップスの全国ツアーの前座を務める。
5月25日
古井戸のデビュー・シングル「さなえちゃん」がリリースされ、かなりのヒットとなる。
これは、仲井戸がほんの軽い気持ちで作ったフォーク・ソングだったのだが、仲井戸のルックスと相まって古井戸に対して「かわいい」「女の子に受ける」といったアイドル的なイメージが付いてしまう。
当時、フジテレビ系の番組「リブ・ヤング!」に出演した際に、「さなえちゃん」ばかり歌うことを求められていた仲井戸は「俺はこんな歌なんかもう歌えねえよ。俺達の他の歌もききやがれ」とアドリブで歌い(番組は生放送だった)そのままスタジオから出て行ってしまう。元々司会者(愛川欽也)が嫌いだったのと、同じ歌ばかり歌わされることが我慢できなかったのだ。そして番組へは出入り禁止となる。その際に、同番組にコーラスで参加していた泉谷しげるは「お前良かった。俺も頭にきてたんだ」と仲井戸に声をかけている。
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目次 - Contents
- RCサクセション概要
- RCサクセションのメンバー
- 忌野清志郎(いまわのきよしろう)
- 小林和生(こばやしかずお)
- 仲井戸麗市(なかいどれいち)
- 新井田耕造(にいだこうぞう)
- 柴田義也(しばたよしや:Gee2wo)
- RCサクセションの元メンバー
- 破廉ケンチ(はれんけんち)(1968年 ~ 1977年)
- 小川銀次(おがわぎんじ)(1979年 ~ 1980年)
- 春日博文(かすがひろふみ)(1978年、1990年 ~ 1991年)
- RCサクセションの略歴
- 1950年~1967年:結成前夜
- 1968年~1972年:RC結成からデビューへ
- 1973年~1979年:暗黒時代
- 1980年~1984年:ロック界の頂点へ
- 1985年~1987年:ソロ活動の活発化
- 1988年~1990年:アルバム「COVERS」、そして終焉へ
- RCサクセションのディスコグラフィー
- 1969年
- 11月1日:アルバム「カレッジポップス・コンサート実況録音盤」
- 1970年
- 3月5日:シングル「宝くじは買わない」
- 12月5日:シングル「涙でいっぱい」
- 1972年
- 2月5日:シングル「ぼくの好きな先生」
- 2月5日:アルバム「初期のRC・サクセション」
- 7月5日:シングル「キミかわいいね」
- 12月5日:アルバム「楽しい夕に」
- 12月20日:シングル「三番目に大事なもの」
- 1976年
- 1月21日:シングル「スローバラード」
- 4月21日:アルバム「シングル・マン」
- 10月11日:シングル「わかってもらえるさ」
- 1979年
- 7月21日:シングル「ステップ!」
- 1980年
- 1月21日:シングル「雨あがりの夜空に」
- 5月21日:シングル「ボスしけてるぜ」
- 6月5日:アルバム「RHAPSODY」
- 10月28日:シングル「トランジスタ・ラジオ」
- 12月5日:アルバム「PLEASE」
- 1981年
- 6月1日:アルバム「EPLP」
- 11月21日:アルバム「BLUE」
- 1982年
- 3月21日:アルバム「HARD FOLK SUCCESSION」
- 4月5日:アルバム「Yeahhhhhh...at武道館」
- 6月23日:シングル「SUMMER TOUR」
- 10月25日:アルバム「BEAT POPS」
- 12月10日:アルバム「The Day of R&B」
- 12月15日:シングル「つ・き・あ・い・た・い」
- 1983年
- 6月1日:シングル「Oh! Baby」
- 7月5日:アルバム「OK」
- 11月7日:シングル「ベイビー!逃げるんだ。」
- 12月5日:アルバム「The KING of LIVE」
- 1984年
- 7月21日:シングル「不思議」
- 7月21日:アルバム「EPLP-2」
- 9月21日:アルバム「The LiVE!」
- 11月23日:アルバム「FEEL SO BAD」
- 12月21日:アルバム「MIX & MIX-ER」
- 1985年
- 4月21日:シングル「すべてはALRIGHT(YA BABY)」
- 11月21日:アルバム「HEART ACE(ハートのエース)」
- 12月21日:シングル「SKY PILOTスカイパイロット」
- 1986年
- 4月23日:アルバム「NAUGHTY BOY」
- 10月21日:アルバム「the TEARS OF a CLOWN」
- 1988年
- 2月25日:アルバム「MARVY」
- 3月25日:シングル「NAUGHTY BOY」
- 8月15日:シングル「LOVE ME TENDER」
- 8月15日:アルバム「COVERS」
- 12月16日:アルバム「コブラの悩み(Cobra In Trouble)」
- 1990年
- 9月5日:シングル「I LIKE YOU」
- 9月27日:アルバム「Baby a Go Go」
- 1995年
- 9月25日:アルバム「SOULMATES」
- 2005年
- 10月26日:アルバム「RHAPSODY NAKED」
- 2011年
- 11月23日:アルバム「sings soul ballads」
- 2013年
- 5月3日:アルバム「悲しいことばっかり(オフィシャル・ブートレグ)」
- 2015年
- 12月16日:アルバム「日暮し Bonus Tracks」
- 2016年
- 2月5日:アルバム「PLEASE ROCK ME OUT at 日比谷野外音楽堂 1981.5.30 - 5.31」
- 3月30日:アルバム「SUMMER TOUR’83 渋谷公会堂 ~KING OF LIVE COMPLETE~」
- RCサクセションの代表曲
- 宝くじは買わない
- ぼくの好きな先生
- 冷たくした訳は
- スローバラード
- 雨あがりの夜空に
- よォーこそ
- トランジスタ・ラジオ
- いい事ばかりはありゃしない
- ロックン・ロール・ショー
- 多摩蘭坂
- つ・き・あ・い・た・い
- Oh!Baby
- ドカドカうるさいR&Rバンド
- ベイビー!逃げるんだ。
- 自由
- 腰をふれ
- 海辺のワインディング・ロード
- ヒッピーに捧ぐ
- 明日なき世界
- サマータイム・ブルース~ラヴ・ミー・テンダー
- I Like You
- あふれる熱い涙
- RCサクセションの裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- 三浦友和の俳優デビューのきっかけ
- 暴言・暴走など
- 最後の共演
- デザートはあなた
- 君はLove Me Tenderを聴いたか?
- 解散について
- 原発音頭