不思議発見!日本にちらばるミステリー都市伝説

日本中にちらばる都市伝説やミステリーを集めました。

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1923年、関東大震災により、当時、大手町にあった大蔵省庁舎は全焼。
そのため将門塚も含めたあたり一帯が整地されることになり、塚を壊して大蔵省の仮庁舎が建築された。その後、役人の中から怪我や病気にかかる人が続出。
それもなぜか足に負傷する者が多く、将門塚を壊し、あまつさえその上に庁舎を建てて将門公を足下にした祟りだという噂が流れた。

そして、その後わずか2年の間に当時の大蔵大臣である早速整爾をはじめ、繕局工務部長・矢橋工学博士以下14名が亡くなり、武田政務次官・荒川事務官以下数えあげるのもわずらわしいほど非常に多くの怪我人が出たという。

将門の祟りを恐れ、仮庁舎が取り壊された。大蔵大臣死去から慰霊祭まで2年。その間に計14名が死亡するということは、2ヶ月に1人以上の大蔵省関係者が原因不明で亡くなるという異常さである。

将門の死後1000年にあたる1940年5月6日に大蔵省に落雷があり、主要建造物が炎上。
やはりこれも落雷の場所が首塚のそばであったことから、「将門の祟り」とされ鎮魂祭が行われる。首塚にある慰霊碑は、このときに建てられたものである。

1945年、終戦を迎えた年、米軍のGHQが空襲による焼け跡のままだった首塚周辺に目を付け、巨大な駐車場を作ろうとする。
工事が進むにつれ、異変がまた繰り返された。整備のため、土を掘り返すと、墓石が現われたため、ブルドーザーで掘り出そうとした途端、車体がバランスを崩し横転。2人が死亡。首塚まで工事を進めることが出来ず、中止せざるを得なくなった。
マッカーサー司令部に出頭して陳情を繰り返したところ、大昔の大酋長の墓ということで了解を得、塚は残されることになったという。

首塚の周りにはオフィスビルが立ち並ぶが、祟りを恐れ将門塚に対して背を向けないようなデスクの配置が決められている。

菅原道真の怨霊

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幼い頃から文学の才能を認められ神童とよばれ、学問の神様として親しまれている菅原道真(すがわらのみちざね)だが、その晩年は恵まれていなかった。

才能溢れる菅原道真は、藤原氏の全盛期でありながら、右大臣まで上り詰めた。このことが、藤原氏や学閥から多くの反感を買い、藤原氏の策略で失脚するに至った。

そして菅原道真は太宰権帥(だざいごんのそつ)に位を落とされ太宰府へと左遷され、無念を抱えたまま太宰府で死亡した。

彼が亡くなった後、京では落雷が相次ぎ、主に藤原氏が被害に遭っていた。朝廷は道真の怨霊を恐れ、左大臣の敬称と太政大臣を与え、さらに、子孫を京に呼び戻すことで、道真の怒りを治めた。

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そして、菅原道真が死去して40年後に、京に北野天神が造られた。今では北野天満宮と呼ばれ多くの参拝者が訪れている。

源義経=チンギス・ハーン

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チンギス・ハーン(ジンギス・カン)

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源義経

モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンは、衣川の戦いで自害したという源義経と同一人物であるといわれている。奥州藤原で亡くなったとされている源義経が実は逃げ延びて蝦夷地から、大陸に渡り、チンギス・ハーン(ジンギス・カン)になったという。

チンギス・ハーンの生年ははっきりしないが、1155年から1167年頃とみられており、1159年生まれの源義経と確かに同年代だ。

また奥州で義経が亡くなったとされているのが1189年だが、チンギス・ハーンがモンゴルで兵をあげたのが1188年頃で、年代はおおよそ一致する。

また源義経という文字を中国語読みすると、yuan-yi-jing となり、これがチンギス・ハーンの幼名「テムジン」と似てないこともない。

チンギス・ハーンについては、生年や前半生が不明な点が多いことや、口伝による歴史伝達など裏づけ部分が不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実である。

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