不思議発見!日本にちらばるミステリー都市伝説

日本中にちらばる都市伝説やミステリーを集めました。

その為、彼は戦の度に前線に出ては多くの武勲をあげた。だが、最前線とは危険がつきまとう為、彼の体には無数の戦傷が刻まれていた。

本多忠勝もまた名将だった為、戦の度に活躍した。彼の武器は蜻蛉切り(とんぼきり)という槍である。リーチの長い武器を使っていた彼は井伊直政と違い怪我を負う事は少なかった。

1602年。井伊直政はその天寿を全うするが、この時、体に刻まれた戦傷が消えていたのである。その8年後、1610年には本多忠勝もこの世を去る事になるのだが、今度は戦で手傷を負う事が無かった筈の本多忠勝の体に無数の戦傷が刻まれていた。

実は、井伊直政と本多忠勝は仲が悪く犬猿の仲であった。そしてとうとう生きている内に井伊直政は本多忠勝を見返す立場にはなれなかった。

その為、最後の最後にせめてその傷だけでも本多忠勝に宿したのではと言われている。

しかし、晩年の本多忠勝は腕力が衰え、自慢の蜻蛉切りを短くしている。これが原因で、後期は生傷が絶えなかったとも言われている。

だが、どちらにしても逝去した際の井伊直政の傷の消失の理由は誰にも説明は出来なかった。

日本初のメンタリスト

メンタリストが行うメンタリズム。そのメンタリズムとは人間の錯覚や暗示を使い超常現象を再現する方法で、元々は宗教団体の教祖が信者を集める為に神の力と称し行っていたパフォーマンスです。実はそのメンタリズムが歴史的な事件に関わっていた。

徳川家光

徳川三代目・徳川家光の時代に起きた天草島原の乱。この乱を指揮していた人物が、当時なカリスマ的な存在で弱冠16歳の天草四郎である。

天草四郎

実はこの天草四郎には黒幕が存在した。その黒幕とは天草四郎の実の父親であり、キリシタンでもあった益田甚兵衛好次である。

甚兵衛は自分の息子、天草四郎を予言の天使として演出したのである。天草四郎に派手な衣装を着せ、顔には白粉、歯にはお歯黒を塗っていた。手には十字架を持たせ当時の日本人が見た事もないような奇抜な格好で現れた。

甚兵衛はそれだけではなく、天草四郎が海の上を歩く奇跡というエピソードも作りあげた。

その方法とは、潮が引いている時に海に杭を打ち込み、上に板を敷いておけば潮が満ちた時、辺りが薄暗ければまるで海の上を歩いているような奇跡が演出出来たのである。この様にして甚兵衛はメンタリズムを駆使して天草四郎を奇跡の妖術使いとして演出したのである。

そして、天草四郎の奇跡は噂が噂を呼び部下が3万8000人にまで膨れ上がったのである。今も語り継がれるカリスマ天草四郎は、実の父・甚兵衛のメンタリズムによって、人々の心が操られていたからなのである。

聖徳太子の予言

出典: twitter.com

「冠位十二階」や「十七条の憲法」で有名な聖徳太子にはもうひとつの顔があるという。それは未来を見通す力を持つ預言者としての顔。

『日本書紀』の巻の二十二には、太子が「兼知未然」と記されてある。未然は未来と同義語。つまり、聖徳太子には未来を示す予知能力があったことを日本の正式な歴史書が証明しているのだ。

太 子が残した幻の予言書に「未来記」というものがあるのだが、文書としてはっきりと形が残っていない。「未来記」を元本とし、大きく影響されて書かれたと思 われるものに「未然本記」というものは存在する。しかし、聖徳太子の「未来記」「太子の予言」と呼ばれてきたものは、歴史上の人物の伝承や古文書のなかに ポツリポツリと現れる程度である。

聖徳太子は25歳の時、人類の終末とも言える重大な予言を残している。「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかつてない壮麗な都になり戦乱を十回浴びても、それを越えて栄え、千年の間都として栄える。しかし一千年の時が満ちれば、黒龍(黒船)が来るため、都は東に移される」

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