Chic(シック)の徹底解説まとめ

Chic(シック)とは、1977年にデビューしたアメリカのディスコ・ファンクバンドである。中心メンバーはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ。『おしゃれフリーク」』や『グッド・タイムス」』等のビルボードNo.1を発表し、1970年代後半のディスコ・ブームを牽引した。80年代はナイルとバーナードはプロデューサーとして活躍。マドンナやデヴィッド・ボウイ、ダイアナ・ロスなどのアーティストを大ヒットさせた。現在もナイル・ロジャースを中心に活動するダンスミュージック界のレジェンドである。

シックの最初のボーカリスト。オハイオ出身の彼女はスピナーズとしばらく仕事をしたのち、70年代前半にカーティス・ナイトのバンドのオーディションを受けるためにマンハッタンにやって来た。そこでルーシー・マーティンと出会い意気投合する。
あるとき、ライトはルームメイトからシンガーを探しているバンドがあると聞いた。そのバンドとは、ナイルとバーナードのビッグアップル・バンドだった。
「オーディションをしてみたらすぐに私の声を気に入ってくれて、参加することになったの」と、ライトは言う。最初に彼女が参加したのは、『Everybody Dance』であった。
その後バンドはシックに改名し、『Dance Dance Dance』がレコード会社の目に止まりアルバム制作の機会を得る。こうしてノーマ・ジーン・ライトはファーストアルバムのメインボーカリストとなる。しかしレコードの売行きが好調の中、ノーマはグループ加入時からの約束であったソロ・デビューの機会を得た。

ノーマ・ジーン名義で発表した同名アルバムのプロデューサーはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ、ドラムスもトニー・トンプソンと、まさにシックの別プロジェクトのようなアルバムになった。このアルバムは、ザ・パワー・ステーョン・スタジオが落成されて録音された第一作目となった。
ノーマはその後もシックで活動をするつもりだったが、ノーマが契約したBearsvilleレーベルが、シックが契約していたWarner/Elektra/Atlantic系列のオフシュートとマネージメント間で問題が起こり、ノーマそれ以降シックで活動することができなくなってしまった。ソロキャリアの代償としてシックでの活動が奪われる形となった。自分こそがシックサウンドの原型であると自負していたノーマは深く失望する。

シックはルーシ・マーティンとアルファ・アンダーソンがリードボーカリストに格上げとなり、この5人体制は83年の活動休止までの不動のメンバーとなる。
ノーマ・ジーン・ライトはその後、アレサ・フランクリン、マドンナ、Dトレイン、アーサー・ベイカー、メルヴィン・ヴァン・ピーブルス、そしてC+Cミュージック・ファクトリー等と仕事をしたり、ゴスペル作家としても活躍した。

Luci Martin(ルーシー・マーティン/vo)

ニューヨーク州クイーンズ生まれの生粋のニューヨーカー。元々はダンサーかコーラス志望だったが、ミュージカル『Hair』のオーディションを受けた時に、プロデューサーに気に入られ合格し、望んでいなかった歌手としての道を切り開くことになった。
その頃すでにシックに加入していたノーマ・ジーン・ライトとは仲良しで、ノーマはシックのメンバーが集っていたとあるパーティーにマーティンを誘い、騙すような形でシックのオーディションを受けさせた。
同じクイーンズ出身のトニー・トンプソンとは知り合いで、ずっと地元のことを話して盛り上がっている最中にナイルに「Dance, Dance, Dance」を歌わされ「バ・バ・バ・バ」の部分を音がすこしズレているとダメ出しが始まった。暫くしてマーティンは合格だと告げられた。本人も何に合格したのか分からなかったと言うままにシックに加入した。
しぶしぶシックに入れられたマーティンだったが、ファーストアルバムリリース後にノーマ・ジーンがソロデビューの為に脱退した後は、マーティンがシックのメインボーカルに昇格し、その後1983年の『Believer』までアルファ・アンダーソンと共にダブルボーカルを務める。
ノーマ・ジーン・ライトの脱退は、親友であったマーティンにとってはとても悲しい出来事で、残った相方のアルファ・アンダーソンとはノーマほどの親交を構築することは最後まで出来なかった。

シック解散後はバックシンガーとして働き、B.B.キングとロビンSのレコーディングに参加したが、そのうち音楽業界に嫌気が差し、コンピューター・テクノロジー業界に転職。その後医学記録転写士になり、その後、看護の仕事についた。
しかしマーティンはその後、親友であったノーマ・ジーン・ライトとツアーなどをたまにやっていた。ゴスペルグループと日本にツアーに行った時、元シックのメンバーだったことが日本のプロモーターに知れ、日本で単発のライブも行った。
2010年、ナイル・ロジャースはシック時代の古い録音テープを発見する。それに伴いシックの新しい楽曲を制作しようとマーティン、アンダーソンに連絡を入れる。そして2014年の暮れ、ナイルから連絡があり、マーティンとアルファ・アンダーソンはスタジオ入りし、ニューシングルのために、シックの新しいボーカリスト、フォラミ・アンコアンダ・トンプソンとキンバーリー・デイヴィスと共にレコーディングに参加した。こうして2015年、ニューシングル「I'll Be There」が完成した。

Alfa Anderson(アルファ・アンダーソン/vo)

アメリカ南部ジョージア生まれ。1978年から1983年までのシック・サウンドを牽引した。

サックスの巨匠キャノンボール・アダレイの姪のナット・アダレイ・ジュニアと、マンハッタンのLincoln Centerでキャノンボール・アダレイを祝う公演に出演しデビューを果たす。その後彼女はオーディションでルーサー・ヴァンドロスと知り合い、ルーサーの紹介でシックに加入する。初代ボーカリストはノーマ・ジーン・ライトで、アンダーソンはノーマのことを良く知らず、彼女がなぜ去ったのかも知らなかった。
1978年前半頃、ルーサー・ヴァンドロスは自身のキャリアを優先するためシックのツアーに参加しなくなっていた。ルーサーはノーマの代わりにアンダーソンがリードを歌うことをナイルとバーナードに提案してシックを去った。こうしてアルファ・アンダーソンとルーシー・マーティンのツインボーカルが誕生した。そして『Le Freak』や『Good Times』といったナンバーワン・ヒットを含む『C’est Chic』と『Risqué』という2枚の大ヒットアルバムを立て続けに発表する。
1980年代に入りディスコブームが下火になると、やがてナイルとバーナードの間に亀裂が生まれ、2人が分裂したことでシックも解散した。そのことにアンダーソンは悲しみ、そしてすぐにヴァンドロスのバックシンガーになった。その後もアルファ・アンダーソンはギャング・オブ・フォー、テディー・ペンダーグラス、ディオンヌ・ワーウィック、エディー・マーフィーらの楽曲に参加した。

その後は音楽をやめ、「運命を感じた」と本人が語る教育の現場に移った。ニューヨークの学校の校長になり、ニューヨークの教育省に行き、音楽をどのように教育に活かせるかという事業に取り組んだ。
2015年に発表されたシックのニューシングル、「I’ll Be There」では、新しいシンガーと共にアルファ・アンダーソンとルーシー・マーティンもスタジオに招かれ録音された。

Robin Clark(ロビン・クラーク/vo )

ロビン・クラークは60年代後半から70年代前半に「リッスン・マイ・ブラザー」というバンドのメンバーで『セサミ・ストリート』にレギュラー出演していた。
バンドには彼女の旦那で、デヴィッド・ボウイの名ギタリストでもあるカルロス・アロマーや、ルーサー・ヴァンドロス、フォンジー・ソートンがメンバーに連ねていた。
ある日セサミ・ストリートのプロモーションツアーにカルロスが参加出来なかった時、代役を頼んだのがナイル・ロジャースだった。
そして1977年の『Chic』をレコーディングの際、ナイルは古い友人のロビン・クラークとルーサー・ヴァンドロスもセッションに誘い、ロビンとルーサーはヴォーカル・アレンジャーとしての役割を担当した。ルーサー・ヴァンドロスがアレンジメントを手伝い、シックの早い段階で「シック的ユニゾン歌唱法」が確立された。ボーカル陣はより高度な技術によって、正確で完璧に歌うことを要求された。それはハーモニーより技術的に難しいユニゾンという形であった。
メンバー達はそれぞれはっきりとした違う声質を持っていることが必要とされ、アルファ・アンダーソンがファースト・ソプラノ、マーティンがアルトでセカンド・ソプラノ)、ロビン・クラークがその下のパートを担当したが、女性ヴォーカル陣のまとめ役がロビンの仕事でもあった。
1983年の『Believer』でシックは解散するが、それ以前にすでに脱退していたロビン・クラークは、ルーサー・ヴァンドロス、テディー・ペンダーグラス、そしてジョージ・ベンソンといったアーティストと仕事をし、一時的にシンプル・マインズにも加入し、1985年には『Surrender』というソロ・アルバムもリリースした。

Diva Gray(ディーバ・グレイ/vo )

グレイは70年代半ば頃からハリー・ベラフォンテのツアーに参加し、その後はブロードウェイで歌い、ベット・ミドラーのバックでシンガー及びダンサーとして参加した。またスタジオミュージシャンとしても活動していた。
1977年、後にレディーガガのボーカルコーチになるゴードン・グロディーに見出され、人気のスタジオシンガーとなる。古典的な訓練を受けたオペラ歌手としての素養と、最初のテイクで正確に楽曲を読む能力があることから、ゴードン・グロディーはグレイに「ディーバ」(歌姫)のニックネームを付けた。
シック結成時のボーカリストの1人となり『ダンス、ダンス、ダンス』や『おしゃれフリーク』のヒット作にも参加、シック脱退後は、フランス系イタリア人プロデューサーのジャック・フレッド・ペトラスが生んだダンス・ユニットで、シックとサウンドが似ているといわれている「チェンジ」にも参加。ディスコクラシックとしてと名高い「パラダイス」でもボーカルを務めており、70年代、80年代のディスコの名曲に足跡を残している。
その他にもデヴィッド・ボウイ、ジョー​​ジ・ベンソン、スティーリー・ダン、シスター・スレッジなどのアーティストやグループのレコーディングにも参加している。

ソロとしては1979年にルイジ・オジープがプロデュースしたアルバム『Hotel Paradise』が唯一のアルバムで、ディーバ・グレイ&オイスター名義のシングル「サントロペ」がフランスのチャートでヒットした。

Fonzi Thornton(フォンジー・ソーントン/vo)

ニューヨークのイーストハーレム生まれ。近所のボーカルグループであるシェード・オブ・ジェイドに加わり、ルーサーヴァンドロスと親しくなった。アポロシアターのコンテストで入賞し、フォンジーとルーサー・ヴァンドロスは、アポロシアターの16人のメンバーによるListen My Brotherでソリストになり、子供向け番組のセサミストリートの第2シーズンに出演した。その後、フォンジー・ソーントンは彼の名を冠した「Fonzi」というボーカルトリオを組み、ニューヨークのナイトクラブを中心に人気を博した。

70年代後半、フォンジーはナイルとバーナードに声をかけられシックの男性ボーカリストの1人として参加する。シックの6枚のアルバムやツアーにも参加した。特に1979年の大ヒットアルバム『Risqué』から『Good Times』や『My Forbidden Lover』で彼の歌声を聴くことができ、1980年の『Real People』の「You Can't Do It Alone」ではしっとりとしたソロを披露している。
1980年から1982年にかけて、ソーントンは幼なじみのルーサー・ヴァンドロスの全米ツアーにもバックアップシンガーとして参加した。その後もヴァンドロスのアルバムには全て参加をし、ヴァンドロス最後の4作では曲を共同執筆もした。
1982年にはロキシーミュージックの名作にしてラストアルバム『AVALON』とそれに続くワールドツアーにも参加した。1983年のシック解散後もナイルとロジャースは、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、パワーステーション、ロバート・パーマー、ダイアナ・ロスなどのプロダクションにバックボーカルとしてフォンジーを使い続けた。
1983年の春、ビルボードのR&Bチャートで43位に達したリードシングル「ビバリー」をフィーチャーしたフォンジーのデビューアルバム『The Leader 』をリリース、ナイル・ロジャース、バーナード・エドワーズ、ルーサー・ヴァンドロス、さらにはジョセリン・ブラウン、カシーフまでもが参加し、デビュー作としては豪華過ぎるゲストを迎えて制作された。1984年夏にはセカンドソロアルバム『Pumpin』をリリース。フォンジーは結局2枚のアルバムを残し、またスタジオ・ワークに戻った。

彼はセッションシンガーとしてのキャリアを維持し、アレサ・フランクリンとは定期的に、そして彼女が亡くなるまで共演した。
2010年、ナイル・ロジャースはシックの未発表音源を大量に発掘し、その中から1980年のフォンジー・ソーントンの幻のアルバム音源を発見、「I Work For A Living」と「I'll Change My Game」の2曲をリミックスした。これらはシックのボックスセット『サヴォアフェア』に収録されて、30年ぶりに日の目を見ることになった。
2015年にはシックのシングル「I'll Be There」でバッキングボーカルとして参加した。

Luther Vandross(ルーサー・ヴァンドロス/vo)

言わずと知れた20世紀を代表するR&B、ブラコンシンガーの第一人者。シックの結成時にコーラス兼アレンジャーとしてサウンドに大きく貢献した。本名Luther Ronzoni Vandross。ニューヨーク市マンハッタン生まれ。
高校生の頃、Shades of Jade のメンバーとして一度ハーレムのアポロ・シアターでも演奏した。60年代後半から70年代前半には「リッスン・マイ・ブラザー」というバンドを作り、1969年頃にはTV番組「セサミストリート」にレギュラー出演していた。このバンドにはルーサーの他にフォンジー・ソーントン、ロビン・クラーク、そしてロビンの旦那のカルロス・アロマーも参加していた。そこでナイル・ロジャース、バーナード・エドワーズとも出会った。

70年代中頃になると、ヴァンドロスは 5人組グループである「ルーサー」を結成し、1976年にはアルバム『Luther』1977年には『This Close to You』(1977年)を発表した。ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズはルーサーのバック・バンドのメンバーでもあった。
1977年、ナイル・ロジャース、バーナード・エドワーズ、そしてウッドウィンズ奏者ケニー・リーマンの3人で「Dance, Dance, Dance」を作り、それがレコード会社の目に留まり、デビューの機会を得た。すぐにアルバム制作にあたり、バンドとしての体裁を整えた。シンガーにはルーサー・ヴァンドロスとノーマ・ジーン・ライトらコーラス陣を加えて、デビューアルバム『ダンス・ダンス・ダンス(Chic)』が録音された。
ルーサー・ヴァンドロスとフォンジー・ソーントンはヴォーカル・アレンジャーとしての役割も果たし、シック的ユニゾン・ヴォーカルスタイルを完成させた。これはコーラスと違い、同じメロディーをそれぞれが違う声で歌うというスタイルだった。1978年前半には、ルーサー・ヴァンドロスは自身のキャリアを優先するためシックのツアーに参加しなくなった。

1980年、フランス系イタリア人プロデューサーのジャック・フレッド・ペトラスが生んだダンス・ユニット「チェンジ」に、ヴォーカルとして迎えられた。このチェンジのデビューアルバムから「A Lover's Holiday」「The Glow of Love」「Searching」の3曲でヴァンドロスはボーカルを務めた。
特にヴァンドロスは「The Glow of Love」を気に入っていて、後の 2001年に Vibe Magazine のインタビューでは「私がこれまで人生において歌った中で、もっとも美しい曲」と語っている。
またこの「The Glow of Love」はジャネット・ジャクソンの全米ナンバーワンソング『All for you』のサルプリングネタにもなっており、ジャネットはヴァンドロスとの共演もあるものの「The Glow of Love」は知らなかったとのエピソードもある。
1981年、ペトラスの新しいダンス・ユニットThe B.B.& Q. band にもバック・ボーカルとして参加した。同じ年、ソロデビュー・アルバム『Never Too Much』を発表し、ヴァンドロス自身が書いた曲『Never Too Much』は、ビルボードR&B チャートで1位を獲得した。この頃より、ベーシストのマーカス・ミラーと共同制作するようになり、ミラーはヴァンドロスの数多くの作品でプロデュースを務めるようになる。
1989年のコンピレーション・アルバム『The Best of Luther Vandross... The Best of Love』に収録されたバラード『Here and Now』は、ビルボード・ポップ・チャートで初めてのトップ 10 ヒットとなり、最高 6位を記録、そして、第33回グラミー賞で最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞し、初めてのグラミー賞受賞となった。

1990年代は更に躍進し、1991年に発表した『Power of Love/Love Power』が第34回グラミー賞で最優秀男性 R&B 楽曲賞を受賞した。1992年の映画『モー・マネー』で使われたジャネット・ジャクソンとのデュエット曲『The Best Things in Life Are Free』は、ポップ・チャートでトップ 10 ヒットとなり、1994年に発表したマライア・キャリーとのデュエット曲『エンドレス・ラブ』もまたトップ 10 ヒットとなった。ヴァンドロスは 1981年から 1994年までの間毎年、R&B チャートでトップ 10 ヒットを記録した。
1997年には『Your Secret Love』で、3回目のグラミー賞獲得となる最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞した。2003年のアルバム『Dance With My Father』でもグラミー賞で最優秀楽曲賞を受賞した。また、この曲は同時に 4回目となる最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞した。アルバムは、Billboard 200で初めてとなる1位を記録した。グラミー賞でも初の最優秀R&Bアルバム賞に輝き、またビヨンセとのデュエット『The Closer I Get to You』も最優秀R&Bデュオ/グループ賞を受賞した。

2003年4月16日、ヴァンドロスはマンハッタンの自宅で、脳卒中で倒れた。アルバム『Dance With My Father』にボーカルを録音し終えたばかりだった。『Dance With My Father』は、ヴァンドロスにとって最初で最後の初登場1位を記録し、タイトル曲は 2004年にグラミー賞の最優秀楽曲賞を獲得した。
2005年7月1日心筋梗塞で54年の生涯を閉じた。

Chic(シック)のディスコグラフィー

スタジオアルバム

CHIC(ダンス・ダンス・ダンス)

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