Chic(シック)とは【徹底解説まとめ】

Chic(シック)とは、1977年にデビューしたアメリカのディスコ・ファンクバンドである。中心メンバーはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ。『おしゃれフリーク」』や『グッド・タイムス」』等のビルボードNo.1を発表し、1970年代後半のディスコ・ブームを牽引した。80年代はナイルとバーナードはプロデューサーとして活躍。マドンナやデヴィッド・ボウイ、ダイアナ・ロスなどのアーティストを大ヒットさせた。現在もナイル・ロジャースを中心に活動するダンスミュージック界のレジェンドである。

Chic(シック)の概要

Chic(シック)とは、1977年にデビューしたアメリカのファンク、ディスコ・バンドである。中心メンバーはギターのナイル・ロジャースとベースのバーナード・エドワーズ。英語でのバンド名の発音は「シーク」に近い。

1970年代後半のディスコ・ブームを牽引したグループのひとつである。代表曲は『Le Freak』(邦題『おしゃれフリーク』)と『Good Times』(邦題『グッド・タイムス』)。共にビルボード全米No.1に輝いた。ディスコブームの終焉と同時にバンドとしての活動は停滞し、シックは1983年に活動を終了するが、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズはプロデューサーとして活躍。80年代はマドンナやデヴィッド・ボウイ、ダイアナ・ロス、デュラン・デュランなどのアーティストをプロデュースし、大ヒットさせた。

1992年に活動を再開したが、ドラムス担当のトニー・トンプソンは活動再開には参加せず、その後、2003年に死去。1996年日本武道館公演の翌日にバーナード・エドワーズが客死したため、オリジナルメンバーは唯一ナイルのみである。

2013年にはナイル・ロジャースはダフト・パンクのアルバム『ランダム・アクセス・メモリーズ』に参加、シングル「Get Lucky (featuring Pharrell Williams and Nile Rodgers)」は大ヒットを記録。ナイル・ロジャースはジャケットやPVにも出演し、再び注目が集まった。

2018年、ナイルはナイル・ロジャース&シック名義のアルバム『イッツ・アバウト・タイム』をリリースし、今なお現役で活躍するダンスミュージック界の伝説である。

Chic(シック)の活動履歴

ビッグ・アップル・バンド時代

ビッグ・アップル・バンド時代のナイル・ロジャース(中央)とバーナード・エドワーズ(手前)

シックは1977年ニューヨークで結成された男女混合7人組のバンドである。しかしその中心はギターのナイル・ロジャースとベースのバーナード・エドワーズで、残りのメンバーはほとんど固定せず、実質的にはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズのプロジェクト・チームといえる。それにドラムのトニー・トンプソンを加えた3人がシックのオリジナルメンバーとなり、その他は女性ボーカリストが都度代わっていった。

ナイル・ロジャースは1952年9月19日ニューヨーク生まれ。バーナード・エドワーズは1952年10月31日、ニューヨーク近郊のニューコネチカット生まれ。トニー・トンプソンは1954年11月15日、ニューヨークのクイーンズで生まれた。
揃って52年生まれのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは10代の頃から数々のセッションで腕を磨き、苦労を共にしていた。2人は1970年にTV番組「セサミ・ストリート」のツアー・メンバーとして出会う。1972年頃にThe Big Apple Bandのバンド・リーダーをしていたバーナード・エドワーズは、いつものようにナイルをバンドに引き入れ活動していた。そこに参加していたのがドラマーのトニー・トンプソンだった。
The Big Apple Bandは、1973年の『I'm Doin' Fine Now』のヒットで知られるヴォーカル・グループ「New York City」のバックやキャロル・ダグラスのツアーバンドを務めていた。トニー・トンプソンは、後年ナイル・ロジャースと共演することになるドラマーのオマー・ハキムとも仲間で、当時まだ未成年だったハキムは昼の仕事を、夜のライヴ・ハウスでの仕事をトンプソンが行ったという。なお同じNY市を拠点として活動していたバンド「ルーサー(Luther)」のリーダー、ルーサー・ヴァンドロスも仲間であり、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズはルーサーのバック・バンドのメンバーもしており、この頃みんな顔見知りであった。

New York City解散後もバンドを継続させていた彼等は、色々な音楽スタイルを演奏する為にThe Boys名義でも活動した。The Big Apple Bandではソウルのカヴァーを、The Boysではファンク・ロックを演奏した。そしてそのThe Big Apple Band が1976年「エヴリバディ・ダンス」のシングルを自費でプレスする。それがナイル、バーナードの知らない間にニューヨークの先鋭的なディスコだった「ナイト・アウル・クラブ」で話題となり、ナイル達はニューヨークの夜の有名人となっていた。
しかし1976年、作曲家でありアレンジャー、プロデューサーであるウォルター・マーフィーが、ベートーベンの交響曲第5番(運命)をディスコ・リメイクし、「ウォルター・マーフィーとビッグ・アップル・バンド」による『A Fifth of Beethoven (運命76)』として発表し、全米大ヒットを収めた為、同名だった彼らのビッグ・アップル・バンドは名前の変更を余儀なくされた。バンドはバーナードの発案でシックと改名する。(日本ではシックだが、正確な発音はシーク)。
オハイオや西海岸のファンク・バンドとは違うニューヨークの洗練されたイメージを打ち立て、更に、かつてデューク・エリントンやカウント・ベイシーがパリで人気を得たことなどをヒントにフランス的なモードを気取ったとナイルは後に語っている。

1970年代後半〜シック・デビュー

左から、バーナード・エドワーズ、アルファ・アンダーソン、トニー・トンプソン、ルーシー・マーティン、ナイル・ロジャース

1977年、シックはデビュー・アルバム『Chic』を発表する。
スタジオ・プロジェクト的な性格が強かったファースト・アルバムには、ナイル、バーナード、トニーの演奏陣に加え、メインボーカルのノーマ・ジーン・ライトを中心に、アルファ・アンダーソン、ディーヴァ・グレイ、ルーサー・ヴァンドロス、ロビン・クラークといったNYのセッション・シンガーが集結。その後ルーシー・マーティンが加わり、ノーマ・ジーンとのツイン・ボーカルとなる。
アルバムからのファーストシングル「ダンス・ダンス・ダンス Dance,Dance,Dance(Yowsah Yowsah Yowsah)」は全米チャートを一気に駆け上がり、いきなり第6位のヒット、全米ディスコ・チャートでは8週連続1位となる。

勢いに乗るシックは1978年セカンド・アルバム『エレガンス・シック C'est Chic』を発表。この頃にはメインボーカルだったノーマ・ジーンがソロ活動のため独立し(78年のソロ作はナイルとバーナードが制作)、アルファ・アンダーソンがリードに格上げとなる。その後はコーラス陣からルーサーが抜け、後にフォンジ・ソーントンやジョセリン・ブラウンらが加わるなどの変遷を経るが、83年作『Believer』までは、ナイル、バーナード、トニー、ルーシー、アルファの5人を中核メンバーとして活動を続けていくことになる。そしてこの2ndアルバムからは『おしゃれフリーク Le Freak』が全米ナンバーワンに輝く。
1978年といえば、ジョントラボルタ主演の映画『サタデーナイトフィーバー』が社会現象となるヒットとなり、空前のディスコブームが到来した。全米チャートも、ビージーズを筆頭に、ドナ・サマー、テイスト・オブ・ハニー、グロリア・ゲイナー、アニタ・ワード、ヴィレッジ・ピープル等、白人黒人問わずディスコソングが軒並み全米チャートナンバーワンに輝いた。あのロッド・スチュアートやKISSまでもディスコソングを発表するなど、世はディスコミュージック一辺倒であった。
そんな中、シックの『おしゃれフリーク』もビルボードチャートナンバーワンに輝き、1979年のビルボード年間チャートでも第3位に輝くのである。
因みにこの年の年間チャートナンバーワンは、シックではなく、ナックの『マイシャローナ」』で、これはディスコとは全く関係なく、ナックは「元祖一発屋」と呼ばれ、世にいう一発屋の先駆けとなった。
勢いにのるシックは翌1979年、3rdアルバム『危険な関係 Risque』を発表、ここからもオープニングトラック『グッド・タイムズ』が全米ナンバーワンヒット。シックの人気はいよいよピークに達した。

世界的なディスコブーム〜シスター・スレッジ

シックの二人、バーナード・エドワーズ(手前)とナイル・ロジャース(奥)、そしてシスタースレッジの四人。

快進撃を続けるシックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは、この年、シスタースレッジの3rdアルバム『We Are Family』をプロデュースする。
『Le Freak』の大当たりにより所属のアトランティック・レコードはご褒美にナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズの二人にアトランテッィク所属で気に入ったアーチストがいたらプロデュースして構わない、とオファーした。そこで二人が選んだのがシスター・スレッジで、特に最年少のキャシー・スレッジのパワフルな歌声はアレサ・フランクリンに匹敵するとベタ褒めだった。
シックの曲としてレコーディングを予定していた 『He's The Greatest Dancer』を姉妹のために提供し、この曲が姉妹の初めてのナショナル・ヒットとなった。更にタイトルソング『We Are Family』もR&Bチャートで1位を記録、作詞作曲もシックなら演奏もナイル、バーナード、トニーの3人。まさにシックのスピンオフといった内容のアルバムとなる。その他「Lost in music 」「Thinking of you 」と、いまなお人気を誇るクラブ・クラシックスの定番曲が揃っており、後にナイルは、今までプロデュースしたアルバムでベスト作品だと語っている。
シスタースレッジは、もともと女性版ジャクソン5を目指して1971年に結成された4人姉妹のグループで、1977年の2ndアルバム『Together』から『Blockbuster Boy』を中ヒットさせるが、シックとの出会いで才能は一気に開花する。さらに1980年発表の4thアルバム『Love Somebody Today』もシックサウンド全開で、『Got To Love Somebody』がスマッシュ・ヒットとなり、姉妹は一躍トップ・グループへと登り詰めることになった。
時代の寵児となったシックの2人は、ある大御所から声がかかる。

1980年〜ダイアナ・ロス

1980年代の女王、ダイアナ・ロス

1976年に『ラヴ・ハングオーヴァー』でNo.1を獲得して以降しばらくヒット作に恵まれていなかったソウルの女王、ダイアナ・ロスが、時代の音を取り入れようと、ヒット作を連発していたシックに声をかけた。
1980年、彼らがプロデュースしたアルバムは『ダイアナ』と題され、シングル「アップサイド・ダウン」はまさに炸裂するシックの演奏に女王ダイアナが乗っかったようなサウンドで、たちまち全米ナンバーワンを獲得、ダイアナ・ロス自身が持つ18曲のナンバーワンソングの中でも最大のヒットとなった。
このように78年から80年にかけて世界のディスコミュージックは完全にシック色に染まったのである。シックは僅か3枚のアルバムで歴史に名を刻んだのであった。
おしゃれでエレガントなディスコミュージックで世界を席巻したシックだが、ディスコブームの終焉とともに、シックとしての全盛期もあっけなく終わりを迎える。この後も彼らは『Real People』(1980年)、『Take it off』(1982年)、『Tongue in Chic』(1982年)、『Believer』(1983年)と次々にアルバムを発表していくが、初期の3枚に漂っていた、エレガントでエロティックな面は消え、より明るくファンクネスが強調されるサウンドとなっていった。シックがディスコを離れ、ファンキーさにより磨きをかけながらも、ポップ路線にも舵をとるようになる。
より白人寄りのエッセンスを取り入れていくことにより、ナイルとバーナードのシックの二人は次なる快進撃へと進んでいくことになるのである。

デヴィッド・ボウイからのオファー

ナイル・ロジャース(左)バーナード・エドワーズ(中央)デヴィッド・ボウイ(右)

シックとしての活動は1983年発表のラストアルバム『Believer』をもって終了する。
しかしこの年、イギリスロックのスーパースター、デビット・ボウイがEMIに移籍し、新たな自分のスタイルを模索し、ナイル・ロジャースに声をかける。
ナイル・ロジャースもパートナーのバーナード・エドワーズと離れており、ソロとして手がける最初のビックなプロジェクトであった。ボウイとナイルは「モダン・ビック・バンド・ロック」というコンセプトのもとダンサンブルな作品作りを試みる。ところがボウイが召集したミュージシャン達ではナイルが思い描く様なグルーブを生み出すことができず、結果、バーナードとトニーを呼び寄せ出来上がったアルバムが『Let's Dance/レッツダンス』である。
そしてタイトルトラック『Let's Dance』は見事ビルボード1位を獲得。アルバムも、83年度のグラミーのアルバム部門にもノミネートされ、ボウイにとってもキャリア最大のヒット作となった。因みにこの年のグラミー賞はマイケル・ジャクソンの『スリラー』が独占した。
ナイルにとってもこのプロデュースの成功がターニングポイントとなり、超売れっ子プロデューサーとなっていく。

マドンナをスターダムに押し上げる

マドンナ(左)とナイル・ロジャース(右)

1984年、当時ニューロマンティックの旗手としてティーンエイジャーを中心に熱烈な支持を集めていたイギリスのバンド、デュラン・デュランが3rdアルバムを発表、オープニング曲の「The Reflex」のリミックスをナイルが手がける。結局このリミックスバージョンがシングルカットされ、「The Reflex」はデュラン・デュランにとって初の全米ナンバーワンを獲得する。イギリスのアイドルグループがナイルの手により全米を制覇した。

そしてナイルはマドンナを手がける。
それまでのマドンナは『Holiday』や『Border line』など全米トップ10にたびたびチャートインするものの、まだ個性を発揮できてない並のアーティストであった。作曲者のビリー・スタインバーグとトム・ケリーの2人は、『Like a Virgin』を書き上げた時、マドンナが誰なのか本当に知らなかったらしい。マドンナのレーベルは、デヴィッド・ボウイでの仕事が評価されていたナイル・ロジャースをチーフプロデューサーとして迎えアルバム制作を開始した。
シックのメンバーのサポートを受け、ニューヨークのパワーステーションスタジオで迅速に制作は進められ、完成されたアルバム『Like a Virgin』からのタイトルシングル、「Like a Virgin」はマドンナの運命を一変させた。マドンナという若手の女性シンガーがビルボード1位になってしまうことに当時違和感を覚えた人も多かったが、その後のマドンナの華麗なる活躍を思うと、この曲がいかにマドンナの運命を変えたかがわかる。
『Like a Virgin』は1984年12月にNo1に輝き、年が明けて1985年最初の1月5日のチャートでも1位をキープ、そして2位にはナイルが手がけたデュラン・デュランの『Wild Boys』が、さらに3位にはナイルも参加したハニー・ドリッパーズの『Sea Of Love』と、1位、2位、3位をナイル関連の曲が独占する快挙となった。

パワー・ステーションとロバート・パーマー

パワーステーションの四人。左から、ロバート・パーマー、アンディ・テイラー、ジョン・テイラー、トニー・トンプソン

1985年、ナイル・ロジャースは、解散の危機が囁かれていたザ・ローリング・ストーンズのボーカルであるミック・ジャガーのファースト・ソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を手がける。シングル・カットされた「ジャスト・アナザー・ナイト」は全米12位、アルバムは全米13位とチャート的には及ばなかったが大きな話題となった。
そしてこの年、バーナード・エドワーズは「パワーステーション」を手がける。
パワーステーションはデュラン・デュランのサイドプロジェクトであり、ロバート・パーマーのファンだったベーシストのジョン・テイラーが、パーマーに話を持ちかけたところから始まった。メンバーはデュラン・デュランからジョンとアンディ・テイラーの2人、ボーカルはロバート・パーマー、ドラムにはシックからトニー・トンプソンが加わった四人編成のグループである。
「セックス・ピストルズとシックの融合」というジョン・テイラーの言葉を体現するかのようなエッジの効いたギターとパワフルなファンクサウンドが特徴で、「Some Like It Hot」やT-REXのカバー「Get It On」のシングルヒットを生んだ。
全米進出を狙っていたロバート・パーマーはこの成功で自信がつき、次のソロアルバムもバーナードに依頼する。『RIPTIDE』と名付けられたアルバムからのセカンドシングル『Addicted to Love / 恋におぼれて』はBillboard Hot100チャートとBillboardTop Rock Tracksチャートで見事ナンバーワンを獲得。ロバート・パーマーの全米制覇の夢が叶った。

サイドプロジェクトから戻ったデュラン・デュランはバーナードを迎え、映画『007』の主題歌を担当する。タイトルソング「View to a kill 美しき獲物たち」は007ソング初の全米ナンバーワンを獲得した。バーナードとナイルはこれ以降は全米ナンバーワンソングの誕生はないものの、常にヒットチャートの常連となる。
バーナードは、イギリスのニューウェーブバンドABC の「When Smokey Sings」や、元シャラマーのボーカリスト、ジョディワトリーのファーストソロアルバムから「Don’t you want me」をチャートインさせる。一方のナイルは、1989年にアメリカのニューウェーブバンドThe B-52's, のアルバムをプロデュースし、「Cosmic Thing」「Deadbeat Club」「Roam」等のシングルヒットを生み出す。

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