Chic(シック)の徹底解説まとめ
Chic(シック)とは、1977年にデビューしたアメリカのディスコ・ファンクバンドである。中心メンバーはナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ。『おしゃれフリーク」』や『グッド・タイムス」』等のビルボードNo.1を発表し、1970年代後半のディスコ・ブームを牽引した。80年代はナイルとバーナードはプロデューサーとして活躍。マドンナやデヴィッド・ボウイ、ダイアナ・ロスなどのアーティストを大ヒットさせた。現在もナイル・ロジャースを中心に活動するダンスミュージック界のレジェンドである。
1990年代〜CHIC 再結成
怒涛の80年代も落ち着きがみえだした89年秋、ナイルの誕生パーティの席上で即席ライヴ・バンドが組まれ、二人が久々にシックの曲を演奏する機会があった。これを機に、終了したと思われていたシックが再び動きだす。そして1992年、シックは復活する。
トニーはこの頃L.A.に拠点を移しており不参加となったが、シンガーにはオーディションでシルヴァー・ローガン・シャープが選ばれ、彼女の推薦で友人ジェン・トマスを加えた四人編成での再結成となった。
9年ぶりの復活アルバム『Chic-ism』からはシングル「Chic Mystique」がダンス・チャートやR&Bチャートでスマッシュヒットした。
バーナード・エドワーズ、トニー・トンプソンの死
1993年、ナイル、バーナード、トニーの3人は、エリック・クラプトンのレコーディングで久しぶりに顔を合わせる。ジミー・ヘンドリックスへのトリビュートアルバムの為に『Stone Free』と『Burning of the Midnight Lamp』の2曲を録音するが、3人が揃って演奏するのは『Like a Virgin 』以来、実に9年振り、そして結果的にこれが3人が揃った最後のセッションとなった。
1994年から、プロデューサーを主役とするユニークなコンサート・シリーズ「JTスーパー・プロデューサーズ」が日本で開催された。第一回はデイヴィッド・フォスター、第二回はナラダ・マイケル・ウォルデンが選ばれ、1996年第三回ではナイル・ロジャースが招待された。
彼はシックを引き連れて来日、これがシックの初来日であった。ベースはバーナードエドワーズ、ドラムには盟友オマー・ハキム、ゲストにはシスター・スレッジ、スティーヴ・ウィンウッド、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュ、デュランのデュランのサイモン・ル・ボン等が参加した。
大阪で一回、東京で二回行われたが、最終公演ではバーナードは体調がすぐれず、点滴を打ちながらライブを行った。そしてその翌日、バーナード・エドワーズはホテル自室で息を引き取った。享年43歳。死因は不明だが風邪とも肺炎とも言われている。
相棒の突然の死によりライヴへの意欲さえも無くしていたナイルだったが、ナイルの後を引き継いだベーシスト、ジェリー・バーンズと、彼の妹でキーボーディストのカトリース・バーンズの2人の尽力によりシックは再編され、1997年シックは再び日本の地にやってきた。そしてこの年より、ほぼ毎年来日公演を行う様になった。
2003年トニー・トンプソンが亡くなる。そして2005年にはルーサー・ヴァンドロスもあの世に旅立ち、シック初期のメンバーはナイルのみとなってしまった。
2010年代〜ダフト・パンク
2010年10月、ナイル・ロジャースの身体に前立腺癌が見つかる。
翌年1月、自身のブログ「Walking on Planet C」で公表された。「Walking on Planet C」のCは癌(cancer)のことであり、惑星Cを歩むという意味で、癌と闘う決意の表明であった。
2011年3月11日、東日本大震災が起きると、闘病中のナイルは即座に動画でコメントをし、翌4月には体調をおしながら見事に来日公演を果たした。術後の経過は良好で、後年、彼は完治を宣言した。
デビュー時より様々なアーティストに影響を与えてきたシックとナイル・ロジャースだったが、2010年代に入りその流れは激化する。様々なアーティストとのコラボのオファーが増え、「featuring Nile Rodgers」が広く浸透していく。そのきっかけとなったのはエレクトリック・ダンス・ミュージック(EDM)の隆盛である。70年代にディスコを制したナイルの大御所としてのキャリアに脚光があたり、様々な若いアーティストからラブコールを受けるようになる。
2013年、ナイル・ロジャースはEDMの代表格といえるダフト・パンクのアルバム『ランダム・アクセス・メモリーズ』に参加する。コンピューターの打ち込みがメインだったバンドにナイルの生ギターを注入する初めての試みだった。結果、シングル「Get Lucky (featuring Pharrell Williams and Nile Rodgers)」は大ヒットを記録。ファレル・ウィリアムスとナイル・ロジャースはジャケットやPVにも出演し、彼を知らない世代や層からも注目を浴びた。
ダフト・パンクは2013年のグラミー賞に於いて5部門を獲得。共作者/演奏者として、ナイルもそのうちの3部門を受賞する。ナイルにとってはこれがキャリア初のグラミー賞の受賞だった。授賞式での『ゲット・ラッキー』のパフォーマンスには、ナイル・ロジャースとファレル・ウィリアムスの他、レコーディング・メンバーであったドラムのオマー・ハキムやベースのネイザン・イースト、そしてスティーヴィー・ワンダーまでもが参加した。
ダフト・パンクとの共演後もオファーは止まらず、アダム・ランバートや、アヴィーチー、サム・スミス、そしてレディー・ガガなど、シックを知らない若いアーティスト達が、自分達のルーツとしてナイルとの共演を熱望した。
長い間裏方として活動を続け、ひたすらカットギターに専念してきたナイル・ロジャースだったが、還暦を過ぎて一気に表舞台に立ち知名度をあげる例はまさに稀有である。
シック、25年ぶりのニューアルバム
ダフト・パンクとのコラボによりスイッチの入ったナイルは、その後精力的に若いアーティスト達とのコラボを続ける。そして2015年、シックはおよそ23年ぶりに新曲『』アイルビーゼア I'll Be There』を発表する。
ナイルは新しいボーカリストのフォラミ・アンコアンダ・トンプソンとキム・デイヴィスの他に、シックのオリジナルボーカリスト、アルファ・アンダーソンとルーシー・マーティン、そしてフォンジー・ソーントンをスタジオに招いて録音した。
2018年、ナイル・ロジャースはVirginと電撃契約を果たし、シックは実に25年ぶりの新作『It’s About Time』を発表した。その後もナイル・ロジャースは精力的にツアーを続けている。
2022年3月29日、ウクライナ救済と支援のために「コンサート・フォー・ウクライナ」がバーミンガムのリゾート・ワールド・アリーナ・バーミンガムで開催され、イギリスのテレビ局ITVが放送した。2時間のコンサートにはナイル・ロジャースも参加し、エド・シーラン、カミラ・カベロ、ジャマラ、アン・マリー、スノウ・パトロール、マニック・ストリート・プリーチャーズ、グレゴリー・ポーターらが出演、人道支援のために約19億円以上が集まった。
ナイルは「ウクライナの紛争の影響を受けた人々とともにわれわれも一緒に戦うこと、そしてわれわれは〝家族〟であることを示すことが重要だ」とコメントしている。
Chic(シック)のメンバー
Nile Rodgers (ナイル・ロジャース /g)
ナイル・ロジャース(本名Nile Gregory Rodgers)は1952年9月19日ニューヨークに生まれた生粋のニューヨーカーであり、両親はビートニクという文学的思想やライフスタイルを実践しており、先進的な家庭に育った。
1970年にTV番組「セサミ・ストリート」のツアー・メンバーに参加し、そこでバーナード・エドワーズと出会う。70年代半ばには、ナイルはアポロ・シアターのハウス・バンドにも所属し、音楽監督になる。また、ヴォーカル・グループNew York Cityのバックを務めるThe Big Apple Bandで、バンド・リーダーであったバーナード・エドワーズと共に活動する。New York Cityは解散したが、その後はバンドを継続させ、更に色々な音楽スタイルを演奏する為にThe Boysという名義でも活動した。
The Big Apple Band名義で『Everybody dance 』をリリース、ニューヨークの先鋭的なディスコだったナイト・アウル・クラブで話題となったが、同じ頃ウォルター・マーフィーが、映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』に採用された『運命 '76』を「ウォルター・マーフィ&ビッグ・アップル・バンド」名義で全米ヒットさせたため、ナイルらのビッグアップル・バンドは名前の変更を余儀なくされた。
そして1977年、シックを結成し、デビュー・アルバム『Chic』を発表。1978年のシングル「ダンス・ダンス・ダンス Dance,Dance,Dance(Yowsah Yowsah Yowsah)」はいきなり全米6位のヒットとなった。勢いに乗るシックは1978年セカンド・アルバム『エレガンス・シック C'est Chic』を発表。アルバムからは『おしゃれフリーク Le Freak』がビルボード全米ナンバーワンを獲得、続く1979年のアルバム『危険な関係 Risque』からも『グッド・タイムズ』が全然ナンバーワンを獲得し、シックの人気はいよいよピークに達した。
同時にこの頃ナイルとバーナードは、シックのスピンオフともいえるノーマ・ジーンの1978年のソロ・デビューアルバム『噂のサタディ・ガール』や、さらに1978年のシスター・スレッジのサード・アルバム『華麗なる妖精たち』をプロデュースし大ヒットさせた。
ディスコブームが一瞬にして去った1980年、シックは4枚目のアルバム『Real People』を発表するが、この頃からシックの人気は一気に下降線を辿る。しかしそれと入れ替わるかの如く大ヒットしたのが、ナイルがプロデュースしたダイアナ・ロスの『アップサイド・ダウン』だった。
シックは1983年にその活動に終止符を打ったが、それと反比例するかの如くナイルのプロデューサーとしての活躍は飛躍する。
同じ年にデヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』、翌1984年にはマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』と、80年代を代表する名作を次々とプロデュース。その他にもナイルがプロデュースしたアーティストは、デュラン・デュラン、インエクセス、ミック・ジャガー、ジェフ・ベック、トンプソン・ツィンズ、デボラ・ハリーなど錚々たるアーティスト達である。
さらにナイルはレッドツェッペリンのプレ復活作とも呼ばれたロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックらと結成したスーパーグループ「ハニー・ドリッパーズ」にも参加した。1980年代後半になってもプロデューサーとして引っ張りダコの状態が続き、B-52’s、ポール・ヤング、ストレイ・キャッツ、デヴィッド・ボウイ、デヴィッド・リー・ロス、アル・ジャロウなどををプロデュースした。
プロデューサーとしての激動の80年代を過ごし、しばらくひと段落した1992年、シックは新作を発表する。しかしシックとして来日した1996年の東京公演の翌日、朋友のバーナード・エドワーズがホテルの一室で客死するという悲劇に見舞われる。
しかし、映画・ゲームのサウンドトラックや自社レーベルの立ち上げなど、裏方を中心に活動を続け、2000年代にはグラミー賞の音楽監督を務めた。その後も旧友のオマー・ハキムを従え、シックを再結成し、各地でツアーを行うなど、精力的に活動した。
2011年1月、ウェブサイトで癌の手術を受けたことを公表した。
2013年にリリースされた、ダフト・パンクのアルバム『ランダム・アクセス・メモリーズ』内の3曲にギタリストとして参加したあたりから再び注目を浴び出し、マーク・ロンソン、ブルーノ・マーズといった、今のクラブミュージックのアーティストや、ナイルがシック時代に作っていた楽曲を聴いて育った若いアーティスト達が、このダンスミュージック界のレジェンドとの共演を熱望し、ナイルは還暦を過ぎて第三のブレークを果たした。
ナイルはプロデュースも手がければ、フィーチャリングギターもやる。そしてナイルはパフォーマーとして決して表に出過ぎない。リード、ソロギターを弾かない、デビュー当時からずっと同じカッティングを弾き続けている。日本を代表するギタリストの高中正義氏も「東のナイルロジャース、西のアルマッケイ(アース・ウインド&ファイアー)」と称賛するほどのカットギター職人である。
30年、40年現役というプロデューサー、アーティストはたくさんいるが、その最前線、第一線で活躍し、常にトップアーティストとコラボしている人はほとんどいない。70代になってなお最先端の音楽を追い求めている、まさにダンスミュージック界の生きる伝説である。
Chic(シック)の旧メンバー
Bernard Edwards(バーナード・エドワーズ/b)
バーナード・エドワーズ(Bernard Edwards 1952年10月31日-1996年4月18日)はシックのベーシスト。ナイル・ロジャースと同じ1952年にノース・カロライナ州グリーンビルで生まれ、ニューヨーク市ブルックリンで育った。ロジャースとは対照的に典型的な黒人家庭で育ち、R&Bやファンクの洗礼を受けていく。
彼のベース・プレイは、フレーズ作りは独創的ではあるものの、その音色自体はモータウンのジェームス・ジェマーソンやブッカー・T & The MGsのドナルド・ダック・ダンといった、エドワーズが10代だった頃の1960代に活躍した名だたるベースプレーヤー達の影響を感じさせる。
1970年頃、バーナードはギタリストのナイル・ロジャースとセサミ・ストリートで出会い、その後「ニューヨーク・シティ」というバンドのバックアップバンドである「ビッグ・アップル・バンド」を結成、ドラマーのトニー・トンプソンも加え、活動を続けていた。ところが、アレンジャーや音楽プロデューサーとして活動していた「ウォルター・マーフィー」が、ベートーベンの交響曲第5番をディスコ・リメイクした『運命76(A Fifth of Beethoven)』を「ウォルター・マーフィーとビッグ・アップル・バンド」名義で発表し、ヒットさせたため、ナイルとバーナードのバンドは名前の変更を余儀なくされた。
1977年、バーナードとナイルは、トニーに加えて女性ヴォーカルにノーマ・ジーン・ライトらを迎え、男女混合7人組ファンクバンド「シック」(Chic)を結成した。
1977年、シングル「ダンス・ダンス・ダンス(Dance, Dance, Dance [Yowsah, Yowsah, Yowsah])」でデビュー。全米6位の大ヒットとなった。その後『Le Freak』『GoodTimes』等のビルボード全米ナンバーワンソングを連発して世界的ディスコブームを牽引する。
同時にバーナードとナイル・ロジャースの二人は、ある時は共同で、ある時はそれぞれが独立してプロデューサーとして活躍。1979年シスター・スレッジ『華麗な妖精たち(We Are Family)』、1979年シェイラ & B.ディヴォーション『スペイサー(Spacer)』、1980年シスター・スレッジ『ときめき(Love Somebody Today)』、1980年ダイアナ・ロス『ダイアナ(Diana)』、1981年デボラ・ハリー『予感(KooKoo)』などのプロデュースを行いヒットさせた。
ディスコブームの終焉と同時にバンドとしての活動は停滞して行き、シックは解散。その後はデビット・ボウイの『レッツ・ダンス』(1983年)、マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』(1984年)、ミック・ジャガー『シーズ・ザ・ボス』(1985年)など、ナイル・ロジャースとともにプロデューサー/ベーシストとして制作に携わった。
1985年、バーナードはスーパーグループの「パワーステーション」(The Power Station)設立に尽力。バンドのセルフタイトルとなったファーストアルバム『パワーステーション(The Power Station)』はバーナードによるプロデュースで、シックのドラマー、トニー・トンプソン、デュランデュランのメンバーであるジョン・テイラーとアンディ・テイラー、そしてロバート・パーマーが参加。アルバムは全米6位、全英15位を記録した他、シングルでは『Some Like It Hot』が全米6位、全英14位、『Get It On』が全米9位、全英22位のヒットとなった。
同年11月、バーナードは続いて、ロバート・パーマーのアルバム『Riptide』をプロデュース、全米8位、全英5位のヒットに導いた。
バーナードは1980年代から90年代にかけて、ダイアナ・ロス、アダム・アント、ロッド・スチュワート、ジョディ・ワトリー、グレイソン・ヒュー、エアサプライ、ABC、デュランデュランなどのアーティストをプロデュースし続けた。
1990年初頭、バーナードとナイル・ロジャースはバンドを再結成。1992年1月、シックは新しいシングル「Chic Mystique」をリリース、USクラブ・パーティーチャート1 位、ビルボードR&Bチャートで48位に達した。続くシングル「Your Love」はUSクラブ・パーティーチャート3位を記録した。
1996年、日本で開催された「スーパー・プロデューサー・シリーズ」というイベントでナイル・ロジャースとバーナードは日本武道館において久しぶりに共演、4月18日、日本武道館の舞台に立った翌々日、バーナードは「ホテル・ニューオータニ」の一室で急死した。43歳という若さだった。死因は風邪の悪化、癌、シックの活動が止まった不遇な時代の薬物の過剰摂取による心身の消耗等が指摘されているが、定かではない。
Tony Thompson(トニー・トンプソン/dr)
本名アンソニー・テレンス・トンプソン(1954年11月15日– 2003年11月12日)はニューヨーク州ニューヨークのクイーンズにあるスプリングフィールドガーデンズの中流階級のコミュニティで育った。母親はトリニダード、父親はアンティグアと言う英国植民地、連邦の出身であった。
トンプソンはベテランボーカルグループの「Labelle」や、ソウル/ディスコバンドの「Ecstasy」や「Passion&Pain」を経てChicに参加する。後年シックのパックドラムをつとめることになるドラマーのオマー・ハキムも当時から仲間だった。彼等は昼間の遊園地での仕事を当時まだ未成年だったハキム、夜のライヴ・ハウス出演をトンプソンが行ったという。なお同じニューヨークを拠点として活動していたバンド「ルーサー(Luther)」のリーダー、ルーサー・ヴァンドロスも当時から知り合いであった。
シック時代のトンプソンのドラムスタイルは、むしろ叩いた後の「間」にビートが宿る、シャープで正確なリズムが特徴で、そのキレのあるドラミングはシックの大ヒット曲『Le Freak』や『Good Time』は勿論のこと、ダイアナ・ロスの『Upside Down』や『I’m coming out』で最高潮に達する。
1983年にシックが解散した後は、トンプソンはナイル・ロジャースやバーナード・エドワーズがプロデュースする作品を中心に、ジョディ・ワトリー、やマドンナ、ロッド・スチュワート、ロバート・パーマー、デヴィッド・ボウイなど、数多くのアーティストと共演した。特に1984年のマドンナの世界的ヒットアルバム『ライク・ア・ヴァージン』では、収録曲のうち半分はエドワーズ、トンプソン達による生演奏、残る半分は打ち込みサウンドで、その後ナイル・ロジャースのプロデュースは打ち込みが大半になっていくのに対し、バーナードは多くの場合、トンプソンを伴う形でバンド・サウンドを売りとしていく。
1985年、バーナード・エドワーズがプロデュースしたバンド「パワー・ステーション」では、ロバート・パーマー、デュラン・デュランのジョン・テイラーとアンディ・テイラーとともに、トンプソンはドラマーとしてメンバーに参加した。
この頃のトンプソンのドラムは70年代とは別人のように、ロック寄りの固いサウンドに変化した。よりパワフルになり、逆にかつての柔らかくタイトで、しかも正確なリズムから生み出されるグルーブはなくなった。
1985年のライブエイド、チャリティーコンサートでは、トンプソンはパワーステーションとレッドツェッペリンのサポートメンバーとしても参加し、二つのグループでプレイした。その後トンプソンはレッドツェッペリンの再結成メンバーに招待されたが、自動車事故で重症をおった為、その話は流れてしまった。
1989年頃、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは再会を果たし、シック再結成の話が持ち上がったが、トンプソンはこの頃L.A.に拠点を移しており、本格的なロック・バンドを結成してデビューの機会を探っていた事もあり不参加となった。1992年のアルバム『Chic-ism』では、スターリング・キャンベルとソニー・エモリーがドラムを叩いた。
一方、トンプソンは、アフリカ系アメリカ人四人からなるロック・バンド=クラウン・オヴ・ソーンズに参加し、1994年にレコード・デビューを果たす。その後トンプソンは 「The Distance」「Crown of Thorns」「That Hideous Strength」というバンドを歴任し、1996年パワーステーションの再結成に参加する。デュラン・デュランのベーシストのジョン・テイラーは個人的な理由により今回はバンドに加わらず、代わりにバーナード・エドワーズが全てのベースを担当、バーナードはプロデュースも担当し、アルバム『Living in Fear』を発表する。しかし同じ年の4月、バーナードはシックの来日公演の際にホテルの一室で客死、帰らぬ人となってしまった。それでもパワーステーションはバーナード抜きでツアーを行い、12月には来日を果たし、渋谷公会堂でライブを行った。
Crown of ThornsのペーシストMichael Paigeと、ギタリストのDave Scottによるプロジェクト「Non-Toxic」がトンプソンにとっての最後のプロジェクトとなった。
2003年トンプソンは肝臓癌と診断され、49歳の誕生日の3日前、2003年11月12日に亡くなった。パワーステーションのバンドメイトであるロバートパーマーが心臓発作で亡くなってから2か月後のことだった。トンプソンは「Non-Toxic」のメンバーだったが、ファーストアルバムが制作される前に帰らぬ人となってしまった。
2005年9月19日、トンプソンはシックのバーナードエドワーズと同様に、ダンスミュージックの殿堂入りを果たした。
Norma Jean WRIGHT(ノーマ・ジーン・ライト/vo)
目次 - Contents
- Chic(シック)の概要
- Chic(シック)の活動履歴
- ビッグ・アップル・バンド時代
- 1970年代後半〜シック・デビュー
- 世界的なディスコブーム〜シスター・スレッジ
- 1980年〜ダイアナ・ロス
- デヴィッド・ボウイからのオファー
- マドンナをスターダムに押し上げる
- パワー・ステーションとロバート・パーマー
- 1990年代〜CHIC 再結成
- バーナード・エドワーズ、トニー・トンプソンの死
- 2010年代〜ダフト・パンク
- シック、25年ぶりのニューアルバム
- Chic(シック)のメンバー
- Nile Rodgers (ナイル・ロジャース /g)
- Chic(シック)の旧メンバー
- Bernard Edwards(バーナード・エドワーズ/b)
- Tony Thompson(トニー・トンプソン/dr)
- Norma Jean WRIGHT(ノーマ・ジーン・ライト/vo)
- Luci Martin(ルーシー・マーティン/vo)
- Alfa Anderson(アルファ・アンダーソン/vo)
- Robin Clark(ロビン・クラーク/vo )
- Diva Gray(ディーバ・グレイ/vo )
- Fonzi Thornton(フォンジー・ソーントン/vo)
- Luther Vandross(ルーサー・ヴァンドロス/vo)
- Chic(シック)のディスコグラフィー
- スタジオアルバム
- CHIC(ダンス・ダンス・ダンス)
- C'est CHIC(エレガント・シック)
- Risque(危険な関係)
- Real People(リアル・ピープル)
- Take It Off
- Tongue in Chic
- Believer
- Chic-ism
- It's About Time
- ライブ・アルバム
- Live at the Budokan
- A Night in Amsterdam
- コンピレーション・アルバム
- Les Plus Grands Succès De Chic: Chic's Greatest Hits
- Freak Out: The Greatest Hits of Chic and Sister Sledge
- Megachic: Best of Chic
- Dance, Dance, Dance: The Best of Chic
- The Best of Chic, Volume 2
- Everybody Dance
- Chic Freak and More Treats
- The Very Best Of Chic
- Dance, Dance, Dance & Other Hits
- The Very Best of Chic & Sister Sledge
- The Very Best of Chic (2000年、Rhino/Warner)
- Good Times: The Very Best of the Hits & the Remixes (Chic & Sister Sledge)
- The Definitive Groove Collection
- NILE RODGERS PRESENTS THE CHIC ORGANIZATION BOXSET VOL.1 「SAVOIR FAIRE」
- Original Album Series: Chic + C'est Chic + Risqué + Real People + Take It Off (2011年、Rhino/Atlantic)
- Magnifique: The Very Best of Chic
- Nile Rodgers presents The Chic Organization: Up All Night
- サウンドトラックアルバム
- Soup for One(スープ・フォー・ワン)
- シングル
- I'll Be There
- Chic(シック)の代表曲とミュージックビデオ(MV / PV)
- Dance, Dance, Dance(Yowsah, Yowsah, Yowsah)
- Everybody Dance
- Le Freak/おしゃれフリーク
- I Want Your Love
- Good Times/グッド・タイムス
- My Forbidden Lover
- Chic(シック)が関わった代表曲、ミュージックビデオ(MV / PV)
- We Are Family/Sister Sledge
- Thinking Of You/Sister Sledge
- Upside Down/Diana Ross
- Let's Dance/David Bowie
- The Reflex/Duran Duran
- Original Sin/INXS
- Like A Virgin/Madonna
- Some Like It Hot/The Power Station
- Addicted To Love/Robert Palmer
- Get Lucky/Daft Punk
- Pressure Off/Duran Duran
- Boomerang/Emin
- One More/SG Lewis Nile Rodgers
- Who's Hurting Who/Jack Savoretti
- Agua/Daddy Yankee
- Chic(シック)の名言・発言
- ナイル・ロジャース「俺ももう60歳だけど、また波にのったという手応えがあるんだよ」
- ナイル・ロジャース「エレべーターの中でいきなりマドンナから、『ねえ、どうしてわたしとやろうとしないの?』って訊かれちゃってね」
- Chic(シック)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- 『おしゃれフリーク』誕生秘話
- 『グッド・タイムス』がその後に与えた影響
- 『アップサイド・ダウン』のシック・バージョンをモータウンが却下