Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)とは【徹底解説まとめ】

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)とはアメリカのシンガーであり、マイケル・ジャクソンの妹である。1982年、16歳でデビュー。1986年のアルバム『Control』からは「When I Think Of You」が初の全米No.1に輝き、アルバムも初のNo.1となる。その後も『Rhythm Nation 1814』『Janet』とヒットを飛ばし、総売上枚数は1億枚以上、11枚のアルバム中7枚が全米1位、シングル10曲が全米1位を獲得した。世界No.1の女性R&Bシンガーある。

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の概要

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)とは1966年5月16日アメリカ・インディアナ州ゲイリーに生まれた、言わずと知れた音楽一家ジャクソン・ファミリーの末っ子であり、マイケル・ジャクソンの妹である。

幼い頃からショー・ビジネスの世界で活動し、10歳の頃からアメリカのテレビドラマを中心に女優としてキャリアをスタートした。

1982年、16歳でアルバム『Janet Jackson/ヤング・ラヴ』でシンガー・デビューを飾る。
84年には2ndアルバム『Dream Street』を発表。兄マーロンのプロデュースによる1stシングル『Don't Stand Another Chance/ときめきラブチャンス』はR&Bチャートで最高9位を記録した。

1986年、プロデューサーコンビ、ジャム&ルイスを迎えた3rdアルバム『Control』によりジャネットのキャリアは大きく飛躍する。シングル「When I Think Of You」が初の全米No.1に輝くだけでなく、アルバムも初の全米No.1アルバムとなり、シングル・カットされた6曲全てがR&B/ポップ・チャートのいずれかでNo.1を獲得するという、音楽史上類を見ない記録を打ち立てた。

89年に発表された4thアルバム『Rhythm Nation 1814』は4週にわたり全米チャートNo.1を獲得、数ヶ月後にスタートした『Rhythm Nation World Tour 1990』は200万人以上のファンを動員し、音楽史上最も大きな成功を収めたデビュー・ツアーとしてその歴史に記録される事となった。

さらに91年には高額な契約金でヴァージン・レコードへ移籍。93年、移籍第1弾となる5thアルバム『Janet』では、1stシングル「That's The Way Love Goes」が全米8週連続1位という驚異的な記録を打ち立てる。官能的なバラード「Any Time Any Place」ではR&Bチャート10週連続1位という快挙も成し遂げ、アルバムは全世界で2000万枚以上をセールスするというスーパー・スターとしての金字塔を打ち立てた。

2000年には、エディ・マーフィ主演のヒット映画『ナッティ・プロフェッサー2』のテーマ曲「Doesn't Really Matter」が3週連続トップの座に付き、女優として共演した映画も全世界で1億7500万ドルの興行収益を記録するヒットとなった。

更にその年の第28回アメリカン・ミュージック・アワーズでジャネットは34歳という若さながら、これまでの偉大な功績を称えられ功労賞(Award Of Merit)を受賞。まさにジャネットは人種を超えたアメリカの音楽界の宝である事を証明した。

総売上枚数は1億枚以上、これまで11枚のアルバム中7枚が全米1位、シングル10曲が全米1位、16曲がR&Bチャートで1位を獲得した、まさに兄マイケル・ジャクソンと並ぶ世界的スーパー・スターである。

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の活動経歴

幼少期 子役活動

ジャネット・ジャクソンは、言わずと知れた音楽一家ジャクソン・ファミリーの末っ子(三女)として、1966年5月16日インディアナ州ゲイリーに生まれた。

本名はジャネット・ダミタ・ジョー・ジャクソン。
ジャクソン兄弟姉妹は、男6人女3人で、1951年生まれの長男ジャッキーとは15歳離れており、マイケル・ジャクソンとは8歳違いである。

ジャネットのショウビズ界のデビューは1974年、8歳の頃。ラスベガスのファミリーショーで次女、ラトーヤとともに出演した。

またTVドラマ『アーノルド坊やは人気者』にアーノルド坊やの恋人役で準レギュラーで出演するなど子役として活躍していた。

父・ジョー・ジャクソンは見事にジャクソン5を成功させたが、同様に姉妹も売り出そうとマネージメントしていた。
長女リビーも加えた姉妹3人のジャクソンシスターズというグループデビュープランもあったが実現には至らず。姉妹で最初にレコードデビューをしたのが次女ラトーヤで、80年に24歳でアルバムデビューを飾っている。

そのラトーヤのアルバムで、14歳のジャネットは、「Lovely is she」という曲をラトーヤと共作。既にライターとしての才能の片鱗をうかがわせている。

ラトーヤのアルバムへの参加は、ジャネットにとっても刺激になった。母・キャサリンも、ジャネットの透明感ある高音のボーカルの魅力をあらためて認識した。そしてラトーヤに続き、ジャネットもジョーのプッシュでA&Mレコードと契約し、82年、16歳でレコードデビューする。

1982年 16歳でレコードデビュー

デビュー曲「Young Love」は軽快なDanceチューンで、ビルボードR&Bチャートで6位。HOT100で64位のスマッシュヒットとなり、デビューアルバム「Janet Jackson」もビルボードR&Bアルバムチャート6位、HOT100で63位となる。

このアルバムはジャネットの意向でマイケルを含めた兄たちの支援はなしでレコーディングされた。

1984年に2ndアルバム『Dream Street』が発表される。ジャネット18歳。プロデューサー陣は豪華で、70年代からドナ・サマー等でディスコシーンを牽引し、前年には映画『フラッシュ・ダンス』のサントラをヒットさせていたジョルジオ・モロダー。そしてプリンス一派のジェシー・ジョンソン。更に兄・マーロンも参加しており、マーロンがてがけた「Don't Stand Another Chance」がR&Bで9位に輝いた。

さらにこの年、ジャネットは18歳にして、ジャクソンズと同じく音楽ファミリーの「デバージ」のジェームズ・デバージと電撃結婚する。

この結婚は家族はまったく知らされておらず、『Victory』のアルバムツアー中だったジャクソンズの兄たちもマスコミの報道で知った。

結婚当初から、ジェームズが問題ありというのはファミリー全員わかっていた。彼はドラック中毒だった。しかしジェームズを愛していたジャネットは、彼を更正させようと必死に頑張ったが、ジャネット自身が倒れるような状況になり、周囲にも説得させられ半年で離婚という形になった。

そんな傷心の彼女が、奮起して音楽活動を開始、その悲しみをぬぐい去るべく3枚目のアルバム制作のプロジェクトが動き出す。

既に2枚のアルバムを発表するも、大きな結果は残せず。プロデューサー陣もいわゆるヒットメイカーを集め、お金もかけて制作されているにもかかわらず思ったようなヒットが出ない。
この3rdアルバムが失敗したら、ジャネットのアーティストとしての道も断たれるような状況だった。

そんな中、ジャネットはその後の彼女のアーティストとしての運命を変える大きな出会いを果たすのである。

その人物とは「ジャム&ルイス」こと、ジミー・ジャム&テリー・ルイスの2人である。

名プロデューサー ジャム&ルイス

ジャム&ルイスはもともと、プリンスのバックバンド「ザ・タイム」のメンバーだった。

ジミー・ジャムはキーボード、テリー・ルイスはベース担当。彼らはプリンスの本拠地、ミネソタ州ミネアポリスでローカルなバンドFlyte Tyme(フライト・タイム)で活動していたところ、プリンスの目にとまりThe Timeのメンバーとしてメジャーデビューする。

しかしタイムでの給料は安く、収入を得る為に外部プロデュース業も始める。

1982年から「TABUレコード」で専属アーティストのThe SOSバンドやアレキサンダー・オニール、シェレール等のプロデュースをする。一種のアルバイトである。

1983年、その中である出来事がおきる。

プリンスの大ヒットアルバム『1999』のツアーの合間をぬって、アトランタでSOSバンドのアルバムを制作に携わっていたところ、大雪に見舞われフライトがキャンセル、翌日のコンサートに穴をあけてしまう。

当初、プリンスは女性関係のもつれで彼らが遅れたと思って大目に見たが、実はプロデュースをしていたという事実を知り、これに激怒、解雇となってしまう。

退路を断たれた彼らは必然的にプロデュース業に専念していく事になる。

そしてそのSOSバンドの『On The Rise』からのファーストカットの「Just To Be Good To Me」がR&B2位と起死回生の大ヒット、ここからプロデューサー・チームとしての大躍進が始まる。

1984年2月にはシェリル・リンの「Encore」がR&Bチャートで1位を獲得する。

そして1986年、彼らはジャネットと出会うのである。

1986年 3rdアルバム『Control』で大躍進

ジャネットは3枚目のアルバムに取りかかるが、アルバム制作に関わったのが、ジャクソンファミリーの古くからの友人で、A&Mレコードの役員でもあったジョン・マックレイン。
A&M自体は当初からジャネットをPOP路線で売ることを考えていたようで、フィル・コリンズの起用も検討されていたが、ジョンは方向転換しR&B路線に変える。

そしてその中から選ばれたのが、新鋭ジミー・ジャムとテリー・ルイスであった。

まだ18歳のアイドル的なシンガー、ジャネットとジャム&ルイスの組み合わせはミスマッチのように思われた。実際父親のジョーは、ジャネットがLAを離れミネアポリスでレコーディングする事に猛反対したが、最終的にはジャム&ルイス達に「プリンスみたいな曲を歌わせないでくれ」と注文をつけて納得した。

この時、ジミーは27歳(1959年生)、テリーは30歳(1956年生)。

ミネアポリスに入ったジャネットは最初の1週間は、音楽的な話はせず、ミネアポリスの美しい自然と街並み、きれいな空気に触れて過ごした。その後ジャム&ルイスはいくつかの案をジャネットに示し、今の自分の心情をアルバムにするというコンセプトにジャネットが共鳴する。

今までレコード会社や父親の指示通り、あてがわれたプロデューサーの曲を歌ったり、用意された曲にボーカルを吹き込むだけのスタイルにうんざりしており、ジャム&ルイスの提案にジャネットも呼応した。

そして1986年にリリースされた『Control』は彼女のキャリアを180度変えた。

前2作のアイドルポップ路線から、エッジの効いたインダストリアルなサウンドへ大きく舵をとり、ジャネット自身もキュートな女の子から、大人の女性へと変身した。

まずファーストシングル「What Have You Done For Me Lately」がビルボードR&Bチャートで1位に輝き、続く「Nasty」もR&Bチャート1位を獲得。
そして「When I Think Of You」が遂にビルボードHOT100で初めてのNo1ソング輝く。(R&B-3位)。

R&Bチャート=黒人チャート、HOT100=白人チャートとジャンル分けされていたこの頃の全米音楽シーンにおいて、HOT100での1位はジャネットにとってもジャム&ルイスにとっても初の快挙となった。

このアルバムからは更に「Control」( R&B-1位 / HOT100-5位 )、「Let's Wait A While」( R&B-1位 / HOT100-2位 )、「Pleasure Principle」( R&B-1位 / HOT100-14位 )と5曲がR&Bチャートで1位となり、これはビルボード新記録となった。

アルバムは、R&B/POPで1位。年間チャートでも6位に輝き、世界で1400万枚を売り上げる大ヒットとなった。そしてジャム&ルイスはこの年、ビルボード最優秀プロデューサー賞の栄冠を手にした。

ジャム&ルイスはこの年の3月、フォースMD'Sの「Tender Love」でビルボードHot100で初めてのTOP10ヒット、10位を獲得していた。

同月にジャネット・ジャクソンの『Control』を発表。

5月にはTABUレコードで、The SOS BANDの『SANDS OF TIME』をプロデュース。アルバムは、R&Bで4位、POPで44位となりゴールドディスクを獲得。

9月にはA&Mの重役でもあり、フュージョン界のトップアーティストでもあるハーブ・アルバートのアルバム『Keep Your Eye On Me』をプロデュース、そこからのシングル「Diamonds」はジャネットがボーカルを務め、R&Bチャート1位、HOT100でも5位というヒットになる。ちょうどこの頃ジャネットの「Let's Wait A While」がR&Bチャートで1位になっており、続く「Pleasure Principle」もR&Bチャート1位を獲得している為、この頃のジャネットとジャム&ルイスのコンビは出す曲出す曲1位を叩き出していた。

そしてダメ押しは、10月、イギリスの白人ニューロマンティクスバンド「ヒューマンリーグ」のプロデュース。「Human」がこれまたビルボードHOT100で1位に輝き、ジャム&ルイスは大躍進を遂げ、1986年度のビルボード最優秀プロデューサー賞を獲得するのであった。

プリンスに解雇されてから僅か3年。そのプリンスも、1984年度に『パープルレイン』が評価されて同賞にノミネートはされたが受賞はできず。その後、『Batman』のサントラ制作時にもノミネートされるが受賞はできなかった。ジャム&ルイスはプロデューサーとして師匠を超えたのである。

A&Mレコードのジョン・マックレインをはじめ、父親のジョー、そして兄弟たちもこのアルバムを絶賛し、ジャネットはジャクソン家からの自立宣言を果たす。

この時点でジャネットは、まだ『Thriller』に続く作品をリリースしていない兄、マイケルよりも話題となった。

こうして1986年はジャネットにとってもジャム&ルイスにとっても新次元を開いた年となった。

そしてここからジャネットとジャム&ルイスの伝説とも呼べる活躍が始まるのである。

1989年 更なる躍進『Rhythm Nation 1814』

『Control』の大ヒットにより、次のアルバムに世界は注目した。ジャネットもそのプレッシャーと戦いながら、再びジャム&ルイスとともに、1988年10月からNewアルバムの制作にとりかかり、レコーディングにはほぼ1年を要した。

そして全世界が待ち望んでいたジャネットのNewアルバム『Rhythm Nation 1814/リズム・ネイション1814』が1989年10月に発表される。

時代はバブルが終わりかけ、ポストユーロビートとして、ブラックミュージックが台頭していた頃。特にソウル、ヒップホップシーンはプロデューサーの影響力が強くなり始めていた。
その代表格が、ニュージャックスウィングを生み出したテディー・ライリー、L.Aリード&ベイビー・フェイス、ジャム&ルイスであった。そしてジャム&ルイスの筆頭アーティストこそがジャネット・ジャクソンとなる。

『Rhythm Nation 1814』はまさにこの時代を代表するアルバムとなり、前作以上に洗練された、DanceとSoundが融合した素晴らしいミュージックビデオが次々と制作され、シングルヒットを連発する。(以下R&B / HOT100の順位)

「Miss U Much」 (1位 / 1位)
「Rhythm Nation」 (1位 / 2位)
「Escapade」 (1位 / 1位)
「Alright」 (2位 / 4位)
「Come Back To Me」(2位 / 2位)
「Black Cat」 (10位 / 1位 ) Produced by ジェリビーン・ジョンソン
「Love Will Never Do」 (3位 / 1位)

全米ナンバーワンが4曲。

兄のマイケル・ジャクソンが『BAD』で樹立した1枚のアルバムからのNo.1シングル5曲という記録には及ばなかったものの、『Thriller』で記録した1枚のアルバムから7枚のTop10シングルの記録は並んだ。

80年代前半まで存在した、黒人チャート白人チャートと言う棲み分けは、この頃になるとその垣根はなくなっていた。これはマイケル、ジャネット兄弟の活躍による賜物であると言っても過言ではない。

アルバムは90年のビルボード年間アルバムチャートで1位。全世界セールスは前作『Control』と並ぶ1,400万枚のヒットとなり、このアルバムによりジャネット・ジャクソンとジャム&ルイスはまさにネクストレベルへ押し上げられた。

1993年 最高傑作『Janet』

90年代に入ってもジャネットの勢いは止まらない。

『Rhythm Nation 1814』から生まれた驚異的な7つのヒット・シングル曲を含む新しい音楽は、大手レーベルの入札合戦に火をつけ、1991年、最終的にヴァージン・レコードが勝ち取った。

そしてジャム&ルイスの勢いもとまらない。彼らはA&Mレコード傘下でPerspective Recordsを設立。1992年には同レーベルから1年かけて制作した『Mo Money』というサウンドトラックを発売。単なるサントラの域にとどまらないブラック・ミュージックの素晴らしさが詰まった1枚となる。

このアルバムからは、ジャネットとルーサー・ヴァンドロスのデュオ「The Best Things In Life are Free」がR&Bで1位、HOT100で10位となる。

そして1993年、ヴァージン移籍後初のアルバム『Janet』が登場する。ジャネット27歳。ジミー34歳、テリー37歳。この作品でも彼らの才能は全開する。

先行シングルの「That's The Way Love Goes/それが愛というものだから」は自身最高のビルボード8週連続1位を記録。
この曲でジャム&ルイスもグラミーの最優秀R&Bソングを受賞。プロデューサーとしてだけでなくソングライターとしての素晴らしさも証明した。

「Anytime Anywhere」もシングル用に当時乗りまくっていたR.ケリーがダウンローミックスで仕上げ、R&Bでは10週にも渡り1位をキープする。

またこの年ジャネットは映画の世界にも進出。マイケル・ジャクソンの『Remember The Time』のPVも監督したジョン・シングルトン監督の『ポエスティック・ジャスティス』で初主演を果たす。

この映画のためにジャム&ルイスとともに書いたバラード「Again」も見事にNo1シングルになった。

アルバムは一気に全米R&Bとポップ・アルバムのチャートのトップへと駆け上がった。驚くべきアルバム・セールスとなった『Janet』は、全米アルバム・チャートに106週間も残ることになり、最終的にアメリカ・レコード協会より6xプラチナ(600万枚売上)と認定された。全世界でも2000万枚超のセールを記録し、ジャネット最大のヒットアルバムとなった。

そして95年には兄、マイケルとの共演をはたす。

1995年 兄マイケル・ジャクソンとの共演

1995年、ジャネットは兄マイケル新曲「Scream」に参加し、SF仕立ての魅惑的なビデオ・クリップは大きな話題を呼んだ。

93年、兄・マイケルをおそった最初の虚偽の告発事件でマイケルのイメージはかなり悪くなっていた。子供を救うべく基金を設立したり慈善活動をし続けているマイケルが、逆に子供を虐待するという告発をされる。

そんな状況でジャネットはマイケルのシーン復活の手助けをし、ニューアルバムの制作に着手。マイケルに迎えられたジャム&ルイスは4~5曲のデモ曲をマイケルに提示する。
そして復帰シングルとしてマイケルは「Scream」を選んだ。強力シングル「スクリーム」は当時、ビルボード初登場最高記録の5位を樹立し、セールスもあっという間にミリオンになるも、チャート的には1位までは上がらないという不思議な現象となったが、その後のシングル「You Are Not Alone」R.kerry作は初登場1位となり、マイケルはシーン復帰を遂げるのである。

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