Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の徹底解説まとめ

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)とはアメリカのシンガーであり、マイケル・ジャクソンの妹である。1982年、16歳でデビュー。1986年のアルバム『Control』からは「When I Think Of You」が初の全米No.1に輝き、アルバムも初のNo.1となる。その後も『Rhythm Nation 1814』『Janet』とヒットを飛ばし、総売上枚数は1億枚以上、11枚のアルバム中7枚が全米1位、シングル10曲が全米1位を獲得した。世界No.1の女性R&Bシンガーある。

アルバム『Rhythm Nation』の成功によりジャム&ルイスはA&Mレコード傘下で自らのレーベル、Perspective Recordsを設立。1992年、同レーベルから『Mo Money』というサウンドトラックを発売。その中に収められた一曲で、ジャネットの艶やかな声とベテランソウル歌手ルーサー・ヴァンドロスとの明るいデュエット曲である。

作曲はジャム&ルイス、さらに元ニュー・エディションのマイケル・ビヴンスとロニー・デヴォーの4人。当時このふたりはベル・ヴィヴ・デヴォーというグループを結成していた。この曲はグラミー賞にノミネートされたほか、R&Bで1位、HOT100で10位となった。

Scream

幼児虐待という虚偽の告発により当時窮地に陥っていたマイケル・ジャクソンをジャネットはバックアップする。迎えられたジャム&ルイスはマイケルに4~5曲のデモ曲を提示し、その中でマイケルが選んだのが「Scream」だった。当時の状況やマイケルの心境を考えれば、マイケルがこの曲を選んだのは当然だったとジャネットは振り返る。

製作費に700万ドルを費やしたこの曲のミュージックビデオは史上最も高額なミュージックビデオと言われている。

マイケルの1995年のコンピレーション『HIStory: Past, Present & Future, Book 1』に収録された。全米チャートでは初登場5位を記録したが、それ以上の上昇はなかった。

Runaway

1996年、ジャネット初のベスト・アルバム『Janet Jackson 1986-1996 Design Of A Decade』に収められた一曲。

告発問題で追い詰められていた兄マイケルのシーン復帰を目指し、ジャム&ルイスはマイケルに4~5曲のデモ曲を提示するが、マイケルは「Scream」を選び、この曲は漏れた。このことについてジミー・ジャムはTwitterで、実はジャネットとマイケル・ジャクソンとのデュエットになりそうだったという。

「この曲はジャネットとマイケルのデュエット用に作ったんだ。彼は『Scream』を選んだよ」とジミー・ジャムはツイートしている。
マイケルの当時の状況を考えると、彼がこの選択をしたのも驚くことではない。だがおそらく、やろうと思えば両方ともやれたはずだとも語っている。

R&B 6位、HOT100 3位のヒットとなるが、マイケルが歌っていたとしても全く違和感のない、むしろ耳をすませばマイケルの歌声も聴こえてきそうな曲である。

Together Again

1997年のアルバム『The Velvet Rope』の第2弾シングル。アルバムからの唯一のNo1ヒット、R&Bチャートでは8位。

全体的な曲調は明るく、モータウンや、ハウス・ミュージックの影響も感じさせるポップなダンス・ナンバーに仕上がっているが、実はこれはジャネットが鬱との戦いを率直に告白した曲だった。また歌詞の中では、DVや性的アイデンティティといったテーマも採り上げられている。

若くして亡くなった友人に捧げられた鎮魂歌でもある。

Just a Little While

2004年リリースの『Damita Jo』からのファーストシングル。

物議を醸したスーパーボウルハーフタイムショー事件の翌日、2月2日にリリースされた。

特に日本では5週連続1位に輝くほど、世界的にはヒットしたが、アメリカではホットダンスクラブソングチャートで1位に輝くも、ビルボードホット100では最高位45位に止まった。

これはやはり、スーパーボウル事件の後、ジャネットのシングルとミュージックビデオがブラックリストに登録され、アメリカでの成功が限定されてしまった影響による。

No Sleep

2015年にジャネット自身のレーベル、「リズム・ネイション」からリリースされた11作目のアルバム『Unbreakable』からのシングル。

ほぼ10年ぶりにジャム&ルイスと組んで制作された。

夜を思わせるしっとりとした雰囲気に魅惑的なボーカルが披露される、まさに大人のジャネットを堪能できる曲。全米アダルトR&Bチャートで1位を獲得。アメリカのラッパー、J・コールも参加している。

Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)の名言・発言

ジャネット・ジャクソン「結婚生活は監獄のようだった」

ジャネットは2012年頃にカタールの大富豪で、9歳下のウィサム・アル・マナと極秘結婚した。

夫のアル・マナはカタール出身だが幼少期に家族とロンドンに引っ越している。その後は父親が創業した会社アル・マナ・グループの共同経営者をしている。アル・マナ・グループは複合企業で、自動車の流通、不動産業、飲食店、エンターテインメントなど多岐にわたる事業を展開している。

ジャネットとアル・マナは2010年に出会った。

2009年に兄のマイケル・ジャクソンを亡くし、その後7年間交際していたプロデューサーのジャーメイン・デュプリと破局したことでジャネットは精神的に不安定になっていた。

アル・マナはちょうどいい時期にジャネットの前に現れ、彼女を中東へと連れ去っていった。最初のうちはジャネットも彼の財力で静かに暮らせることを喜んでいたという。「彼のお金で、ずっと欲しかったプライバシーを得ることができた」とも言っていた。

2007年1月のアメリカの経済誌フォーブスによるとジャネットは、エンターテイメント界で活躍する女性で資産の多い女性トップ20で、総資産181億円で7位にランクインしたと伝えているが、アル・マナはその4倍もの資産を保有しているといわれていた。

ところがその後、彼がイスラム教徒の伝統的な妻を求めていることがわかりギクシャクするようになる。2012年に結婚したとき、式が極秘だったのもアル・マナの主張であり、ジャネットは派手な式を希望していた。

アル・マナがジャネットに対して支配的であるという噂が立つようになるが、2014年頃から彼はジャネットに伝統的な衣装ブルカを着るように求めていたという。ジャネットはPVでも夫の要望通り露出の少ない衣装を選んでいた。そのせいで彼女はファンが離れていってしまうと考え、気が狂いそうになっていたという。

兄ランディによると「ジャネットは監獄にいるような気分になっていた」とのことである。

子どもができたときは、ジャネットもこれで夫婦関係がうまくいくようになるかもと思ったようだが、結局、息子エイサが生まれて3カ月後、ジャネットはウィサム・アル・マナとの離婚を発表した。

ジャネット・ジャクソン「私のキャリアにおいて、岐路のような時期でした。もし良い結果につながらなかったら、ビジネスの法律でも学びに学校に戻るつもりでした。ですが、もう一度だけ音楽を試してみようと思ったのです」

1982年にA&Mレコードでソロデビューした時、ジャネット・ジャクソンはまだ16歳の純情な少女だった。ダンスフロア・グルーヴ、「Young Love」や84年の「Fast Girls」などいくつかのR&Bチャートでのヒットは記録したものの、同じく1982年に『Thriller』を発売した兄マイケル・ジャクソンの驚異的な成功と比較すると妹ジャネットはとても小さな存在だったし、とてもマイケルと張り合える様な器だとは誰も思っていなかった。

ところが、ある二人組のプロデューサーとの出会いにより、当時19歳だったジャネットの周辺は一変した。その二人組とはもちろん、ジャム&ルイスである。

しかしいくらジャム&ルイスが実績があったとはいえ、その後ヒットを生み出す保証はどこにもない。ジャネットにとってジャム&ルイスとのコラボは賭けでもあり、最後のチャンスでもあった。

その時の心境を語ったのが上記のセリフである。

「過去にそうだったように、“ほら、歌いなさい” と出来上がった曲を手渡されるのではなく、違う形でやりたかった。私自身を表現したかった。ジミーとテリーはそれを認めてくれた。ジミーと一緒にミネアポリスの街をドライブしながら、私の人生やどういった体験をしてきたかを話したのです」

1986年1月にリリースされたアルバム『Control』は、全米アルバムチャートとR&Bアルバムの両方でトップとなり、「What Have You Done For Me Lately」を含む5曲が、アメリカのR&B部門のNo.1シングルとなった。

「彼らは私の心を開かせてくれて、私自身を表現させてくれたのです」

続く『Rhythm Nation 1814』からも驚異的な7つのヒット・シングル曲が生まれた。

「彼らは私を成長させてくれる。私を開花させてくれるのです。それに彼らと一緒に働くのが大好きなのです。私たちの関係は本当に素晴らしくて、友人のようであり、兄弟のようでもある。とても親しいし、一緒に何かをするのが大好きなのです。そこにはエゴも何でもありません」

更に1993年のアルバム『Janet』は2000万枚を売り上げるヒットとなる。

同じくソロとして活動していた兄ジャーメイン・ジャクソンや、姉ラトーヤ・ジャクソンを飛び超え、まさに兄マイケル・ジャクソンと肩を並べる存在にまでなった。

ジャーメインになくてマイケルにあったもの。
或いはジャネットにあってラトーヤになかったもの。

それは「煌めく才能」というものもあったかもしれないが、一つには「名プロデューサーとの出会い」というのもあった。

マイケルもクインシー・ジョーンズと言うプロデューサーにより『Off the wall』『Thriller』『Bad』と言う歴史的名盤を生むのだが、ジャネットとジャム&ルイスとの出会いは3人の誰か1人でも欠けたら成功はあり得なかったと言われる程、まさに運命の出会いだったといえる。

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