Eric Clapton(エリック・クラプトン)の徹底解説まとめ
Eric Clapton(エリック・クラプトン)とはイギリスのシンガーソングライター、ギタリストである。1945年3月30日、イギリスのリプリーに生まれる。クラプトンは祖父母に育てられながら、幼いころよりブルースの影響を受け13歳でギターを弾き始めた。さまざまなバンドに参加しながら卓越したギターテクニックを身につけていった。ジェフ・ベック、ジミー・ペイジらと英国3大ギタリストともいわれている。ギターの神と呼ばれ、「スローハンド」のニックネームを持つ。音楽シーンで影響力のあるギタリストである。
Eric Clapton(エリック・クラプトン)の概要
Eric Clapton(エリック・クラプトン)本名エリック・パトリック・クラプトン(Eric Patrick Clapton)は、1945年イギリスのサリー州リプリーで生まれたイギリスを代表するギタリスト、シンガーソングライターである。2015年、雑誌ローリングストーン誌が選んだ「史上最高のギタリスト100人」で2位にランクインした名ギタリストである。
13歳で初めてギターを手にし、17歳でエレキギターを手に入れ本格的にギターを弾き始めた。地元のバンドで活動を続けながら1963年にヤードバーズに参加する。しかしヤードバーズがポップを指向したことから、クラプトンは1965年に脱退。脱退後、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入するも1年後の1966年に脱退する。脱退後、ドラマーのジンジャー・ベイカー、ベーシストのジャック・ブルースとスーパーバンド、クリームを結成する。スーパーバンド、クリームはアルバム『クリームの素晴らしい世界』などを発表し華々しい活動を展開していたが、2年後の1968年に解散した。
クリーム解散後クラプトンは、ジンジャー・ベイカー、スティーヴ・ウィンウッド、リック・グレッチらとともに、スーパーバンド、ブラインド・フェイスを結成する。しかしブラインド・フェイスは、アルバムを1枚リリースしただけで解散してしまう。
その後、クラプトンは、デラニー&ボニー、デレク・アンド・ザ・ドミノスなどにも参加。デレク・アンド・ザ・ドミノスではロングセラーの『いとしのレイラ』を発表する。
一方クラプトンは、ほぼ同時期にソロ活動を開始する。ソロ活動では70年に初めてのソロアルバム『エリック・クラプトンソロ』をリリース。その後は74年に『461オーシャン・ブールバード』、77年に『スローハンド』など話題のアルバムを次々にリリース。92年にアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』をリリース。グラミー賞主要6部門を独占する快挙を成し遂げた。グラミー賞の受賞歴は18回、3000回を超えるコンサートにも出演。華々しい活躍の一方で、アルコール依存症や薬物中毒などになり、引退の危機にみまわれたが、治療し克服している。慈善活動にも熱心で、薬物やアルコール中毒の治療センターを開設したり、数多くのチャリティーコンサートに出演したりもしている。日本にも数多く来日し、演奏を行っている。
Eric Clapton(エリック・クラプトン)の活動経歴
ギターとの出会い
Eric Clapton(エリック・クラプトン)とギターの出会いは、13歳の誕生日だった。ドイツ製の安価なスチール弦のため、演奏が難しくすぐに興味を失ってしまった。しかし世間はロックンロールが爆発的に広がり、幼い頃からブルースの影響を受けていたクラプトンはほどなくしてギターに没頭するようになる。練習に没頭するようになったクラプトンのテクニックは素晴らしく、16歳のときにはすでに注目を集める存在になっていた。そして、クラプトンが17歳のとき祖父母の援助でエレクトリックギターを手に入れ、ストリートで演奏をするようになる。
「ヤードバーズ」「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ」への加入から脱退
Eric Clapton(エリック・クラプトン)は、1963年最初のバンドR&Bグループのロード・アイラド・レッド&ザ・ルースターズに加入する。ロード・アイライド・レッド&ザ・ルースターズでは、1963年の1月から8月までの間活動していた。次に参加したバンドがヤードバーズであった。ヤードバーズでは、1963年の10月から1965年3月まで活動した。ヤードバーズはブルース指向のバンドであったが、ポップ指向にバンドが変わったことで、クラプトンはヤードバーズを脱退する。クラプトンのニックネーム「スローハンド」は、ヤードバーズ時代に付けられたものである。
ヤードバーズを脱退したクラプトンは後釜のギタリストにジミー・ペイジを推薦したがペイジはこれを断り、代わりにジェフ・ベックがギタリストとして加わった。その後、クラプトンはイギリスのブルースをけん引していたジョン・メイオールの誘いを受けて、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに参加する。このバンドは著名なギタリスト、ベーシスト、ドラマーを輩出したことでも有名なバンドである。クラプトンが「神」の異名を持つようになったのはこのバンドの時代である。イギリスの地下鉄の壁にファンが「クラプトンは神」、と落書きしたことが由来とされている。クラプトンはこのバンドを1966年7月に脱退している。
スーパーバンド「クリーム」「ブラインド・フェイス」への加入から脱退
Eric Clapton(エリック・クラプトン)はジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ脱退後、ドラマー、ジンジャー・ベイカーの誘いを受け、ベーシストのジャック・ブルースとともに、スーパーバンド、クリームを結成する。クリームの活動はわずか2年半であったが、世界中のミュージックシーンに多大なる影響を与えたスーパーグループであった。クリームは活動中に3枚、解散後に1枚のアルバムを発表した。クリームでリリースしたアルバムは『フレッシュクリーム』、『カラフル・クリーム』、『クリームの素晴らしき世界』の3枚、解散後に出したアルバム『グッバイ・クリーム』の4枚である。クリームは商業的にも成功し、数々の名曲も生み出した。しかし、かねてから不仲だったジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの関係などもあり、短命のバンドとなってしまった。クラプトンはクリームの活動により、あまり知られていなかったアメリカにもクラプトンの名声をとどろかすことになった。クラプトンはクリーム脱退後、スーパーグループ、ブラインド・フェイスで活動することになる。メンバーはクラプトンの他、スティーヴ・ウィンウッド、ジンジャー・ベイカー、リック・グレッチらで、文字通りのスーパーグループであった。発表したアルバムはデビューアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のみで、活動期間もわずか7カ月であった。
70年代のソロ活動と「デラニー&ボニー」「デレク・アンド・ザ・ドミノス」
1970年代のクラプトンは、ソロ活動を続けながらさまざまな活動を行っている。同時に私生活では、ドラッグやアルコール中毒になるなど苦悩を抱えた時代でもあった。
クラプトンはブラインド・フェイス解散後、ブラインド・フェイス時代に知り合ったデラニー&ボニーのサポートメンバーとしてツアーに同行したり、プラスティック・オノ・バンドに参加したりするなどの活動を行っていた。その後クラプトンはデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成する。デレク・アンド・ザ・ドミノスでは名曲「いとしのレイラ」を世に送り出している。クラプトンはデレク・アンド・ザ・ドミノスの活動と並行してソロでの活動も始め、初のソロアルバム『エリック・クラプトン・ソロ』をリリースした。
その後もソロ活動をしながら、さまざまなセッションに参加する。1971年にはジョージ・ハリスンとラヴィ・シャンカールが企画した「バングラディッシュ難民救済コンサート」に出演。1972年にはクラプトンのドラッグ中毒からの復帰を願って開かれた『レインボー・コンサート』に参加した。
ソロ活動では1974年に『461 オーシャン・ブールヴァード』を、75年に『安息の地を求めて』、76年に『ノー・リーズン・トゥ・クライ』、77年に『スローハンド』、78年に『バックレス』を次々にリリースした。1974年には日本での初めてのコンサートも開催している。
80年代の活動
1980年代のクラプトンの音楽活動はアルコール中毒の影響もあってか、低調期だったともいわれている。一方、アルコール依存症からの脱却も果たしている。クラプトンの80年代は低調期だったといわれるにもかかわらず、さまざまな音楽活動を行っている。81年には「アムネスティー・インターナショナルのチャリティー」公演でジェフ・ベックと共演。84年には元ピンクフロイドのロジャー・ウォーターズのソロアルバム『ヒッチハイクの賛否両論』の録音にも参加し、ツアーにも参加した。85年にはチャリティーコンサート「ライブエイド」にも参加している。ビージーズとのチャリティーも行っている。あわせて、世界各地でのコンサートツアーを行い、日本でのコンサートもたびたび行っていた。
アルバムリリースは、81年に『アナザー・チケット』、83年に『マネー・アンド・シガレッツ』、85年に『ビハインド・ザ・サン』、86年には『オーガスト』、89年に『ジャーニーマン』を次々にリリース。なかでも『ビハインド・ザ・サン』と『オーガスト』ではフィル・コリンズをプロデューサーで起用し、『オーガスト』ではアルバムチャート3位を記録している。
この他にも映画『リーサル・ウェポン』シリーズ第1作のサウンドトラックも手がけるなど、低調期だといわれながらも、80年代後半にはさまざまな音楽活動を行っていた。
90年代の活動
クラプトンの1990年代はアルバム『ジャーニーマン』のツアーで始まった。90年1月のロンドンロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートを皮切りに、ヨーロッパ、アメリカ、南米、オセアニア、東南アジアを回って12月のジャパンツアーの横浜までほぼ1年をかけてワールドツアーを行った。ワールドツアー中には不幸にも不慮の事故にも遭遇した。アメリカツアー中、ツアーに帯同していたブルースギタリストのスティーヴィー・レイ・ヴォーンらが、ツアー後の移動のヘリコプターが墜落し死亡してしまった。
クラプトン自身にも不幸が襲った。クラプトンの4歳半の息子コナーが、母親が滞在していた高層マンションの窓から転落し、死亡してしまった。クラプトンはこの悲劇を乗り越えるために、以前にもまして精力的に活動した。クラプトンは映画『ラッシュ』のサウンドトラックを担当し、主題歌として「ティアーズ・イン・ヘヴン」をリリースする。この楽曲は息子の死を悼んでつくられたものである。クラプトンはこの楽曲をつくることで息子の死を乗り越えた。
92年には『MTVアンプラグド』で放送されたアコースティックギター中心の演奏を収録したライブアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』をリリース。このアルバムでグラミー賞をはじめ、さまざまな賞を受賞している。90年代のクラプトンはライブパフォーマンスなどを精力的にこなしながら、次々と楽曲を発表している。94年にはブルースをカバーした『フロム・ザ・クレイドル』を、リリースし、グラミー賞を受賞する。96年には映画『フェノミナン』の劇中歌「チェンジ・ザ・ワールド」を発表し、97年のグラミー賞を受賞。98年にはアルバム『ピルグリム』をリリース。世界22カ国でトップ10入りをはたす。さらには「マイ・ファーザーズ・アイズ」でグラミー賞を受賞する。日本にもたびたび訪れ、コンサートを行っている。
2000年以降の活動
2000年代に入っても、クラプトンの活動は精力的であった。2000年にはソロアーティストとして、3度目のロックの殿堂入りをはたす。1回目は1992年のヤードバーズ、2回目は1994年のクリームでロックの殿堂入りをしている。アルバムでは、2000年に、ブルースの伝説BBキングとの共演アルバム『ライディング・ウィズ・ザ・キング』を6月にリリース。全米アルバムチャートで3位、200万枚を記録し、ダブルプラチナディスクを獲得、翌年グラミー賞を受賞するなど大ヒットになった。
ソロアルバムでは2001年には『レプタイル』、2004年には『ミー&Mr.ジョンソン』、2005年には『バック・ホーム』と次々にアルバムをリリース。2006年にはJJケイルとのコラボレーションアルバム『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』をリリースするなど、次々に作品を発表する。
クラプトンはステージでもさまざまな活動を行った。2001年には、9.11同時多発テロで亡くなった方を追悼するために開催された「コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」に参加。2002年にはエリザベス2世即位50周年記念イベントのコンサートでの演奏も行った。さらに同年に開催された、前年に死去したジョージ・ハリスンのトリビュート「コンサート・フォー・ジョージ」でも演奏を行った。その他にもクラプトンはさまざまなステージ活動を実施する。2005年にはクリームを再結成し、コンサートやCD・DVDのリリースを行った。2008年には北朝鮮からコンサート開催の打診を受けたが、実現しなかった。
2010年代のクラプトンは2010年に『クラプトン』、2013年に『オールド・ソック』、2014年に『ザ・ブリーズ〜J.J.ケイルに捧ぐ』、2016年に『アイ・スティル・ドゥ』、2018年に『ハッピー・クリスマス』と、次々にアルバムをリリースした。アルバムリリースだけでなく、クラプトンはステージでの活動も精力的にこなしてきた。しかし、自身が末梢神経障害にかかったことなどもあって、引退をほのめかす発言もしている。2014年のインタビューで「70歳になったら引退する。演奏や単発公演はやめないが、ツアーはやめようと思っている」、と発言していた。
しかしクラプトンは、2020年代に入っても活動を続けている。2024年にはアルバム『ミーンワイル』をリリース。2023年には日本武道館で100回目になるコンサートも実施している。
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目次 - Contents
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)の概要
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)の活動経歴
- ギターとの出会い
- 「ヤードバーズ」「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ」への加入から脱退
- スーパーバンド「クリーム」「ブラインド・フェイス」への加入から脱退
- 70年代のソロ活動と「デラニー&ボニー」「デレク・アンド・ザ・ドミノス」
- 80年代の活動
- 90年代の活動
- 2000年以降の活動
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)のプロフィール・人物像
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)のディスコグラフィー
- ソロアルバム
- 『エリック・クラプトン・ソロ』(Eric Clapton)
- ソロアルバム
- 『461 オーシャン・ブールヴァード』 (461 Ocean Boulevard)
- ソロアルバム
- 『安息の地を求めて』(There's One in Every Crowd)
- ソロアルバム
- 『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(No Reason to Cry)
- ソロアルバム
- 『スローハンド』 (Slowhand)
- ソロアルバム
- 『バックレス』(Backless)
- ソロアルバム
- 『アナザー・チケット』(Another Ticket)
- ソロアルバム
- 『マネー・アンド・シガレッツ』(Money and Cigarettes)
- ソロアルバム
- 『ビハインド・ザ・サン』(Behind the Sun)
- ソロアルバム
- 『オーガスト』(August)
- ソロアルバム
- 『ジャーニーマン』(Journeyman)
- ソロアルバム
- 『フロム・ザ・クレイドル』(From the Cradle)
- ソロアルバム
- 『ピルグリム』(Pilgrim)
- ソロアルバム
- 『レプタイル』(Reptile)
- ソロアルバム
- 『ミー&Mr.ジョンソン』(Me and Mr. Johnson)
- ソロアルバム
- 『セッションズ・フォー・ロバート・J』(Sessions for Robert J)
- ソロアルバム
- 『バック・ホーム』(Back Home)
- ソロアルバム
- 『クラプトン』(Clapton)
- ソロアルバム
- 『オールド・ソック』(Old Sock)
- ソロアルバム
- 『アイ・スティル・ドゥ』(I Still Do)
- ソロアルバム
- 『ハッピー・クリスマス』(Happy Xmas)
- ソロアルバム
- 『ミーンワイル』(Meanwhile)
- コラボレーションアルバム
- 『ライディング・ウィズ・ザ・キング』(Riding with the King)
- コラボレーションアルバム
- 『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』(The Road to Escondido)
- コラボレーションアルバム
- 『ザ・ブリーズ〜J.J.ケイルに捧ぐ』(The Breeze: An Appreciation of J.J. Cale)
- ライブアルバム
- 『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』(Unplugged)
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)の代表曲とミュージックビデオ(MV/PV)
- 『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』(Sunshine of Your Lov)
- 『ホワイト・ルーム』(White Room)
- 『バッジ』(Badge)
- 『マイ・ウェイ・ホーム』(Can't Find My Way Home)
- 『いとしのレイラ』(Layla)
- 『ベルボトム・ブルース』(Bell Bottom Blues)
- 『アフター・ミッドナイト』(After Midnight)
- 『レット・イット・レイン』(Let It Rain)
- 『アイ・ショット・ザ・シェリフ』(I Shot the Sheriff)
- 『コカイン』(Cocaine)
- 『ワンダフル・トゥナイト』(Wonderful Tonight)
- 『バッド・ラヴ』(Bad Love)
- 『ティアーズ・イン・ヘヴン』(Tears in Heaven)
- 『チェンジ・ザ・ワールド』(Change the World)
- 『マイ・ファーザーズ・アイズ』(My Father's Eyes)
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)の名言・発言
- 「ステージ上がった時、自分が1番上手いと思え、ステージを下りている時、自分は1番下手だと思え」
- 「良いギタリストになる条件は、両手に2本以上指があって、良い耳を持っていることだ」
- 「その日をちゃんと生きる事。人生にこの日は一度しか訪れない」
- 「中毒というのはもうただ言いなりにさせられるだけなんだ」
- Eric Clapton(エリック・クラプトン)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- 神と呼ばれるようになったきっかけはファンの落書き
- スローハンドのニックネームのいわれ
- 日本武道館でよくコンサートをする理由