Jamiroquai(ジャミロクワイ)とは【徹底解説まとめ】

Jamiroquai(ジャミロクワイ)とは、1992年にジェイ・ケイを中心にデビューしたイギリスのバンド。デビューシングル「When You Gonna Learn」がロンドンのクラブシーンでヒットし、新人ながらソニーミュージックとアルバム8枚分の契約を結ぶ。1996年リリースの『Travelling Without Moving』はミリオンヒットとなり、世界一売れたファンクアルバムとしてギネスに認定された。全世界で3500万枚以上の売り上げを誇る。

Jamiroquai(ジャミロクワイ)の概要

Jamiroquai(ジャミロクワイ)とは、1992年にデビューしたイギリスのバンド。リーダーでヴォーカルのジェイ・ケイが中心のバンドサウンドは、アシッドジャズに分類される。デビューシングル「When You Gonna Learn」がロンドンのクラブシーンで強烈なインパクトを残し、新人ながらソニーミュージックと異例となるアルバム8枚分の契約を結ぶ。その後、ポップス、ロック、エレクトロニカなどジャンルを超えた作品を数多発表。特に1996年にリリースした3枚目のアルバム『Travelling Without Moving』は世界中でミリオンヒットを飛ばし、ジャミロクワイの名を知らしめたと共に、世界一売れたファンクアルバムとしてギネスに認定された。ビートやメロディセンス、圧倒的な歌唱力、どれをとっても一級品であり、全世界でで3500万枚以上の売り上げを記録した、アシッド・ジャズ界で最も成功したグループの一つである。

Jamiroquai(ジャミロクワイ)の活動履歴

ジャミロクワイ結成前夜のイギリス

ジャミロクワイの結成を語る前に1990年代初頭のイギリスの音楽シーンから説明する必要がある。90年代初頭のイギリスでは、ストーン・ローゼスやハッピー・マンデーズと言った、マンチェスター出身のグループを中心に「マッドチェスター」ムーブメントが起きていたが、やがてそれは、ニルヴァーナやレッドホットチリペッパーズなどのアメリカのグランジ系ロックに取って代わられる様になった。そんなイギリスロックの停滞を打ち破ったのが、ブラーの3rdアルバム『パークライフ』のイギリスでの大ヒットと、1994年のオアシスのデビューだった。この2つのバンドを筆頭に、ビートルズから続くイギリスの正統派ロックを継承するバンドが続々と登場した。これら90年代初頭に起こったムーブメントを「ブリットポップ」ムーブメントと呼ぶ。さて、このブリットポップムーブメントが90年代イギリス音楽シーンの表の顔としたら、裏の顔が「アシッドジャス」ムーブメントである。アシッドジャスとはいかなるものだったのだろうか。
80年代中頃からディスコを中心に流行ったユーロビートは、その無機質で踊るだけのキラキラな音楽性に意義を申し立てる者が増えてきた。そしてディスコの様な大箱から、感覚の違う新たな「箱=クラブ」が生まれる様になる。
そんなクラブでかかるようになったのがハウスミュージックと呼ばれるものであり、更に進化したものが「アシッドハウス」と呼ばれた。アシッドハウスのダンスムーブメントの肝は、「スターの否定」と「メッセージの否定」にあった。アンダーグラウンドのシーンからは、誰がやっているのか顔さえわからないインストゥルメンタル主体の匿名的なブレイクビーツテクノやハウスミュージックが次々と生まれ、ダンスフロアで新たなトレンドを作っていた。
その一方で音楽に敏感な感性をもつ若者は60年代や70年代の古い音源から、踊って良し、聴いて良しという音楽を発掘し続けていた。そしてクラブでは、60年代や70年代の埋もれていたジャズファンクやソウルミュージックを掘り起こして、新たな息吹を吹き込む動き「レアグルーヴ」に人気が集まっていった。DJがいるクラブではさまざまなレアグルーヴ音源を混ぜ合わせたサンプリングが試され、この「レアグルーヴ」と「アシッドハウス」が交差するようにして誕生したのが「アシッドジャズ」である。そして1989年の「ソウル・II・ソウル」の『Club Classics Vol.1』がリリースされることで、90年代に向けたUKクラブミュージックが成熟していくのである。
そんなイギリス最初期のクラブシーンを率いた人物で最重要なDJがジャイルス・ピーターソンである。彼は1987年に『アシッド・ジャズ』、1990年には『トーキン・ラウド』という2大アシッドジャズのレーベルを立ち上げ、大きなムーブメントを引き起こす。
『トーキン・ラウド』はインコグニート、ガリアーノ、オマー、ヤング・ディサイプルらが在籍する強力なレーベルである。そして『アシッド・ジャズ』レーベルからは、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジェイムズ・テイラー・カルテット、そしてジャミロクワイが誕生した。

ジャミロクワイ誕生〜『Emergency on Planet Earth』と『The Return of the Space Cowboy』

結成時。キーボードのトビー・スミスとメンバー達

ジェイ・ケイは1986年頃からドラムマシンのみでギグを行っており、レコード会社に曲を送り続けていた。そのうちの一枚がジャミロクワイの幻のデビュー作と言われる「Natural Energy」だが、これは数枚プレスされただけで終わってしまった。そのころケイはネイティブアメリカンやカナダの先住民族ファーストネーションズの人々とその哲学に傾倒していた。そして完成した曲が「When You Gonna Learn」だが、レコーディングが完了すると、プロデューサーと意見が対立し、歌詞の半分はカットされ、よりチャート受けするような形に変えられてしまった。この経験からケイはちゃんとしたライブサウンドを演奏できるバンドの必要性を痛感した。1991年ケイはブランニュー・ヘヴィーズのカバーを歌ったデモテープを送り、ジャイルス・ピーターソンの「アシッド・ジャズ・レコード」と契約をした。バンド名は即興的なライブを意味する「ジャムセッション」と、ネイティブアメリカンの「イロコイ族」を合わせてJam + Iroquois「ジャミロクワイ」と命名した。ケイは徐々にバンドメンバーを集め、まずは昔からの友人で、オーストラリアの先住民アボリジニの民族楽器ディジュリドゥを演奏するウォリス・ブキャナンを誘う。ケイのマネージャーはキーボーディストのトビー・スミスをスカウトし、彼はその後、ケイのソングライティングにおける名パートナーとなった。更に界隈でミュージシャンとして活動していたニック・ヴァン・ゲルダーが紹介されるなど、アシッド・ジャズの人脈をあげたラインナップが完成した。
1992年デビューシングル「When You Gonna Learn」をリリース、オープニングからウォリスのディジュリドゥの不思議な音色をフィーチャーし、ケイが作りたかった完璧な形にヴァージョンアップした。翌年、オーディションによりベースのスチュワート・ゼンダーが加入した。
「When You Gonna Learn」はイギリスチャートでトップ50の圏外ではあったが、クラブを中心にヒット。アンダーグラウンド・シーンで一大旋風を巻き起こし、たった1曲のシングルでその年の末に行われた5000人収容のロンドン、ブリクストン・アカデミーでのコンサートをソールド・アウトするという快挙を演じた。その後、各レコード会社の猛烈な争奪戦によりソニー・ミュージックが新人との契約としては異例中の異例とも言える100万ドルと8枚のアルバム契約を交わすことに成功した。しかしソニーと契約を結んだのはバンドではなく、ジェイ・ケイ個人だった為、ケイはバンドメンバーには貢献に応じてロイヤリティーを分け与えることにした。そして1993年にデビューアルバム『Emergency on Planet Earth』をリリースし、イギリスのアルバム・チャート1位に入った。その後、長期休暇から戻ってこなかったオリジナルドラマー、ニック・ファン・ゲルダーに代わり、デリック・マッケンジーがドラマーとなった。
1994年にはセカンドアルバム『スペース・カウボーイの逆襲(The Return of the Space Cowboy)』をリリースしイギリスチャートで2位にランクインした。アルバム録音中、ケイは薬物使用の増加により「クリエイティブ・ブロック」という状態になり、それにより錯乱したような作詞作曲が散見されるが、アルバム自体は「最高の状態でジャミロクワイの第一章に突入した」と評された。

最高傑作『Travelling Without Moving~ジャミロクワイと旅に出よう~』と『Synkronized』

大ヒット曲「Virtual Insanity」

1996年に発売したサード・アルバム『Travelling Without Moving~ジャミロクワイと旅に出よう~』はビルボード200で24位、イギリスのアルバムチャートで2位に達した。全世界で800万枚の売り上げを記録、日本でも140万枚を売り上げ、ジャズ・ファンク系バンドのアルバムとしては最大のヒット作となり、「史上最も売れたファンク・アルバム」としてギネス世界記録に登録された。シングルになった「ヴァーチァル・インサニティ(Virtual Insanity)」のプロモーションビデオでは、動く床と戯れるように歌うジェイ・ケイの姿が強烈なインパクトを残し、その年のMTV Video Music Awardsで4部門を受賞した。
1998年、ハリウッド版ゴジラのサウンドトラックのシングルとしてリリースされた『Deeper Underground』がイギリスのシングルチャートでナンバーワンに達した。
1999年、グループが4枚目のアルバム『Synkronized』を準備している間、ベースのスチュワート・ゼンダーは、権利と立場の不満を訴え、ケイと激しく対立し、最終的にジャミロクワイを去った。ゼンダーはアルバムの作詞作曲に関与していなかったが、グループは訴訟を避けるために彼の録音されたトラックを全てスクラップすることを選び、新しいベーシスト、ニック・ファイフを起用して全てのトラックを録音しなおし、アルバムは半年遅れでリリースされた。波乱を含んだアルバムだったが、イギリスのアルバムチャートで1位、アメリカビルボード200で28位にランクインした。

2000年代~オリジナルメンバーはジェイ・ケイのみになる 〜『A Funk Odyssey』と『Dynamite』

ジャミロクワイ、2000年頃

あくまでもバンドに固執していたジェイ・ケイだったが、2001年発表の5作目『A Funk Odyssey』では、レーベルの意向によりジェイ・ケイのソロとしての側面が強調され、それまでのディジュリドゥのパートやインストゥルメンタル曲がなくなった。より電子的でディスコ・ファンク的な音作りは、それまでのクラブやホールで親しまれてきたアシッド・ジャズサウンドを超えて、より大きなアリーナやスタジアムでも対応できるスケールアップしたサウンドとなった。『A Funk Odyssey』はイギリスチャートで1位を記録し、アメリカではエピックレコードの下でビルボード44位を記録した。翌2002年に、家族との時間を優先する為にトビー・スミスが脱退することになり、結成時からのオリジナルメンバーは全員いなくなった。
2005年、6枚目のアルバム『Dynamite』をリリース、イギリスのアルバムチャート3位に輝いた。その後初のベストアルバム『ハイ・タイムズ:シングルズ 1992-2006』を発売。イギリスアルバムチャートで初週ナンバー1を記録した。オリジナルアルバム6作、ライブDVD1作、そしてこの新曲2曲を含むベスト盤1作の計8作を数え、ソニーBMGとの契約が満了した。
翌年、ジャミロクワイはソニーエリクソンと提携して、プライベートジェットのボーイング757で「ギグ・イン・ザ・スカイ」という名のコンサートを行った。 これによりバンドは、1,017 km/h (時速 632 マイル) で移動する飛行機内で行った「世界最速コンサート」としてのギネス世界記録を保持している。2009年に、ユニバーサルミュージック傘下のマーキュリー・レーベルと契約を結んだ。

2010年代~ソニーミュージックとの契約終了〜 『Rock Dust Light Star』と『Automaton』

2018年、スイス、チューリヒ、Hallenstadionでのライブ

2010年、7枚目のスタジオアルバム『Rock Dust Light Star』をリリース、イギリスのアルバムチャートで7位に輝いた。ケイはこのアルバムを「ライヴ演奏を主体とした本物のバンドのサウンド」と説明したが、批評家達からは「オーガニックファンクとソウルスタイルへの回帰」とみなし、カリフォルニア70年代ファンクロックと評した。同年11月24日、プロモーションのために来日。日本テレビ系『スッキリ!!』で生出演し、新宿で開催された「AZUL by moussy」のオープニングレセプションにシークレットゲストとして登場、日本では自身初となるストリートライブを行った。
長期に及んだ『Rock Dust Light Star』ツアーの後、ヴィンテージ・ロックテイストを取り入れた前作とは反転してエレクトロ・ファンク色を強めた8作目『オートマトン』が、2017年にヴァージンEMIの下でリリースされた。実に7年ぶりの新作だった。2017年10月、作曲における長年の音楽業界への貢献と影響力を讃えられ、ジェイ・ケイはBMIプレジデント・アワードを受賞した。受賞式の壇上では自身の結婚を公表し、同年4月に逝去したトビー・スミスに賞を捧げた。
このように、ジャミロクワイはアシッドジャズの世界から彗星の如く登場し、アシッドジャスにはとどまらない、よりエレクトリックなファンクへと進化を続け現在に至っている。
同じアシッドジャズのインコグニートが、まるで金太郎飴の如く、昔と全く変わらないサウンドでアルバムを発表し続けているのに対し、ジャミロクワイはアルバム発表の頻度は低いものの、毎回新しい要素を少しずつ付け加えて、世間やファンをあっと言わせる作品を世に送り出し続けている。
90年代初頭にイギリスの音楽シーンを彩ったブリットポップも、ムーブメントの中心人物だったブラーのデーモン・アルバーンによる「ブリットポップは死んだ」と言う発言などによって、1997年から1998年頃に終止符が打たれた。同じくアシッドジャズムーブメントも90年代のごく短期間で終わってしまったが、ブラーやオアシスと言った「ブリットポップス」の面々がことごとく活動を停止してしまったのとは対象的に、ジャミロクワイをはじめとしてインコグニート、ブラン・ニュー・ベビーズ等の「アシッド・ジャズ」のグループは今でも活動を続けている。

Jamiroquai(ジャミロクワイ)のメンバー

Jay Kay (ジェイ・ケイ/ lead vo)

本名ジェイソン・ケイ(Jason Kay)は1969年12月30日、イギリス、ランカシャーのストレットフォードで生まれた。母親、カレンケイは、ジャズシンガーで元キャバレーの歌手であり、テレビのパーソナリティーもしていた。母は実父とは別の男性と結婚し、継父や、母のマネージャが父親代わりだった。実の父親は、ポルトガル人の元ギタリストであるルイス・サライバで、ジェイが26歳になってからレコード会社の計らいで初めて対面した。ケイには双子の兄デイビッドがいたが、生まれてから数週間後に亡くなっている。ケイは初期の作品の歌詞で頻繁に兄のことを取り上げている。
ケイはラトランドのオークハム学校に通ったが15歳のとき退学になった。16歳で家を出て音楽機材を買うために様々なアルバイトをしながら、当時のアシッドジャズ、レア・グルーヴ・シーンの真っ只中にあったのクラブ文化に入り浸ることになる。
やがてアシッドジャズの「ヤング・ディサイプルズ」のメンバーであるフェミ・ウィリアムズの弟と出会い(彼はごく初期のマネージャーとなった)ブラン・ニュー・ヘヴィーズの曲を歌ったデモをアシッド・ジャズ・レコーズに持ち込んだことを契機に、同レーベルからのデビュー、ジャミロクワイの構想へと繋がっていった。ジェイはジャミロクワイ結成前に、オーディションに失敗してブランニューヘヴィーズの歌手になったと広く報道されたがブランニューヘビーズはその主張を否定している。
1992年にジャミロクワイを結成し、最初のシングル「When You Gonna Learn」をアシッドジャズ・レコーズからリリース。ロンドンのクラブシーンに強烈なインパクトをもたらし、結果ジャミロクワイは、新人としては異例の100万米ドルとアルバム8作分の契約をソニー・ミュージックと結んだ。ソニーとの関係は2007年に終了した。
ケイは「マリア」としてのみ知られている女性と結婚しており、カーラとタルーラの2人の娘がいる。『オートマトン』のアルバムのトラック「Carla」は、彼の長女へのオマージュである。
彼は熱心な環境活動家で知られており、ジャミロクワイの曲などでも環境破壊について憂う歌詞が多く見受けられる。しかしフェラーリやランボルギーニなどのスーパーカーを何台も所持しており、よく言行の矛盾を指摘されている。乗り物と共に帽子も有名である。ステージ衣装としてのアメリカ先住民のウォー・ボンネットを模した大きなものから、ストリート風のワッチキャップ、モードなハットなど、大量に所持している。ブレイクダンスやパントマイム、スケートボードなどに基づく独自のダンススタイルを持ち、ライブの高揚に合わせて即興的に踊る。1997年MTV Video Music Awardsでは、「ヴァーチャル・インサニティ」のビデオにおいて振り付け部門でノミネートされた。
曲作りに関して、作曲過程ではまず曲の全体像がイメージとして浮かび、すべての楽器に対して演奏してほしいメロディを歌って教えることでトラックを作り上げていくという。その上に乗せる歌唱はやはり随所において自由で即興的であり、ライブでは全身でバンドを指揮している。

Derrick McKenzie( デリック・マッケンジー/dr)

デリック・マッケンジーは、ジャミロクワイ参加以前にアーバン・スピーシーズの一員として来日している。
1993年、デリックはトッププロデューサーだった友人と出会い、2日後にジャミロクアワイというバンドのオーディションを受けたいかどうか尋ねられた。デリックは当時彼らのこと知らなかったが、長いオーディションの末合格し、1994年、セカンド・アルバム『スペース・カウボーイの帰』でジャミロクワイに参加、以来8枚のアルバムで執筆・演奏し、6回ワールドツアーを完売、アイヴァー・ノヴェッロ賞、グラミー賞、MTV、BMI、MOBO、ビルボード・ミュージック・アワード等、数々の賞を受賞するなど、ドラマーとソングライターとして輝かしいキャリアを築いた。
また、ドラマーだけでなく、デリックはバーやクラブでジャミロクワイ、アフターショーパーティーのためにDJをしたりしながら、2004年頃から専門的にDJとして活動を始めている。

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