Duran Duran(デュラン・デュラン)の徹底解説まとめ

Duran Duran(デュラン・デュラン)とは、1978年、イギリス、バーミンガムにて結成されたバンド。1980年代に起きたニューロマンティックムーブメントを代表するバンドとなり、アイドル的なルックスのよさやスタイリッシュなファッションを武器に世界中でブレイクした。1981年「プラネット・アース」でデビュー、84年シングル「ザ・リフレックス」で初の全米No.1に輝く。その後はメンバー・チェンジなどで活動は一時停滞するが、デビュー40周年を超え、これまでのレコード・セールスは1億枚を超える。

1993〜1995 『ウェディングアルバム』の大ヒットでメジャーシーンに復帰

1993年、バンドは2度目のセルフタイトルアルバム『Duran Duran』をリリースした。
デビューアルバムと同名のために、『The Wedding Album』と呼んで区別されている。

シングル「オーディナリー・ワールド / Ordinary World」はアメリカのチャートで3位、イギリスで6位になり、作曲で名誉あるアイヴァーノヴェロ賞を受賞した。

また、主にククルロによって書かれ、ルボンによって歌詞が付けられた「カム・アンダン / Come Undone」は、米国で7位、英国で13位になった。アルバム自体も英国4位、全米7位に輝き、バンドとレコードレーベルの両方が、このアルバムの商業的な成功に驚いた。ベーシストのジョン・テイラーはバンドを去ることを考えていたが、これにより考えを変えた。

1995年、全曲カバーアルバム『Thank You』をリリース。80年代オールドスクールラップの第一人者、メリー・メルの代表曲「ホワイト・ラインズ(ドント・ドント・ドゥ・イット)」がヒット。エルビス・コステロの「ウォッチング・ザ ・ディテクティブ」、ルーリードの「パーフェクト・デイ」では元ドラマーのロジャー・テイラーが一時的にドラムをプレイした。

アルバム自体は酷評されだが、ルーリードはデュラン・デュランのカバーについて、これまでに行われた最高のカバーだと述べ、レッド・ツェッペリンのカバー「サンキュー / Thank You」も、ボーカルのロバート・プラントと、ギターのジミー・ペイジから称賛を受けた。

1997〜2000 ジョン・テイラー脱退、「ルボン、ローズ、ククルロ」のトリオへ。

1997年1月、アルバム『メダザランド』の制作に何ヶ月も労した後、創設メンバーのジョン・テイラーはデュラン・デュランから永久に脱退すると発表した。

バンドはルボンとローズの長年の2人と、ククルロの3人体制になった。

『メダザランド』は1997年10月にアメリカでリリースされたが、イギリスでリリースされることはなかった。

1998年6月27日、ダイアナ元王妃の家族の特別なリクエストにより、「プリンセス ダイアナ トリビュートコンサート」で演奏した。

1999年、デュラン・デュランはデビューからのレーベル、キャピトル/ EMIと契約を終了した。その後、バンドは「ウォルト・ディズニー・レコード」傘下のハリウッド・レコードとの3枚のアルバム契約を交わしたが、結果2000年のアルバム『Pop Tr​​ash』1枚だけで契約は終了した。

2001〜2004 「オリジナル5」再結成

2000年、ルボンはデュラン・デュランのオリジナルラインナップ再集結を画策すべくジョン・テイラーにコンタクトを取った。それを受けて『Pop Trashツアー』終了後にククルロがバンドを離れることを了承した。その後、ククルロは自身のウェブサイトで、ミッシング・パーソンズとの仕事を再開するためにデュラン・デュランを離れることを発表した。これを受けて翌日デュラン・デュランはジョン、ロジャー、アンディ・テイラーが再び参加したと発表した。ククルロは2001年6月に日本で3回、デュラン・デュランとしての最後のコンサートを行い、バンドでの在職期間を終了した。

2001年、2002年、2003年を通して、バンドは新しい素材の作成に取り組み、さまざまなプロデューサー(旧友のナイル・ロジャースを含む)と自己資金で仕事をし、新しいレコード契約を探した。しかしバンドのカムバックと言う一種のギャンブルを受け入れるレコードレーベルはなかなか無かった。デュラン・デュランは再結成されたバンドの集客力を証明するためにツアーを行った。 ファンとメディアの反応は予想を上回った。2003年には25周年ライブを数回行い、東京での2公演も数分間でチケットが完売した。

「2003 MTV Video Music Awards」のプレゼンターとして呼ばれたが、逆にそこで「Lifetime Achievement Award」を受賞されるというサプライズを受けた。

また、10月に『Qマガジン』からも「Lifetime Achievement Award 生涯功労賞」を受賞し、2004年2月にBRITアワードでも同等の優秀貢献賞を受賞した。

その後、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドでのツアー全て完売。

新しいトラック「リーチアップ・フォー・ザ・サンライズ / (ReachUp for the)Sunrise」のリミックスが2月にテレビ番組でリリースされ、多くの雑誌は「現代のFab5」として、デュラン・デュランを史上最高のバンドの1つとして称賛した。(かつてビートルズの4人がFab4と呼ばれていた。)

2004年4月にはウェンブリー・アリーナで14日間の凱旋公演を行った。

6月にエピックレコードと2枚のアルバム契約を結び、ニューアルバム『Astronaut』が2004年10月にリリースされ、英国のチャートで3位、米国のチャートで17位にランクインした。

最初のシングルは「リーチアップ・フォー・ザ・サンライズ / (ReachUp for the)Sunrise」で、11月にBillboard US Danceチャートで1位になり、UKシングルチャートでは、1985年の「美しき獲物たち / A Viewto a Kill」以来の最高ポジションである5位に達した。

2005〜現在 再びアンディを失い4人に

2006年、ノーベル賞と2006年冬季オリンピックの2つの大きなイベントで演奏した。

プロデューサーのマイケル・パターソンと新作アルバムの制作に取りかかり、暫定的に『ルポルタージュ』というタイトルのアルバムで、15のトラックがほぼ完成したと発表されたが、9月、バンドはニューヨークでジャスティン・ティンバーレイクとプロデューサーのティンバランドとのコラボレーションの話し合いをし、ジャスティン・ティンバーレイクとの曲を含む3曲を完成したと発表した。

2006年10月25日、デュラン・デュランは再びアンディ・テイラーを失った。

ウェブサイトでの公式発表では、バンドとアンディ・テイラーの間に「修復不可能な溝」が発生し、「私たちはもはや効果的に機能しない」と発表された。アンディ・テイラーは、経営陣との軋轢、父親の死等の影響による臨床的うつ病を発症していた。

アンディ・テイラーの脱退後、バンドは完成間近だったアルバム『ルポルタージュ』を廃棄した。そしてティンバランドのトラックを含む『レッドカーペット・マサカー』というタイトルの新しいアルバムをリリースした。

2007年7月、バンドはウェンブリースタジアムに2度登場する。1回目は7月1日、ダイアナ妃生誕45周年、没後10周年『コンサートフォーダイアナ』で、「(リーチアップ・フォー・ザ)サンライズ」、「ワイルド・ボーイズ」、「リオ」を演奏した。 2回目は7月7日、地球温暖化防止のチャリティーコンサート『Live Earthコンサート』であった。

11月、11thアルバム『レッド・カーペット・マサカー〜美しき深紅〜』を発表。

2008年6月、ルイ15世の応接室の修復に対する募金活動により、デュラン・デュランはロックバンドとしては初めて、パリのルーブル美術館で演奏した。

2010年12月、グラミー賞を受賞したマーク・ロンソンがプロデュースし、スパイクステントがミックスした13枚目のスタジオアルバム『All YouNeed Is Now 』がiTunesで独占的にリリースされ、15か国(英国を含む)のダウンロードチャートで1位になった。

2011年3月、バンドはアルバムをサポートするワールドツアーに乗り出した。

2013年3月4日、バンドはスタジオに戻って14枚目のスタジオアルバムを制作を開始した。その後、元レッドホットチリペッパーズのギタリスト、ジョン・フルシアンテがカリフォルニアのホームベースからインターネットでやりとりをしながらアルバム制作に加わった。

そして2015年9月11日、アルバム『Paper Gods』として正式に発表し、シングル「プレッシャー・オフ / Pressure Off」も同じ週にリリースされた。

2019年初頭から次のアルバムの制作に取りかかり、2020年春の終わりのリリースと発表された。しかしCOVID-19のためにアルバムリリースは保留され翌年に持ち越された。

2021年1月13日、ローリング・ストーン紙は、「2021年の最も期待される54枚のアルバム」リストの50番にデュラン・デュランのアルバムを挙げた。

5月19日、アルバム先行シングル「Invisible」が発表され、元ブラーのコクソンがギタリストとしてフィーチャーされ大きな話題となった。

2021年10月22日アルバム『Future Past』がリリースされた。UKアルバムチャートで最高位3位に達した。これによりデュラン・デュランは1980年代、1990年代、2000年代、2010年代、2020年代全ての年代でトップ5アルバムを持つという偉業を達成した。

Duran Duran(デュラン・デュラン)のメンバー

Simon Le Bon(サイモン・ル・ボン/ Vo)

デビュー前のスティーブン・ダフィ、アンディ・ヴィケット、ジェフ・トーマスに続くデュラン・デュラン4代目ボーカリストで、デビューからは不動のボーカリスト。まさにデュラン・デュランの顔。

1958年10月27日、本名サイモン・ジョン・チャールズ・ル・ボンは、イングランドのロンドン郊外で生まれた。小さい頃から地元の教会の合唱団に所属していた。小学校の先輩にエルトン・ジョンがいる。バーミンガム大学(University of Birmingham)に進学し、演劇を専攻した。その後パンクバンドのオーディションを受けたり、劇場の裏方として働いたり、テレビのコマーシャルに数回出演した。また、ロンドンのウエストエンドでミュージカルに数回出演した経験がある。

1980年、彼のガールフレンドのフィオナが働いていたバーミンガムのナイトクラブ「ラム・ランナー」で、結成して間もないバンド、デュラン・デュランが定期的に演奏していた。フィオナはバンドがボーカルを探していることを知っていたため、サイモンにオーディションを受けてみることを勧めた。オーディション当日、彼は豹のプリントの付いたピンクのズボンを履いて、詩の沢山書かれたノートを持って現れたという。彼らはとりあえず夏の間だけ一緒に活動しようということになった。その後6週間、バーミンガムやロンドンで演奏を続けた後、その年の12月にはEMIレコードと契約しデビューを果たした。

デュラン・デュランの音楽をジャンル分けするのは難しい。デビュー当初こそ、ニューロマンティックの旗手と呼ばれていたがブームは早々に去った。バンドは40年以上活動を続けていが、ルボンの声量はデビュー当時から全く衰えていない。まさにルボンが歌えば、どんなサウンドでもそれは唯一無二のデュラン・デュランの音楽になるのである。逆を言えばルボンが歌わなくなった時、それはデュラン・デュランの音楽の終焉に直結するのである。デビュー以来一枚のソロアルバムも発表することなく、常にデュラン・デュランのフロントマンとして活動を続けている。

1985年 ファッションモデルのヤスミン・パヴァーネと結婚した。3人の娘がいる。2018年、2番目の娘が初孫を出産した。

Nick Rhodes (ニック・ローズ/key)

1962年6月8日生まれ。本名はNicholas James Bates、デュラン・デュラン創設メンバーで唯一の継続メンバー。

バーミンガムの裕福な玩具店の一人っ子として育ち、北ウスターシャーのワイソールにあるウッドラッシュ高校に通った。 そこで、近くのハリウッド村から通っていたジョン・テイラーと「RAF」と呼ばれるバンドを結成した。

1978年に16歳で学校を卒業し、学校の友達であるスティーブン・ダフィー(ボーカル)、ジョン・テイラー(当時はリードギターを演奏)、サイモン・コリー(ベース)とデュラン・デュランを結成した。

ニック・ローズのローズは芸名だがこれはジョンが電子ピアノである「Rhodesピアノ」から名付けたという。

デュラン・デュランは「ラム・ランナー」と呼ばれる地元のバーミンガムクラブで演奏を始めた。クラブのオーナーがバンドのマネージャーになり、ローズはクラブでディスクジョッキーとして働き始めた。

音楽的教育を受けていないローズは、アナログシンセサイザーと苦戦した。その結果バンドは急速に成功し、「セイヴ・ア・プレイヤー」「007 / 美しき獲物たち」「カム・アンダン」「オーディナリー・ワールド」などの特徴的なストリングサウンドを生み出していった。

またローズはいち早くミュージックビデオの可能性を認識し、MTVが登場するよりも前から、多くの努力をプロモーションビデオに注ぎ、派手な化粧に両性的な衣装を身にまとい、ヴィジュアル面を全面に出してバンドを大きく売り出した。

プロデューサーとしても活動するようになった彼は、1983年には『ネバーエンディング・ストーリー』のテーマ曲でも有名なリマール率いる「カジャグーグー」のデビュー曲「君はTOO SHY / Too Shy」のプロデューサーを務めた。また、デュラン・デュラン以外のいくつかのサイドプロジェクトに関与し、1985年にはデュラン・デュランの3人のメンバー:ローズ、サイモン・ル・ボン、ロジャー・テイラーと共にアルカディアをプロデュース、また、長年の音楽友達であり、デュラン・デュランの初代リードシンガーであるスティーブン・ダフィーとの2002年のデビルズ。 2013年3月には元デュラン・デュランのギタリスト、ウォーレン・ククルロとのTVマニアのサイドプロジェクトをリリースした。

彼はまた、2004年から2005年の『Astronaut』アルバムのワールドツアー中にサイモン・ル・ボンによってステージ上で「コントローラー」として非公式に紹介されたが、デュラン・デュランは「リーダー」という言葉を使わず、コントローラーという言葉を使う。ローズこそがデュラン・デュランのコントローラーであり、実質的なリーダーなのである。

John Taylor(ジョン・テイラー/b)

本名ナイジェル・ジョン・テイラー。1960年6月20日、パーミンガム生まれ。

1978年のデュラン・デュラン結成から在籍したが、1997年にソロレコーディングと映画のキャリアを追求するために一度バンドを脱退、2001年にオリジナル5人のメンバーの再結成によりデュラン・デュランに再び加わり、それ以来グループに残っている。

イギリスのウスターシャー州ハリウッドの近くで育ち、地元のカトリック学校に通った。
重度の近視のため眼鏡をかけていた。

幼少期はジェームズ・ボンドの映画に興味を持っていたが、10代前半に、音楽に興味を持ち出し、特にロキシーミュージックがお気に入りであった。
その後独学でピアノを弾く様になり、「ショックトリートメント」と言うバンドを組む。

高校の友人であるニック・ローズとバーミンガム工科大学(現在のバーミンガム市立大学)に通いながら、スティーブン・ダフィーと出会い、1978年デュラン・デュランを結成。

この頃テイラーは眼鏡からコンタクトレンズに変え、別人の様な美男子に変身した。その後のデュラン・デュラン全盛期にはティーン向け雑誌においてセクシーな男性ランキングの常連となるように、まるで「みにくいアヒルの子」の様な華麗なる変身を遂げたのである。

当初はギターを担当していたテイラーだったが、シックのバーナード・エドワーズのファンキーなベースに大きな影響を受け、ベーシストに転向する。

初期のデュラン・デュランのサウンドは、ニューロマンティクスを基調としたニューウェーブサウンドであるがベースラインはシックのファンキーでディスコ的なリズムを取り入れていると言われている。

1985年にはその憧れのバーナード・エドワーズ、プロデュースのもと、ギターのアンディ、ドラムにはシックのトニー・トンプソン、そしてボーカルには83年にサッカープレミアリーグの「アストンヴィラ」のチャリティーコンサートで知り合ったロバート・パーマーを迎え、ザ ・パワーステーションを結成、「サム・ライク・イット・ホット」とT.Rexのカバー曲「バン・ア・ゴング(ゲット・イット・オン)」のヒットを放つ。

また、映画『007 / 美しき獲物たち』で、憧れだった007の主題歌を担当し、全米ナンバーワンを獲得。彼はボンドガールのジャニーン・アンドルーズや、1980年代の顔であったレニー・シモンセンなどのファッションモデルたちとデートしたり、いつも夢見ていたボンドスタイルのアストンマーティンをを所有したり、まさに成功を謳歌し贅沢なライフスタイルを送っていた。
その輝かしい成功の代償として、テイラー自身は酒と女とドラッグに溺れるようになる。
最初の結婚は1991年31歳の時。当時19歳だったアマンダ・デ・カデネと結婚し、娘も授かった。しかし薬物のエスカレートによる治療を繰り返し、1995年には離婚した。

1997年1月、テイラーはファンコンベンションでデュラン・デュランを去ることを発表した。

2000年に、テイラーはロサンゼルスの自宅でサイモン・ル・ボンからオリジナルのデュラン・デュラン再結成についてアプローチされ、1986年以来離れていたロジャーとアンディも喜んで合意に達し、テイラーは右腕に巨大なDのタトゥーを入れ、バンドへコミットメントを示した。

2006年に再びアンディ・テイラーが脱退したが、以降はオリジナルの4人で活動を続けている。

2013年2月、テイラーは『Music Radar』のベーシスト投票で29位となり、2021年12月、『Bass Player』誌はテイラーに生涯功労賞を授与した

Roger Taylor(ロジャー・テイラー/dr)

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