Duran Duran(デュラン・デュラン)の徹底解説まとめ
Duran Duran(デュラン・デュラン)とは、1978年、イギリス、バーミンガムにて結成されたバンド。1980年代に起きたニューロマンティックムーブメントを代表するバンドとなり、アイドル的なルックスのよさやスタイリッシュなファッションを武器に世界中でブレイクした。1981年「プラネット・アース」でデビュー、84年シングル「ザ・リフレックス」で初の全米No.1に輝く。その後はメンバー・チェンジなどで活動は一時停滞するが、デビュー40周年を超え、これまでのレコード・セールスは1億枚を超える。
本名ロジャー・アンドリュー・テイラー。1960年4月26日生まれ。
デュラン・デュランのデビューから1985年まで、そして2001年以降のドラマーとして活動している。
12歳頃からドラムを始めたが、彼の夢はプレミアリーグのサッカークラブであるアストンヴィラのゴールキーパーになることだった。その夢は1983年、ヴィラパークで行われたデュラン・デュランのチャリティーコンサートと言う形で実現することになる。
テイラーのドラムは、ロキシー・ミュージックのドラマー、ポール・トンプソン、ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツ、シックのトニー・トンプソンから影響を受けている。
デュラン・デュランに参加する前、地元パーミンガムのクラブバンドで演奏していたが、バーミンガムのクラブ「バーバレラ」で演奏していたパンクバンドに触発された後、彼はニューウェーブ&パンクバンドである「Scent Organs」を結成し、1978年にメロディメーカー誌の「ヤングバンド オブ ザ イヤー」の地域でのファイナリストになり、Scent Organs解散後にはポストパンクバンド「カルトフィギュア」のメンバーとなった。その後ロジャーはデュラン・デュランに加わった。
1980年代初頭にはデュラン・デュランの他のメンバーとともに国際的なスターになり、
最初の3つのスタジオアルバム『デュラン・デュラン』『リオ』『セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー』とライブアルバム『アリーナ』でドラムを演奏した。
1985年、ジェームズ・ボンドの映画『007 / 美しき獲物』のテーマソングを録音。しかし、レコーディングとツアーの激しいスケジュール、そして成功と名声のプレッシャーと相まって、ロジャーはバンドに参加することに不満を抱くようになる。 デュラン・デュランでの彼の最後の公演は、1985年7月にフィラデルフィアで開催されたライブエイドのチャリティーコンサートで、世界中の15億人の聴衆を前に演奏した。
バンドを去る前にロジャーは1985年、サイドプロジェクト「アルカディア」でサイモン・ル・ボンとニック・ローズとアルバムを制作した。
また、もう一方のサイドプロジェクトである「パワーステーション」のセルフタイトルアルバムからのシングル「サム・ライク・イット・ホット」にもパーカッションで参加した。
その後、彼は音楽の世界から離れて静かな生活を送るために、グロスターシャーの丘にある遠隔地の農場を購入した。当初、彼の休止期間は1年間と言われていたが、1986年にバンドの残りのメンバーは、ロジャーがデュラン・デュランを離れるという声明を発表した。
1994年、パリの友人を訪ねている間、彼は一時的にデュラン・デュランに参加し、カバーアルバム『Thank You』で3曲ドラムを演奏した。
2001年、ロジャーはデュラン・デュランに復帰した。全盛期の5人のメンバー全員が再会し、再びクインテットとして活動した。 ウェンブリーアリーナでの5公演を完売し、マディソンスクエアガーデンで再びプレイし5人の活動はピークに達した。残念ながらアンディはその後再びバンドを去ったが、4人はそのままデュラン・デュランのメンバーとして活動を続けている。
Duran Duran(デュラン・デュラン)の旧メンバー
Andy Taylor(アンディ・テイラー/g)
本名アンドリュー・アーサー・テイラー。1961年2月16日、イングランド北東部タインマス生まれ。
11歳でギターを始め、すぐに地元のバンドで演奏した。学校を中退し、いくつかの異なるバンドでイギリスとヨーロッパをツアーし、男性クラブや空軍基地で演奏した。そして1980年4月、アンディが後に言うように、彼は「運命的に導かれるように」バーミンガム行きの列車に乗った。
そして、「ラム・ランナー」というバーミンガムクラブで名声を博し初めていたデュラン・デュランのギタリストに就任する。
アンディを含むオリジナルメンバーが揃ってからわずか7か月後の1980年12月にEMIレコードに署名、デビューシングル「プラネット・アース」を発表し、その後1983年までに、バンドは瞬く間に世界的なサクセスストーリーを手にした。
1985年、デュラン・デュラン休止の間、アンディ・テイラーとベーシストのジョン・テイラーは有名なセッションドラマーで元シックメンバーのトニー・トンプソンとロバート・パーマーと「パワーステーション」を結成。プロデューサーは元シックのベーシストのバーナード・エドワーズ。
「サム・ライク・イット・ホット」(UK No. 14、US No. 6)とT.Rexの曲「ゲット・イット・オン」(UK No. 22、US No. 9)のヒットを生み出す。
ライブエイドではパワーステーション、デュラン・デュランの2つのバンドで演奏した。
憧れだったロバート・パーマーとのセッションは、アンディの心に変化を生む。パーマーは1985年にアルバム『Riptide』を録音し、ここでもバーナード・エドワーズプロデュースのもと、アンディ・テイラーとトニー・トンプソンが招集された。そしてアンディのギターが大きくフィーチャーされたヒット曲「Addicted to Love / 恋におぼれて」は全米No.1ヒットとなり、ロバート・パーマーの全米での人気を押し上げた。そしてこの曲は80’sを代表する曲となった。
パワーステーション、ロバート・パーマーとのアメリカでの予想外のヒットにより、アンディとデュラン・デュランとの亀裂はさらに大きなものになった。
アンディは元セックス・ピストルズのギタリストであるスティーブ・ジョーンズと出会い、ソロアルバムのためにコラボレーションを始めた。
映画『アメリカン・アンセム』のサントラにヒットシングル「Take It Easy」を録音他3曲を提供.また、映画『マイアミバイス II』のサウンドトラックに「When the Rain Comes Down 」を提供し、1987年、最初のソロアルバム、『サンダー』を発表した。
そして遂にアンディはデュラン・デュランを脱退した。
その後アンディはバーナード・エドワーズ、トニー・トンプソンと共にロッド・スチュワートのマルチプラチナアルバム『アウト・オブ・オーダー』に参加したり、1990年代には2枚目のソロアルバムを発表。そして様々なバンドのプロデュースを手がけ、デュラン・デュランとは別の道を歩んでいく。
1996年、パワーステーションを再結成。ベースはジョン・テイラーに代わって1作目でプロデューサーだったバーナード・エドワーズが担当した。セカンドアルバム『Living in Fear』をレコーディングしたが、その年のシックの来日講演の後、バーナード・エドワーズが宿泊先のホテルで急死した。バンドは彼の突然の死に衝撃を受けたが、トリオとして継続し、プロジェクトを完了させた。
2000年にアンディはデュラン・デュランの元メンバー達と再会する。再結成を果たしたデュラン・デュランは2004年『Astronaut』を発表。春には史上最大の英国ツアーを行い、2005年にはアジア、ヨーロッパ、南アメリカ、北アメリカを含む世界ツアーを行った。
2006年、アンディは再びバンドを去った。
およそ10年間の音楽からの休止を経て、
2019年、アンディはツアーを再開し、新しいシングルをリリースした。
Stephen Duffy(スティーブン・ダフィー/vo)
本名スティーブン・アンソニー・ジェームス・ダフィー。1960年バーミンガム生まれ。
イギリスを代表するミュージシャン。
80年代のライラック・タイム(The Lilac Time)での活躍で知られ、繊細なメロディ・センスに定評のあるダフィーが、デュラン・デュランの初代ボーカリストだったことを知る人は多くない。或いは知っていたとしても、当時「ネオ・アコースティック」と呼ばれた純英国風のギターサウンドと、デュラン・デュランとイメージはなかなか結び付かない。
彼が音楽の世界に入ったのはバーミンガム工芸学校(現在のバーミンガム市立大学)に通っていた19歳の頃で、偶然出会ったジョン・テイラーとニック・ローズと意気投合し、デュラン・デュランの初代ヴォーカリストに就任する。
しかし加入後わずか半年で彼は学校を辞めることとなり、同時にデュラン・デュランも脱退する。
その後ダフィーは81年にはサブタレイニアン・ホークス(のちにザ・ホークスに改名)というバンドを結成し、インディーズからシングルをリリース。
82年、スティーブン・"ティン・ティン"・ダフィーと名乗ってエレポップに転向、ポップスター路線でブレイクを図る。
83年リリースのシングル「Hold It」が全英55位に入り、初のチャートインを果たす。ザ・ホークスの頃の面影はまったくなく、思いっきりダンサブルなエレポップに変貌を遂げた。
85年リリースのシングル「Kiss Me」は全英4位のヒットとなり、彼は一躍ブレイクする。この曲は82年、84年にもシングルとしてリリースしたが売れず、三度目の正直でようやくヒットした。
しかしこの頃彼のニックネームである「ティン・ティン」が、『The Adventures of Tin tin / タンタンの冒険』で有名なベルギーの漫画家エルジェ側の訴えを受け使用できなくなる。
これを機にダフィーはポップスター路線を諦め、ドクター・カルキュラスなるユニットを結成する。
その後ダフィは兄のニック・ダフィー、友人のマイケル・ウエストンと組んで、アコースティックバンドの「ライラック・タイム」を結成する。線の細いダフィのボーカルは元々デュラン・デュランには向かないと言われていたが、ここにきてネオアコースティックと言うジャンルで、そのメロディセンスの良さも相まって、ようやくダフィーの本領を発揮する。
ライラック・タイムは91年に一度活動を停止し、ダフィーはソロとして活動する。
1999年、ダフィーは1978年から1979年にかけて保管されていたデュラン・デュランの音楽のテープ録音を見つけた。その後まもなく、彼はニック・ローズと会い、思い出は蘇り、歌詞を変更せず、70年代後半の楽器と最新の録音技術のみを使用し「The Devils」という名前で再録音したアルバムをリリースした。
99年には兄のニックらとともに、ライラック・タイムを再始動させ、以前にも増して切なくメランコリックなアコースティック路線を展開し、コアなファンを掴んでいる。
袂を分かったデュラン・デュランのように世界を旋風する様なブレイクとはならなかったが、地味ながら玄人受けする活動を続けている。
Andy Wickett (アンディ・ヴィケット/vo)
本名アンドリュー・ヴィケット、1961年3月16日バーミンガム生まれ。フェイン(Fane)という芸名でも知られる。
1978年、ヴィケットは、ニック・ローズらによって結成されたデュラン・デュランに、半年ほど遅れて、2代目のボーカルとして参加した。1979年9月、レコード・デビュー前だったデュラン・デュランは、ヴィケットのボーカルでデモ音源を作成したが、その中には、「グラビアの美少女」や「リオ」の原型となった「See Me Repeat Me」も含まれていた。この音源は、後に2016年に、CD化された。
1980年にはデュラン・デュランを脱退し、デュラン・デュランはサイモン・ル・ボンをボーカルに迎えて、レコード・デビューする。
ヴィケットはその後1986年にはTVアイ (TV Eye)、1988年にはワールド・サーヴィス (World Service) というグループを結成した。
Warren Cuccurullo(ウォーレン・ククルロ/g)
本名ウォーレン・ブルース・ククルロ(Warren Bruce Cuccurullo)。1956年12月8日生まれのイタリア系アメリカ人。
1970年代にフランク・ザッパと仕事をしたミュージシャンであり、レストランのオーナー、元ボディビルダーでもある。1980年代に「ミッシング・パーソンズ」の創設メンバーとなり、1986年から2001年まで15年に渡り低迷期のデュラン・デュランを支えたギタリスト。
ブルックリンのカナージー地区で育ち、幼い頃からドラムとギターを演奏し始めた。10代の頃、フランクザッパの熱心なファンになり、ブルックリンの家から500マイル以内なら全てのライブに足を運んだと言う。
1970年代半ば、彼はテリー・ボジオやパトリック・オハーンなど、ザッパのバンドのメンバーと友達になる。
そして1979年のザッパの映画『Baby Snakes』やいくつかのライブに出演するようになる。ククルロはフランク・ザッパの全てのギターパートを熟知しており、ザッパは大きな感銘を受けた。
1978年、22歳の時ククルロはザッパのオーディションに呼ばれ、メンバーとしてツアーやアルバム制作に携わった。
テリー・ボジオはフランク・ザッパと仕事をしている時にデイルと出会い、1979年に結婚した。ザッパはボジオ夫妻とククルロの3人で独自のバンドを立ち上げるよう説得する。
こうしてミッシング・パーソンズ(Missing Persons)は、1980年にロサンゼルスで結成された。
ミッシング・パーソンズは1980年代初頭にMTVを中心としていくつかのヒットを飛ばしたが、1986年6月、ツアー中に、テリーとデールポジオ夫妻の間の亀裂が大きくなり、最終的に結婚、ツアー、バンド、全てが崩壊した。
ちょうどその頃、ボジオ夫妻はデュラン・デュランのギタリスト、アンディ・テイラーからソロアルバムの制作を依頼されていた。その経緯からククルロは、アンディがデュラン・デュランの次のアルバムに参加する意思がないことを、デュラン・デュランの他のメンバーよりも先に知ることになる。
アンディがスタジオに戻らないことが決定的になった時、デュラン・デュランはアルバム『ノトーリアス / Notorious』を完成させるためにセッションギタリストとしてククルロを雇った。
その後ククルロはバンドと一緒にツアーを続け、アルバム『ビッグ・シング / BigThing』、それに続く10ヶ月にも及ぶ過酷なワールドツアーを経て、1989年6月、デュラン・デュランの正式なメンバーとなった。
ククルロの作詞作曲スキルやギタースキルは1993年の『ウエディング・アルバム』で遺憾なく発揮され、バンドの名声を取り戻すことに大きく貢献した。この年の12月、敬愛するフランク・ザッパが亡くなった。
1990年代のデュラン・デュランの苦悩の時期、ククルロはニック・ローズと共にバンドをまとめ続けた。メンバーが新曲を書き上げるのに苦労している頃、カバーアルバム「サンキュー / Thank You」を提案し、ジョン・テイラーが脱退した後は、ほとんどの曲をククルロとローズが担当した。
しかし2001年の初めに、デュラン・デュランのオリジナルメンバーでの再結成の話が浮上し、ククルロはバンドを去るよう求められた。
当初、彼の離脱は友好的に進んでいたが、その2年後、再結成したバンドのアメリカツアーにゲストとして紹介された時、経営陣から反対され、それにより関係は悪化した。
一説には、関係を恐れたルボンとローズは一通の手紙によりククルロに正式に解雇を言い渡したとことが、関係悪化の原因であるといわれているが、ククルロ自身は「そのようなことでアグレッシブになることはない、もっとプロフェッショナルなことでやることが沢山あったのだ」と否定している。
事実、ククルロはその後もローズと良好な関係を保ち、2013年にデュランデュランのサイドプロジェクトであるTV マニアの素材を含むアルバムをリリースした。
Sterling Campbell(スターリング・キャンベル/dr)
1964年5月3日ニューヨーク生まれ。
B-52s、ソウル・アサイラム、シンディ・ローパー、ネーナ、スパンダー・バレエ、グスタボ・セラティなど、数多くの著名なアクトを手がけてきたアメリカのドラマー兼ソングライター。デュラン・デュランには1989年から1991年まで在籍した。
12歳でドラムを学び始め、14歳のとき、当時のデヴィッド・ボウイのバックバンドのドラマーであるデニス・デイビスがキャンベルが住んでいたアパートに引っ越してきた。デニスはボウイのコンサートに招待したり、ドラムキットをセッティングしてあげたり、若いキャンベルを大いに刺激した。
高校卒業後、セッションミュージシャンとしての仕事をしだし、1986年にシンディ・ローパーと一緒にトゥルー・カラーズ・ワールドツアーに参加し国際的注目を集めた。
1989年、デュラン・デュランのアルバム『ビッグシング』のプロモーションツアーのメンバーに選ばれ、年末に正式メンバーとなった。
次のアルバム『リバティー / Liberty』のレコーディングとプロモーションには大きく貢献した。
しかし次の『ウエディング・アルバム』の制作において、デュラン・デュランのメンバーは、ロンドンにあるククルロのスタジオでのレコーディングの為にキャンベルにロンドンに引っ越すよう求めたが、キャンベルがこれを拒んだ為、それまで培ってきた良好な関係が大きく崩れ、最終的にキャンベルはデュラン・デュランを解雇された。
しかしキャンベルは1991年にデヴィッド・ボウイとレコーディングを開始し、その後1992年にボウイの専属ドラマーとなり、14年間彼と一緒にツアーを行った。
また彼は1996年に法輪功の修行を始める。法輪功は、中国で信者が迫害されている瞑想的な気功の一種で、2002年には中国の天安門広場へ向い、法輪功の理念「真善忍」の横断幕を掲げて迫害停止を訴えた。しかし警察に30時間拘束され、暴行を受けた。これ以後も、中国の人権問題を訴える活動を続けている。
デヴィッドボウイは、キャンベルが法輪功学習者であることや法輪功が中国で弾圧されていることを知っており、法輪功の理念「真善忍」の3文字をバスドラムに貼るのは、ボウイの提案だった。
Duran Duran(デュラン・デュラン)のディスコグラフィー
アルバム
Duran Duran / デュラン・デュラン
01. Girls On Film / グラビアの美少女
02. Planet Earth / プラネット・アース
03. Anyone Out There / 誰かがそこにいる
04. To The Shore / 海辺へ
05. Careless Memories / ケアレス・メモリーズ
06. The Night Boat / ナイト・ボート
07. Sound Of Thunder / 雷鳴
08. Friends Of Mine/ フレンズ・オブ・マイン
09. Tel Aviv/ テルアビブ
1981年発表のデュラン・デュランのデビュー・アルバム。当時のムーブメントを象徴する「ヨーロッパ的な耽美主義とダンス・ビートの融合したエレクトリック・サウンド」はニューロマンティック・ブームを牽引した。「グラビアの美少女」、「プラネット・アース」がヒットした。
Rio / リオ
タグ - Tags
目次 - Contents
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の概要
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の活動履歴
- ニューロマンティック・ムーブメントとは
- 1978〜1980 バーミンガムのクラブ時代
- 1981〜1982 デビュー
- 1983〜1984 MTVの時代に乗り全米制覇
- 1985 サイドプロジェクト「パワー・ステーション」から007テーマソング
- 1986〜1988 アンディ、ロジャーの脱退
- 1989〜1992 ウォーレン・ククルロの加入
- 1993〜1995 『ウェディングアルバム』の大ヒットでメジャーシーンに復帰
- 1997〜2000 ジョン・テイラー脱退、「ルボン、ローズ、ククルロ」のトリオへ。
- 2001〜2004 「オリジナル5」再結成
- 2005〜現在 再びアンディを失い4人に
- Duran Duran(デュラン・デュラン)のメンバー
- Simon Le Bon(サイモン・ル・ボン/ Vo)
- Nick Rhodes (ニック・ローズ/key)
- John Taylor(ジョン・テイラー/b)
- Roger Taylor(ロジャー・テイラー/dr)
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の旧メンバー
- Andy Taylor(アンディ・テイラー/g)
- Stephen Duffy(スティーブン・ダフィー/vo)
- Andy Wickett (アンディ・ヴィケット/vo)
- Warren Cuccurullo(ウォーレン・ククルロ/g)
- Sterling Campbell(スターリング・キャンベル/dr)
- Duran Duran(デュラン・デュラン)のディスコグラフィー
- アルバム
- Duran Duran / デュラン・デュラン
- Rio / リオ
- Seven And The Ragged Tiger / セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー
- Notorious / ノトーリアス
- BIG THING / ビッグ・シング
- Liberty / リバティ
- Duran Duran / ザ・ウェディング・アルバム
- Thank You / サンキュー
- Medazzaland / メダザランド
- Pop Trash / ポップ・トラッシュ
- Astronaut / アストロノート
- Red Carpet Massacre /美しき深紅
- All You Need Is Now / オール・ユー・ニード・イズ・ナウ
- PAPER GODS / ペイパー・ゴッズ
- FUTURE PAST / フューチャー・パスト
- コンピレーション・アルバム
- Decade / ディケイド
- シングル
- Girls On Film -1979 Demo
- DREAMING OF YOUR CARS - 1979 DEMOS PART 2
- ライブ・アルバム
- Arena / アリーナ
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の代表曲
- Planet Earth
- Girls on Film(グラビアの美少女)
- Hungry Like the Wolf
- Rio
- Is There Something I Should Know(プリーズ・テル・ミー・ナウ)
- Union of the Snake
- The Reflex
- The Wild Boys
- A View to a Kill(美しき獲物たち)
- Notorious
- I Don't Want Your Love
- All She Wants Is
- Ordinary World / オーディナリー・ワールド
- Duran Duran(デュラン・デュラン)のミュージックビデオ(MV / PV)
- Burning the Ground
- (Reach Up For The)Sunrise
- All You Need is Now
- Girl Panic!
- Pressure Off
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の名言・発言
- サイモン・ル・ボン「それじゃダメだ。ずっと同じことをやっていれば、それなりにうまくなるのは当然のこと。だからこそ、もっと続けて、もっとうまくならなきゃいけない」
- ニック・ローズ「最近では、世の中にたくさんの音楽が溢れているので、バンドはもう人と違う音を出したくないのかもしれない。音楽がアルゴリズムや何かで機能するようになって、他の人と同じように聴こえる方がいいのかもしれない」
- ニック・ローズ「彼のレコード・コレクション、僕は嫌だったな! 学校で子供たちに禁じるようなヘヴィなロックが多かった」
- Duran Duran(デュラン・デュラン)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- ジョン、ロジャー、アンディ、3人のテイラー
- デュラン・デュランの歌詞について
- 夜のヒットスタジオに出演