Duran Duran(デュラン・デュラン)とは【徹底解説まとめ】

Duran Duran(デュラン・デュラン)とは、1978年、イギリス、バーミンガムにて結成されたバンド。1980年代に起きたニューロマンティックムーブメントを代表するバンドとなり、アイドル的なルックスのよさやスタイリッシュなファッションを武器に世界中でブレイクした。1981年「プラネット・アース」でデビュー、84年シングル「ザ・リフレックス」で初の全米No.1に輝く。その後はメンバー・チェンジなどで活動は一時停滞するが、デビュー40周年を超え、これまでのレコード・セールスは1億枚を超える。

DREAMING OF YOUR CARS - 1979 DEMOS PART 2

01. Dreaming Of Your Cars
02. Love Story
03. X Disco
04. To The Shore

『Girls On Film - 1979 Demo』に続く、貴重初期音源集の第二弾。初代ヴォーカリストのスティーヴン・ダフィ脱退後、デュラン・デュランの代表曲「グラビアの美少女 (Girls on Film)」の作家であり、二代目フロントマンとなったアンディ・ヴィケットのヴォーカル作品集。わずか一年程度しか在籍しなかったアンディの数少ない貴重なレコーディング。ロッカーズ・ビートをバックにアンディのヴォーカルが生える「ドリーミング・オブ・ユア・カーズ / Dreaming Of Your Cars」、イントロのベース・ラインからグルーヴを見せるファンク・チューン「Xディスコ / X Disco」など幻の音源の数々。

ライブ・アルバム

Arena / アリーナ

01. Is There Something I Should Know?
02. Hungry Like the Wolf
03. New Religion
04. Save a Prayer
05. The Wild Boys (previously unreleased)
06. The Seventh Stranger
07. The Chauffeur
08. Union of the Snake
09. Planet Earth
10. Careless Memories

デュラン・デュランの絶頂期に行われた1983年から1984年の「Sing Blue Silver」 のツアーから、オーストラリア、カナダ、イングランド、日本、アメリカにおけるライブ音源を編集したライブ・アルバムであるが、音源には相当のオーバーダビングが後から施されている。

イギリスでは、1984年11月にパーロフォンからリリースされた。また、アメリカではキャピトル・レコード、日本では東芝EMIから、さらに他の20カ国以上でも、1984年のうちにリリースされた。

バンドの殆どのヒット曲のライブと、ニューシングル「ザ・ワイルド・ボーイズ」が含まれた。プロデュースは「ザ・リフレックス」をリミックスし、元Chicのナイル・ロジャース。

「ザ・ワイルド・ボーイズ」はビルボード最高2位、アルバムはイギリスで6位(11月24日)、アメリカで4位(12月1日)に輝いた。

Duran Duran(デュラン・デュラン)の代表曲

Planet Earth

1981年2月2日にリリースされたデュラン・デュランのデビューシングル。2月21日にUKシングルチャートで12位に達し、オーストラリアでは1位になった。

プロモーションビデオのアイデアは同じニューロマンティックのバンド、ウルトラボックスの「ヴィエナ / Vienna」影響されたと、ロジャー・テイラーは後年語っている。

歌詞に「New Romantic」という言葉が出てくるが、あるとき新聞のヘッドラインに "Here Come The New Romantics."という見出しでスパンダー・バレエの写真が出ていたのを見て、バンドはロンドンにいるジャーナリストを呼び、「もしこの様なバンドが好きなら、僕らも好きになるはずさ」と宣伝したとのことである。そして歌詞の中にこのフレーズをいれることになり、その後、デュラン・デュランはニューロマンティックの代名詞といえるバンドになった。

Girls on Film(グラビアの美少女)

グラビアの美少女 オフィシャルバージョン

グラビアの美少女 ナイトバージョン

この曲がアメリカの市場で成功したおもな理由は、そのミュージック・ビデオにあったと考えられている。

この曲のPVには「オリジナルバージョン」と「ナイトバージョン」の2種類がある。先に作られたのは「ナイトバージョン」で検閲により放送禁止になった為、その後、今ある「オリジナルバージョン」が作られた経緯がある。

ビデオの監督は「I'm Not in Love」のヒットで知られるバンド「10cc」の元2人、ゴドレイ&クレーム。

この曲のPVを任された時、アメリカ合衆国のナイトクラブの多くは、古い映画などを映写するためにスクリーンを備えていることに注目していた。そうした設備を使って、過去の曲も含めた彼らのミュージック・ビデオを放送しようとも構想した。

そしてMTVが放送を開始する数週間前の1981年8月13日からシェパートン・スタジオで撮影が開始されたが、このクリップは、当時としては驚くほど長く、楽曲のロング・バージョンに基づき、6分20秒あった。マイケル・ジャクソンの8分にも及ぶ大作「スリラー」よりも2年も前に作られたものだった。

ゴドレイ&クレームは、当時のバンドのマネージャーから「エロティックなものを作ってくれ」とだけ言われ「クラブで流せるような、エロティックで、少し物議を醸すようなものを考えろ」と指示された。

その直後にMTVが開局。最初の6分間の無修正“ナイト・ヴァージョン”は、肌の露出が多い女性たちが次から次へと登場し、挙げ句の果てには乳房をあらわにする女性たちもこぞって現れる内容であったため、BBCやMTVではたちまち検閲に引っかかり、MTVが最終的に放送したヴァージョンは大幅にカットされたヴァージョンになっていた。

しかしこうした悪い評判がアメリカにおいて新たな関心を引き寄せることにつながった。デュラン・デュランのメンバー達も最初からこの騒動を期待通りの結果と喜んでいたという。そもそもこのビデオが作られた理由の一つは、アメリカをぶっ壊すことだった為、邪魔になるどころか、助けになったと感じていた。

その試みは成功し、「グラビアの美少女」は1981年に全英シングルチャートの5位に入り、彼らの名前を世界に知らした。

1984年には検閲にかかったバージョンが、グラミー賞における最初のミュージック・ビデオの賞であるGrammy Award for Best Music Video最優秀短編ビデオ賞 (Grammy Award for Best Video, Short Form) を受賞した。

ゴドレイ&クレームは、この作品をきっかけに以降様々なアーティストのヒットビデオを手がける人気監督デュオとなる。

ゴドレイは「グラビアの美少女」のビデオについて、「正直なところ、今の時代では作られないと思います。今のシステムは、昔のように自由で簡単ではありません。...誰もが怖くてできないと思います。それほどきわどい内容でなくても、不適切だと判断されてしまうから」。もし自分が2021年に「グラビアの美少女」を監督するとしたら、「あからさまなものではなく、目に見えないものを示唆するようなものになるのではないか」と述べている。

Hungry Like the Wolf

1982年5月リリースのデュラン・デュラン5枚目のシングル。UKシングルチャートで5位を獲得し、British Phonographic Industry(BPI)からゴールド認定を受けた。

ミュージックビデオは、ラッセルマルケイが監督し、『レイダース / 失われたアーク《聖櫃》』を彷彿させるPVは、スリランカのジャングルで撮影された。

バンドは当初米国市場への参入に失敗したが、MTVは「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」のビデオを1日4回、大回転させ多くの露出を得た。

その結果「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」は1983年3月にBillboardHot 100で最高位3位に達し、国際的なセンセーションを巻き起こした。

このビデオは、1984年に第1回グラミー賞最優秀ショートフォームミュージックビデオ賞を受賞した。

Rio

アルバム『リオ』からの4枚目のシングル。
1982年10月に全世界でリリースされたが、アメリカでの反応は鈍かった。
しかしロサンゼルスのラジオ局「KROQ」は早い時期から頻繁にオンエアを繰り返し、更に同時期に「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」がMTVを中心にアメリカのチャートを賑やかし出すと、他のラジオ局も追従しだした。キャッチーなメロディーと、それに相反する複雑なベースラインが話題を呼び、キャピトルレコードは1983年3月にシングルを再発行することを決めた。そして「リオ」はアメリカンチャートで最高位2位となる大成功を収めた。

因みにこの曲の原型は、デビュー前にアンディ・ヴィケットが書いた「シー・ミー・リピート・ミー / See Me Repeat Me」である。

Is There Something I Should Know(プリーズ・テル・ミー・ナウ)

当初、デュラン・デュラン、そしてニューロマンティックというスタイルそのものがアメリカでは珍しく、アメリカでのラジオでのオンエアーは伸び悩んでいた。しかしMTVを中心にプロモーションビデオで攻勢をかけ、1982年の終盤にはアルバム『リオ』を中心にチャートを上昇し始める。

これを受けてCapitol / EMIはデビューアルバムをアメリカ用に再リリースすることを打ち出す。そのアメリカ盤『Duran Duran』に追加されたシングルがこの曲である。

1983年8月に全米チャートで最高位4位となった。

日本でもサントリーのCMに本人たちと共に登場し、「プリーズ・テル・ミー・ナウ」というタイトルでヒットした。

なお、本国イギリスで最初に収録されたアルバムは、『Now That's What I Call Music 』というコンピレーションアルバムで。このNOWシリーズは現在Vol.100を超え、更に継続中の人気シリーズとなっている。「Is There Something I Should Know(プリーズ・テル・ミー・ナウ)」は1983年発売の記念すべき『NOW 1』に収録された。

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