Earth, Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)の徹底解説まとめ

アース・ウインド&ファイアーとは、創設者のモーリス・ホワイトによって1969年にシカゴで結成された黒人R&B、ファンク、ディスコ、アフロポップグループである。「シャイニング・スター」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」「レッツ・グルーヴ」などヒット曲多数。2016年にモーリス・ホワイトは他界したが、フィリップ・ベイリーが継承し、50年以上経った今も活動するウルトラバンドである。グラミー賞6度受賞、全世界で約9千万枚のセールスを記録している。

Earth, Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)の概要

アース・ウインド&ファイアーとは、1969年にシカゴで結成された黒人R&B、ファンク、ディスコ、アフロポップグループ。人類が生んだ最も偉大なバンドの一つとも言われている。1969年に創設者のモーリス・ホワイトが前身となるグループ「ソルティ・ペパーズ」を結成。その後、グループ名を「アース・ウインド&ファイアー」に改め、1970年にワーナー・ブラザーズからレコード・デビュー。1972年に、モーリス&ヴァーダイン・ホワイト兄弟以外のメンバーを総入れ替えし、フィリップ・ベイリーら新メンバーを加えてコロンビアレコードから再出発。
キャッチーなメロディー、モーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのファルセットボイスによるヴォーカルの掛け合い、ホーン・セクションをフィーチャーした華やかなディスコ・サウンドで世界的な人気を獲得した。現在も人気の高い「シャイニング・スター」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」といった70年代のヒット曲や、80年代を代表するダンス・チューン「レッツ・グルーヴ」などヒット曲多数。これまでに、6度グラミー賞を受賞し、全世界で約9千万枚のセールスを記録している。2016年2月3日、パーキンソン病による長年の闘病の末、リーダーのモーリス・ホワイトが逝去。世界中のファン、著名人から追悼のコメントが寄せられた。訃報の直後に行われたグラミー賞では功労賞を受賞した。
現在もバンドはフィリップ・ベイリー、ヴァーダイン・ホワイト、ラルフ・ジョンソンを中心に精力的にライヴ活動を続けており、新たなファンを獲得している。

Earth, Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)の活動経歴

1969-1970 創成期

アース・ウインド&ファイアーの共同創設者ウェイド・フレモンズ、シェリー・スコットとモーリス・ホワイト

1969年、チェス・レコードの元セッションドラマーで、ラムゼイ・ルイス・トリオの元メンバーであるモーリス・ホワイトは、シカゴでウェイド・レモンズとドン・ホワイトヘッドの2人の友人と共にソルティーペパーズを結成、キャピトルレコードからシングル「ラ・ラ・タイム」をヒットさせる。ソルティーペッパーズの2枚目のシングルは不作に終わり、モーリスはシカゴからロサンゼルスに移った。彼はシカゴ出身の歌手シェリー・スコットとパーカッション奏者のヤコフ・ベン・イスラエルに加え、弟のヴェーダインをロサンゼルスに呼び寄せた。1970年6月6日にヴァーダインはベーシストとしてバンドに参加した。バンドは最終的にワーナー・ブラザース・レコードと契約した。

1970-1974 黎明期

70年代前半。コロンビアに移籍し8人編成になったEWF

占星術によると、モーリスには地球と空気と火の要素が見られることから、バンド名を「アース・ウインド&ファイアー」に変更した。モーリスはL.A.でさらにオーディションを行い、ギターにマイケル・ビール、リード(マウスピース)にチェスター・ワシントン、トランペットにレスリー・ドレイトン、トロンボーンにアレックス・トーマスを加え、10人のEWFラインナップが完成した。モーリスは打楽器を担当したが、レスリー・ドレイトンと共にリードボーカリストを担当した。1971年2月にワーナー・ブラザースからセルフ・タイトルのデビュー・アルバム『アース・ウインド&ファイアー』がリリースされた。アルバムはビルボードトップソウルアルバムチャートで24位に入った。デトロイト・フリー・プレスは「このグループを何と呼んだらいいのか分からない。アフロ・ゴスペル・ジャズ・ブルース・ロック?」と述べた。
1970年頃、劇作家・詩人として、またラディカルな発言で注目されたメルヴィン・ヴァン・ピーブルズは、自身の低予算映画『スウィート・スウィートバック』のサウンドトラックをEWFに任せた。1971年4月にリリースされたこのアルバムはビルボード・トップR&Bアルバムチャートで13位に入る予想外のヒットとなった。
1971年11月、EWFのセカンド・アルバム『The Need of Love』が発売され、ビルボードトップソウルアルバムチャートでNo.35に入った。しかしセカンドアルバム発表後、モーリスは弟のヴァーダインだけ残しメンバーを総入れ替えする。1972年、モーリスはボーカリストのヘレナ・デイビス、フルートとサックスのロニー・ロウズ、リズムギタリストのローランド・バウティスタ、キーボード奏者のラリー・ダン、ボーカリストのフィリップ・ベイリー 、パーカッション奏者のラルフ・ジョンソンをグループに加えた。当時コロンビア・レコード社長だったクライブ・デイビスは、ニューヨークのロックフェラーセンターでのEWFの公演を見て感銘を受けワーナーブラザーズから契約を買い取り、EWFはコロンビアに移籍をした。
1972年10月にCBS/コロンビア・レコードから『Last Days and Time(地球最後の日)』を発表。アルバムはビルボードトップソウルアルバムチャートで15位に入った。その後まもなく、ローランド・バウティスタとロニー・ロウズは、自分の音楽の機会を追求するためにバンドを去った。ローランド・バウティスタの代わりにはリズムギタリストのアル・マッケイとジョニー・グラハムが新しいメンバーに追加された。EWFの4枚目のスタジオ・アルバム『Head to the Sky』は1973年5月にリリースされた。アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで2位、ビルボード200チャートで27位を獲得 、アルバムは米国でプラチナディスク(100万枚)を獲得した。シングル「Evil」は、ビルボード・アダルト・コンテンポラリー・ソングスで19位、ビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで25位を獲得した。「キープ・ユア・ヘッド・トゥー・ザ・スカイ」もビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで23位になった。ジェシカ・クリーブスはこのアルバムのリリース後にバンドを去った。
1974年3月『Open Our Eyes 太陽の化身』を発表、モーリスとジョー・ウィサートが共同プロデュースした。この頃からやはり同じように人気の出てきたグループ、ウォー等とツアーをし、黒人白人両方からの支持を得る存在となった。アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで1位、ビルボード200チャートで15位を獲得しプラチナディスクに輝いた。シングル「マイティ・マイティ」はビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで4位、ビルボード・ホット100チャートで29位に達した。 「カリンバ・ストーリー」はビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで6位、 「デボーション」もビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで23位、ビルボード・ホット100チャートで33位に入った。このアルバム発表後、モーリスの弟フレッド・ホワイトがバンドに加わった。
1974年4月6日、EWFは20万人の観客を集めた西海岸のロックフェスティバル、カリフォルニアジャムでプレイした。コンサートは1974年5月10日にABCによってアメリカで放映された。1974年9月、EWFの初期の2枚のスタジオ・アルバムのすべての曲を収録した二枚組のコンピレーションアルバム「アナザー・タイム」がワーナー・ブラザースからリリースされた。アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで29位に入った。その後1974年後半にコロンビアから発表されたラムゼイ・ルイスのアルバム『Sun Goddess』をモーリスがプロデュース、アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで1位、ビルボード200チャートで12位に入りゴールドディスク(50万枚)を獲得。タイトルトラック「Sun Goddess」はビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで20位を獲得した。

1975-1980 全盛期

モーリスの世界が完璧に体現された70年代。「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」等のヒット曲を生み出す

1975年、EWFは映画『スーパーフライ』のプロデューサーであるシグ・ショアから「ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド」というタイトルの新作映画のサウンドトラックの依頼を受けた。映画はハーヴィー・カイテルが主演、モーリス・ホワイトは「ザ・グループ」というグループのリーダー役として出演した。カイテルは「ザ・グループ」の演奏を聞き、彼らのプレイに驚くレコードプロデューサーの役を演じたが映画自体は全くヒットしなかった。サウンドトラック『That's the way of the world』はモーリス・ホワイトとチャールズ・ステップニーによって制作され、1975年3月、映画の初演に先駆けリリースされた。アルバムはビルボード200とビルボード・トップ・ソウル・アルバムの両方のチャートで堂々の1位を獲得、トリプルプラチナディスク(300万枚)に輝いた。シングル「シャイニング・スター」はビルボード・ホット100とホット・ソウル・シングルの両方のチャートでNo.1を獲得、EWFはビルボードのアルバムとシングルチャートの両方でトップに立った最初の黒人アーティストとなった。そして、グラミー賞のデュオ及びグループによる最優秀R&Bボーカルパフォーマンスを受賞した。アルバムからの2枚目のシングル「ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド」はビルボード・ホット・ソウル・シングルチャートで5位、ホット100チャートで12位に輝いた。この成功により、バンドは、フェニックスホーンズと呼ばれる専属のホーンセクションを雇うことになった。彼らはサックスのドン・マイリック、トロンボーンのルイ・サターフィールド、トランペットのラームリー・デイビスとマイケル・ハリスで構成されていた。
1975年11月に『Gratitude 』という3面ライブテイク、1面スタジオテイクという2枚組アルバムをリリース、ビルボードトップ200とトップソウルアルバムの両方のチャートでそれぞれNo.1に輝き、トリプルプラチナディスクを獲得した。シングル「Sing a song 」はビルボード・ホット・ソウル・ソングスで1位、ホット100チャートで5位に輝いた。
1975年、モーリス・ホワイトはカリンバプロダクションを設立、彼の元バンドリーダーのラムゼイ・ルイスや、かつてスティービー・ワンダーの「ワンダーラブ」バックアップ・グループのメンバーだった歌姫デニス・ウィリアムズ。そしてガールズグループのエモーションズ等が名を連ねた。
チャールズ・ステップニーが1976年5月17日にシカゴで45歳の若さで心臓発作で亡くなった。モーリスは1976年10月にニューアルバム『スピリット』をプロデュースし、ステップニーに捧げた。アルバムはビルボードトップポップアルバムとトップソウルアルバムチャートの両方でNo.2を獲得、ダブルプラチナディスクに輝いた。シングル「ゲッタウェイ」がビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで1位に輝き、ビルボード・ホット100とダンスクラブ・プレイのそれぞれのチャートで12位を獲得した。続くシングル 「サタデーナイト」も、ビルボードホットソウルソングで4位、ホット100チャートで21に輝いた。
1977年11月、EWFは8枚目のスタジオ・アルバム『All'n All』をリリース、ビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで1位、ビルボード200チャートで堂々3位に輝いた。またグラミー賞ではデュオ、グループ、またはコーラスによる最優秀R&Bボーカルパフォーマンス賞に輝いた。更にアルバムはRIAAによってアメリカトリプルプラチナの認定を受けた。77年末から”ツアー・オブ・ユニヴァース”と銘打ったツアーを開始し、ステージにいくつものピラミッドを用意したり、メンバーが宙に浮くといったシアトリカルなパフォーマンスが大評判となり、彼等はレコードでもライヴでも超一流ぶりを見せるようになっていった。シングル「サーペンタイン・ファイア」がビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで1位、ビルボード・ホット100で13位となり、次のシングル「ファンタジー」は、ビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで12位となった。
EWFは1978年7月の長編映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のサウンドトラックに参加し、ビートルズの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イン・マイ・ライフ」のカバーを演奏した。この映画は商業的には成功しなかったが、EWFの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イン・マイ・ライフ」はビルボードR&BソングチャートでNo.1、ビルボードポップシングルチャートでNo.9に達し、同サウンドトラックからはエアロスミスやビージーズ、ビリープレストンと言った参加アーティストを押し退け、最大のヒット曲となった。アルバムはプラチナディスクのヒットとなった。
1978年11月、EWFは『ベスト・オブ・アース・ウインド&ファイアー』を発表。ベストアルバムではあるが新曲も収録されており、そのうちの1曲が、アースの代名詞と言える「セプテンバー」である。「セプテンバー」はビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで見事1位を獲得、ビルボード・ホット100では8位となった。アルバムは、ビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで3位、ビルボード200チャートで6位に輝いた。
1979年6月、EWFは9枚目のスタジオ・アルバム『I Am』を発表、プロデューサーに若手のデイヴィッド・フォスターを起用し9曲中6曲を担当した。まさに黒人音楽に白人の血が注入された様な煌びやかなファンクアルバムとなり、ファンの層も格段に広がった。アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで堂々1位、ビルボード200チャートでも堂々の3位となった。アルバムからのディスコチューン、アースの代表曲の一つ「ブギー・ワンダーランド」は、エモーションズをフィーチャーし、ビルボード・ホット・ソウル・ソングス・チャートで2位、ビルボード・ホット100で6位に入った。また、デイヴィッド・フォスター作の珠玉のバラード「After the Love has gone 」はビルボード・ホット100とホット・ソウル・ソングスの両方のチャートで2位を記録、プロデューサー、デイヴィッド・フォスターにとって初のグラミー賞、デュオ及びグループによる最優秀R&Bボーカルパフォーマンス賞を受賞した。
1980年10月、EWFは2枚組アルバム『Faces』を発表、ビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで2位、ビルボード200で10位となった。アルバムからはシングルヒットは生まれなかったが、モーリス・ホワイトは2007年のインタビューで、EWFのアルバムの中でどれがお気に入りか尋ねられると、「多分それは『Faces 』です。なぜなら私たちは本当に一体になっていたし、このアルバムによって我々は未知なるエリアへ冒険する機会を与えてくれた」と語っている。しかしアルバムリリース後、バンドの方向性の不一致から、リズムギタリストのアル・マッケイがバンドを去った。ロサンゼルス・タイムズは「『Faces 』はR&Bアルバム・オブ・ザ・イヤーである」と評した。

1981-1986 エレクトリックサウンド

80年代、民族衣装風コスチュームを改め、エレクトリック路線へ

80年代に入り、モーリス・ホワイトは音楽シーンにおけるサウンドの変化を考えたとき、当時人気があったエレクトロニックサウンドを作品に組み込む必要があると考えた。その結果、EWFの11枚目のアルバム『Raise!』は、この新しいエレクトロニック・サウンドを取り入れて1981年秋にリリースされた。このアルバムでリズムギタリストのローランド・バウティスタがEWFに戻ってきた。バウティスタの演奏により、サウンドにハードロック感が加わり、それまでにあった壮大なホーンセクションは影を潜めた。アルバムはビルボード・トップR&Bアルバムチャートで堂々1位、ビルボード200チャートで5位に入りプラチナディスクに輝いた。それを牽引したのが、アルバムからの第一弾シングルで、アースの代表曲にもなった「レッツ・グルーヴ」で、ビルボード・ホットR&Bソングチャートで1位、ビルボード・ホット100チャートで3位に輝き、80年代に入ってもアースの健在ぶりを示した。
1983年2月、アルバム『パワーライト』を発表、ファーストシングル「フォール・イン・ラヴ・ウィズ・ミー」は「レッツ・グルーヴ」の続編の様な典型的アースサウンドを展開した好トラックだが、チャート的にはビルボード・ホット100チャートで17位、ビルボード・ホットR&Bソングスチャートで4位と、前作「レッツ・グルーヴ」のヒットには及ばなかった。アルバムはビルボードトップR&Bアルバムチャートで4位、ビルボード200チャートで12位となり、ゴールドディスクを獲得した。
1983年11月、13枚目のスタジオアルバム『エレクトリック・ユニバース』を発表。遂にホーンセクションを全て排除し、シンセサイザーを全面に押し出したエレクトロサウンドに仕上がった。ファーストシングル「マグネティック」はビルボード・ホットR&Bソングチャートで10位と言うスマッシュヒットとなり、セカンドシングル「タッチ」もビルボード・ホットR&Bソングチャートで23位となった。内容的には粒揃いの佳曲が揃った好盤となったものの、この新しい試みに、それまでのファンは戸惑いや拒絶反応を示し、アースの中でも最も論議を巻き起こすアルバムとなった。アルバムはビルボード・トップ・ソウル・アルバム・チャートで8位、ビルボード200チャートで40位に入っが、このアルバムのリリースを最後に1984年モーリスはバンドの休止を発表した。
バンド休止中も各々のメンバーは活動を続ける。まず総師モーリス・ホワイトは、結果的に生涯唯一のソロアルバムとなる「モーリス・ホワイト」を1985年にコロンビアよりリリースした。アルバムからのシングル「アイ・ニード・ユー」はビルボード・アダルト・コンテンポラリー・ソングス・チャートで20位、ビルボード・ホットR&Bシングルチャートで30位に達し、日本でもソニーのCMで使用され、この珠玉のバラードは特に日本でヒットした。
そしてもう一人のボーカリスト、フィリップ・ベイリーは1984年にコロンビアから自身2枚目のソロ・アルバム『チャイニーズ・ウォール』を発表。中でもフィル・コリンズとデュエットした「イージー・ラヴァー」は、MTVを中心に大ヒットし、全米ビルボード・ホット100では2位、イギリスのシングルチャートでは1位に輝き、80’sを代表するヒットソングとなった。フィリップ・ベイリーは1986年にも3枚目のスタジオ・アルバム『インサイド・アウト』をリリースし、その他にもケニー ・ロギンス、スティービー・ワンダー、レイ・パーカー・ジュニアの作品にも参加した。

1987-1994 再始動

80年代後期、再始動したEWF

1987年、モーリスはアースの再始動に動き出す。ヴァーダイン・ホワイト、ラルフ・ジョンソン、フィリップ・ベイリー、アンドリュー・ウールフォーク、新メンバーのギタリスト/ボーカリストのシェルドン・レイノルズ、キーボードのヴァンス・テイラー、ドラマーのソニー・エモリーと言うラインナップを揃え、アースは4年ぶりに再結成を果たした。
1987年11月、新生EWFによるニューアルバム『タッチ・ザ・ワールド』を発表。80年代における4年と言う月日は長く、その間には、ブラックミュージックを取り巻く環境や、またはサウンド面でも大きく様変わりしたが、この作品はそんな時代を反映したストリート・オリエンテッドな内容を取り入れつつも、一聴してアースとわかる彼らのサウンドは健在、往年のファンを喜ばせた。
アルバムのオープニングトラック「システム・オブ・サバイバル」はヒップホップを思わせる幕開けで、時代の流れに合わせながらもアースらしさを失うことのない好トラック。ファーストシングルとしてリリースされ、ビルボードR&Bとダンスチャートの両方で久々の1位を獲得した。「システム・オブ・サバイバル」は、ベストR&B/ソウルシングル-グループ、バンド、デュオの部門でソウルトレイン賞にノミネートされた。続くシングル「Thinking of you 」も全盛期のアースの勢いをそのままに、更に洗練された今風のサウンドのダンスナンバーで、ビルボード・ダンスクラブ・ソングス・チャートで1位、ビルボード・ホットR&B/ヒップホップ・ソングス・チャートで3位となり、アースの健在ぶりを世に知らしめた。『タッチ・ザ・ワールド』はビルボード・トップR&Bアルバムチャートで3位、ビルボード200チャートで33位となり、ゴールドディスクとなった。1988年5月には、約9年振りとなる来日公演で、古くからのファンを喜ばせた。
1988年11月、EWFは『ベスト・オブ・アース、ウインド&ファイアーVol.2』を発表、ゴールドディスクとなった。アルバム共に、シングルとしてリリースされた「ターン・オン(ビート・ボックス)」はビルボード・ホットR&Bソングチャートで26位になった。
1990年2月、EWFは15枚目のスタジオアルバム『Heritage』を発表した。このアルバムでは、テディー・ライリーが提唱し、当時のR&B界を席巻していたニュージャックスウィングのビートを積極的に取り入れた。タイトルトラックである「ヘリテイジ」はザ ・ボーイズをフィーチャーし、ビルボード・ホットR&Bソングス・チャートで5位を獲得した。また「ウォナビー・ザ・マン」はビルボードホットR&Bソングチャートでは19位だったが、当時全米音楽シーンを席巻し、日本でも大人気だったMCハマーをフィーチャーし、チャート以上に大きな話題を呼んだ。アルバムはビルボード・トップR&Bアルバム・チャートで19位となった。
1993年9月、アース16枚目のスタジオ・アルバム『ミレニアム』が古巣ワーナー・ブラザース・レコードからリリースされた。ロニー・ロウズやプリンスなどのアーティストが参加した。アルバムはビルボード・トップR&Bアルバムチャートで8位、ビルボード200チャートで39位となった。ファーストシングル「サンデー・モーニング」は、ビルボード・アダルトR&Bソングチャートで10位、ビルボード・ホットR&Bソングチャートで20位、ビルボード・アダルト・コンテンポラリー・ソングス・チャートで35位となった。
その年の10月13日、元リードボーカリストのウェイド・フレモンズがミシガン州バトルクリークで癌で亡くなった。

1996年-現在 ネオ・ピリオド

90年代以降、モーリスの不在もフィリップ・ベイリーを中心に精力的に活動する

1995年には日本のavexと契約を結び、ヴェルファーレでのライヴ盤を発表。翌1996年には同レーベルからの日本単独最新アルバム「Avatar」を発表し、日本での人気の根強さを示した。本アルバムは翌1997年、一部内容を変え、 「In The Name Of Love」というタイトルで本国でリリースされた。1996年、モーリスはカリフォルニア州サンタモニカに拠点を置くカリンバ・レコードという新しいレーベルを立ち上げた。EWF、17枚目のスタジオ・アルバム『In the Name of Love 』は1997年にライノ・レコードでリリースされた。アルバムは、デジタル化されたネオソウルサウンドのスタイルを持つものとして注目された。
この頃モーリスはバンドとのツアーに時折出演するものの、不参加が多くなった。当時、彼はツアーのハードスケジュールから休息を取りたいと説明している。その間はフィリップ・ベイリーが、バンドのステージリーダーの役割を与えられ、モーリスはエグゼクティブリーダーとしてEWFを統括した。その後モーリスはパーキンソン病の兆候が見られたが、モーリスは、病気をコントロールしながら時折EWFの公演に出演したり、EWFや他のアーティストのために新しい曲を書いたりプロデュースを続けた。
EWFは、2000年6月20日にホワイトハウスで、ビル・クリントン大統領主催のモロッコ国王、ムハンマド6世、ララ・メリエム殿下を特別招待した夕食会でゲストとして演奏した。2000年8月21日、EWFはモロッコでムハマンド国王の37歳の誕生日にプライベートコンサートを行った。2000年8月に発行された、ワイクリフ・ジョンの2枚目のスタジオ・アルバム『Ecleftic: 2 Sides II a Book』で、EWFはコラボレーションをし、ビルボードトップR&B/ヒップホップアルバムチャートでNo.3に、ビルボード200チャートでNo.9に輝いた。
2001年、キャサリン・アーノルド監督の『ヒストリー・オブ・EW & F~シャイニング・スター 』というタイトルのバンドの伝記ドキュメンタリーが公開された。その年の9月11日の同時多発テロの後の9月13日、バンドメンバーはバージニア州のベライゾンワイヤレスバージニアビーチ円形劇場でコンサートを行い、アメリカ赤十字社に25,000ドルを寄付した。
2002年2月24日、ソルトレーク・シティーで開催された2002年冬季オリンピックの閉会式でEWFが演奏した。2002年7月にコロンビアから「エッセンシャル・アース、ウィンド&ファイアー」というタイトルのコンピレーション・アルバムがリリース、また、1980年のブラジル、リオデジャネイロでのライブアルバム『Live In Rio』が2002年11月にカリンバ・レコードよりリリースされた。
2003年5月、EWFはカリンバ・レコードから18枚目のスタジオアルバム『プロミス』を発表した。2003年9月、EWFはボーカルグループの殿堂入りを果たした。
2004年2月8日、カリフォルニア州ロサンゼルスのステープルズ・センターで開催された第46回グラミー賞で、EWFは「シャイニング・スター」を演奏した。2004年5月のトリビュート・アルバム『パワー・オブ・ソウル:ジミ・ヘンドリックスへのオマージュ』でEWFはジミ・ヘンドリックスの「ブードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」をカバーした。2005年2月6日、フロリダ州ジャクソンビルで行われたスーパーボウルXXXIXで、ブラック・アイド・ピーズとタッグを組んで「シャイニング・スター」を歌った。
2004年にEWFとシカゴは、ロサンゼルスのギリシャ劇場で行われたコンサートのDVD「シカゴ&アース、ウインド&ファイアー - ギリシャ劇場でのライブ」を発表し、合同全米ツアーを行った。このDVDは2005年6月28日にリリースされ、RIAAによって米国でプラチナ認証を受けたが、シカゴとEWFは後に、2005年のシカゴのコンピレーション・アルバム『ラブ・ソングス』に収録されたシカゴのバラード「If You Leave Me Now」の新録の為にコラボレーションした。
2005年9月、EWFの19枚目のスタジオ・アルバム『イルミネーション』がサンクチュアリ・レコードから発表された。イルミネーションはビルボードトップR&B/ヒップホップアルバムチャートで8位、ビルボード200チャートで32位に入った。
2006年、モーリスは、アース・ウインド&ファイアーの音楽をテーマにしたブロードウェイミュージカル『ホット・フィート』を発表した。2007年12月11日、ノルウェー・オスロで開催されたノーベル平和賞コンサートで、EWFは「ファンタジー」と「セプテンバー」を演奏した。2008年2月、EWFはラテンアメリカで最も古く、最大の野外音楽祭である、チリのビーニャ・デル・マール・フェスティバルに出演、アーティストに贈ることができる最高の賞であるガビオタ・デ・プラタ(シルバーシーガル)が授与された。このフェスティバルのオープニングには、数年前からEWFの曲「イン・ザ・ストーン」が使われていた。2008年3月10日、ミュンヘンオリンピック公園にあるミュンヘン・オリンピック・ウォーク・オブ・スターと呼ばれる、世界各国の有名人の手形が埋め込まれたプロムナードにEWFの手形も加わった。2008年、テニスの全米オープンの創設40周年を記念したオープニングセレモニーで、歴代チャンピオン達がパレードをする中、EWFも参加し演奏した。
2009年2月22日、ホワイトハウスで知事夕食会に招かれた。バラク・オバマ大統領の就任以来、そこで演奏した最初のアーティストとなった。2009年4月、元EWFキーボード奏者のロバート・ブルキンズが心臓発作で46歳で亡くなった。2009年4月26日、第39回ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティバルに参加その後、EWFは再びシカゴと合流しアメリカの30都市へのツアーをスタートした。
2010年2月には『We Are The World 25 For Haiti』のレコーディングに参加。 この年モーリス・ホワイト、 フィリップ・ベイリーとバーダイン・ホワイトは、元EWFメンバーアル・マッケイとラリー・ダンと共にソングライターの殿堂入りをした。
2012年2月29日、元EWFリズムギタリストのローランド・バウティスタが60歳で死去した。LLクールJの2013年のアルバム『Authentic』に収録されたトラック「サムシング・アバウト・ユー」にゲスト出演。
2013年9月10日、8年ぶりのアルバム『Now,Then & Forever』がリリースされた。2014年1月13日、バンドの1976年のヒット曲「ゲッタウェイ」を共同執筆した元パーカッション奏者のベロイド・テイラーが死去した。2014年2月、NBAオールスターゲームでファレル、ジャネル・モナエと共演、その数ヶ月後の5月2日、元リードボーカリストのジェシカ・クリーブスが脳卒中の合併症で65歳で亡くなった。2014年10月21日、EWFにとって初めてのクリスマスアルバム『ホリデー』をリリースした。
長年パーキンソン病で苦しんできたEWFの創設者でリーダーのモーリス・ホワイトが、2016年2月4日に亡くなった。 2016年2月15日にロサンゼルスのステープルズ・センターで開催されグラミー賞授賞式で、モーリス・ホワイトはEW&Fとともにグラミー生涯功労賞を受賞した。授賞式ではスティーヴィー・ワンダーとペンタトニックスがモーリス・ホワイトに敬意を表して『ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド』を歌った。
2019年9月10日、ロサンゼルス市議会はグループに敬意を表し9月21日を「アース・ウインド&ファイアーの日」と定めた。
2021年8月20日、Lucky Dayeをフィーチャーしたシングル『You Want my love』を発表した。

Earth, Wind & Fire(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)のメンバー

Philip Bailey(フィリップ・ベイリー/vo)

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