Paul Weller(ポール・ウェラー)とは【徹底解説まとめ】

Paul Weller(ポール・ウェラー)とは、イギリス・ロック界のビッグネームである。パンクブームを追い風に1977年、ザ・ジャムのフロントマンとしてデビュー。その後、80年代にはザ・スタイル・カウンシルを結成し、渋谷系と言われる日本のアーティスト達にも大きな影響を与えた。90年代にソロに転向。音楽的多様性を活かしたサウンド作りと、反骨精神あふれる歌詞を特徴とし、常に労働者階級のヒーローであり続けている。オアシスのメンバーを筆頭に多くのミュージシャン達が憧れる。UKロック界のカリスマである。

Paul Weller(ポール・ウェラー)の概要

Paul Weller(ポール・ウェラー)とはイギリス、ロンドン郊外のサリー、ウォキング出身のミュージシャンである。1977年にザ・ジャムのヴォーカル兼ギタリストとしてデビュー。当時のイギリスで流行していたパンク/ニュー・ウェイヴの追い風に乗ってたちまち人気バンドとなった。全員が三つボタンのお洒落なスーツを纏って演奏するクールなスタイルが他のパンクバンドと一線を画し「モッズ、リバイバル」と呼ばれるブームを巻き起こす。ザ・ジャムは順調にヒットを飛ばして成長を遂げていくが、ポール・ウェラーは自らの音楽的変化をザ・ジャムでは表現し切れないと感じ、1982年人気絶頂のうちにザ・ジャムを電撃解散する。

1983年にはよりソウルやR&Bの影響が濃いサウンドへシフトしたザ ・スタイル・カウンシルを結成。ポップでお洒落なサウンドとは裏腹に、政治批判をより明確に打ち出した反骨精神あふれた歌詞を特徴とし、音楽性が変わっても常にワーキングクラスのヒーローであり続けた。

1992年以降はソロに転向し、オアシスやブラー、パルプといったブリットポップスの若いミュージシャン達から「モッド・ファーザー」と呼ばれるなど多大なリスペクトを集める。その後も定期的にアルバムをリリースし、自らの音楽遍歴を生かした多様な楽曲を発表。年齢を感じさせない鋭いロックサウンドでいまだシーンの最前線で活躍している。UKロック界のカリスマである。

Paul Weller(ポール・ウェラー)の活動履歴

1977年 The Jam 結成

ザ・ジャム。左からブルース・フォクストン(b)、リック・バックラー(d)、ポール・ウェラー(vo & g)

1977年、ロンドン郊外サリー州ウォーキングでビートルズなどのカバーをしていたパーティ・バンド「ザ・ジャム」を結成。結成当時のメンバーはポール・ウェラー(b)、リック・バックラー(d)、ブルース・フォクストン(g)、スティーヴ・ブルックス(g)の4人だったが、その後スティーヴが脱退し、ポール・ウェラー(vo & g)、リック・バックラー(d)、ブルース・フォクストン(b)の3人でスタートした。同じ学校に通っていたポールとリックが昼休みに音楽室を使ってジャムセッションをしていたのが、バンド名の由来と言われている。

ザ・ジャム結成の前年には、セックス・ピストルズが「アナーキー・イン・ザ・UK」で華々しくデビューを飾っており、1977年にはザ・クラッシュが1stアルバム『白い暴動』をリリース、ザ・ダムドが『地獄に堕ちた野郎ども』をリリースし、一連のパンクムーブメントにより、イギリスのロックが息を吹き返してきた時代だった。
ザ・ジャムはサウンド的にはセックス・ピストルズ等のパンクの影響を受けているが、ファッションとしてのスタイルは洗練されており、細身のモッズスーツをスタイリッシュに着こなし、ザ・フーやキンクスのサウンドの影響も色濃く感じさせながら、他のパンクバンドとは一線を画した個性を発揮していた。ポール・ウェラー自身は1960年代初頭の「モッズ」ムーブメントに大きな影響を受けており、流行に左右されず自分にとってクールなものを追求する姿勢がポールのバックボーンとなっている。

モッズ・スタイルとは

モッズの聖地、海辺の町ブライトン

モッズ・スタイルとは、1950年代後半から1960年代中頃にかけてロンドンを中心に流行した音楽やファッションをベースとしたライフスタイルである。ロンドンや郊外の新興住宅地に住む労働者の若者達の間で流行し、彼らはアルバイト代を家に入れず、全てをお洒落に費やした最初の世代といわれている。

ファッション的な特徴としては、細身の三つボタンのスーツにジーンズ、ポロシャツ、ナローネクタイ。アメリカ空軍払い下げのM-51ミリタリーパーカー、靴はクラークスのデザートブーツが基本のスタイルだ。髪型はフランスのヌーベルバーグ映画の俳優の真似をして髪を下ろし、モッズカットと呼ばれた。

彼らは移動手段としてオートバイではなく、スクーターで深夜のクラブに登場した。スクーターの方が大切なファッションを油や泥で汚す心配が少なく、運転するときはミリタリーパーカーを羽織ってファッションを守った。

革ジャンスタイルのロッカーズと対比する形で、ミリタリーコートはモッズの象徴的なアイテムとされている。例えば日本では「SEKAI NO OWARI」がファッションとしてミリタリーコートを着ているが、当時のモッズにとってミリタリーコートはファッションアイテムというよりは実際の移動手段であった。ベスパやイノチェンティ、ランブレッタ等のイタリア産のスクーターが好まれたが、やがてそれらは多数のライトやミラーで派手に飾り立てられていった。

音楽的特徴としては、彼らはレアなR&Bやソウル、ジャマイカのスカ、イギリスの音楽では、ザ・フー、キンクス、スモール・フェイセスが好みの音楽だった。モッズの名前の由来は50年代に流行ったモダンジャズから、或いはモダンジャズのプレイヤーやファンを「モダニスト」と称したことに由来し、それが短縮されて「モッズ」と呼ばれるようになった。モッズは、田舎や郊外の「ロッカーズ」と呼ばれる、50年代革ジャンバイクスタイルやアメリカ風リーゼントスタイルへの反発でもあり、イタリアやフランスの新しいスタイルを取り入れた若者のムーブメントだった。

1979年の映画『さらば青春の光(Quadrophenia)』は当時のモッズを描いた作品として有名である。映画のタイトルはザ・フーのアルバム『四重人格(Quadrophenia)』から取っている。1960年代末期にはモッズは更に変化して丸坊主になり、ドクターマーチンのブーツにベンシャーマンのシャツを着用し、ディープなレゲエを聴くスタイル「スキンヘッズ」と変貌していく。

ザ・ジャム時代 (1977年ー1982年)

ポール・ウェラー 1979年

ジャムは当時のパンク、ニューウェーブのブームに乗り瞬く間に人気バンドとなった。その音楽性はR&Bを基調に高速で演奏するパンクスタイルが特徴であった。しかしセックス・ピストルズ的なロンドンパンクとは一線を画し、おしゃれなスーツに身を纏ったクールなスタイルはモッズ・リバイバルと言われた。

1977年4月29日にファースト・シングル「イン・ザ・シティ」をリリースすると、いきなりナショナルチャート入りを果たす。パンクブームの追い風に乗ってデビューしたジャムだったが、2作目『ザ・モダン・ワールド』は前作ほどの成功は収められなかった。しかし翌1978年にリリースされた3作目『オール・モッド・コンズ』は、従来のエッジの効いたサウンドにモータウンへのリスペクトを散りばめた独自のサウンドを確立する。ファンやジャーナリストからもに高く評価されバンドの最初のピークとなり、これを機にジャムは快進撃の狼煙を上げた。

1979年発表の4thアルバム『セッティング・サンズ』では「イートン・ライフルズ(The Eton Rifles)」がヒット。ポールの音楽の多様性は更に広がり3rdアルバムと並ぶ傑作とも評された。1980年3月には10枚目のシングル「ゴーイング・アンダーグラウンド(Going Underground)」を発表。イギリスチャートで初登場 No.1を獲得した。またこの年の初来日を含め、ジャムは1981年、1982年と3回来日している。同年発表された5thアルバム『サウンド・アフェクツ』ではビートルズの影響や、マイケルジャクソン等のソウルミュージックへのリスペクト、更にサイケデリックな要素等、さまざまな音楽を取り入れた実験的で重厚な音作りを展開した。

1982年3月リリースの6thアルバム『ザ・ギフト』では、ホーンセクションの導入と共にファンク、カリプソ等の様相も導入し、音楽性の幅は更に広がった。モータウンへのリスペクトをダイレクトにあしらったシングル 「悪意という名の街(A Town Called Malice)」が全英1位を獲得するなどジャムはその頂点に達するが、バンドは電撃的に解散を発表する。

最も輝いているうちに幕引きしたいというポールの意向が理由であったが、ポールが傾倒する黒人音楽や多様な音楽性を、もはやジャムでは表現しきれなくなっていた。間髪を容れず発表されたラストシングル「ビート・サレンダー(The Beat Surrender)」はまたも初登場 No.1を獲得した。イギリスでは絶大な人気を得ていたにも関わらず、1982年12月11日、モッズの聖地である海辺の町ブライトンでのラストギグを最後に、バンドは活動に終止符を打った。

ジャムは、わずか5年の間に、ナンバーワン・ヒットソング4曲を含む、トップ40に18曲を送り出し、人気絶頂のうちに幕を下ろした。

ザ・スタイル・カウンシル時代(1982年ー1990年)

ミック・タルボット(左)とポール・ウェラー(右)

ザ・ジャムが解散してすぐの1982年暮れに、ポール・ウェラーはネオ・モッズ・バンド「マートン・パーカス」のオルガンプレイヤーであったミック・タルボットとともにポップス/ソウルユニット、ザ・スタイル・カウンシルを結成した。

基本的にはポール・ウェラー(vo&g)、ミック・タルボット(key)の2人のユニットだが、D.C.リー(vo)、スティーヴ・ホワイト(dr)の4人で構成されることが多かった。特に当時17歳だったドラムのスティーヴ・ホワイトは、まだバンド名も決まっていなかったスタイルてカウンシルのオーディションに参加し、ポールは彼がジャズの音楽的背景を持っていることに感銘を受け、そのまま採用された。スタイル・カウンシルの正式メンバーとしてクレジットされることはなかったが、スタイル・カウンシルのほとんどのレコーディングやPVに参加し、ポールのソロ転向後もバックバンドの中心的存在として欠かせない存在となった。因みに弟のアラン・ホワイトもオアシスのドラマーとして活躍した。

1983年3月にシングル『スピーク・ライク・ア・チャイルド』でデビュー。ジャムという狭い枠組みの中では表現出来なかったモータウンソウル風のサウンドを展開し、全英シングルチャート4位を記録、8月にリリースされたシングル『ロング・ホット・サマー/ザ・パリス・マッチ』は、全英シングルチャートで最高位3位を記録した。

1984年、1stアルバム『カフェ・ブリュ』は、パンクのイメージが強かったジャムから一転して、R&Bやジャズ、ニューウェイブ、ボサノヴァ、ジャンゴラインハルト風ジプシーギターなど多様な要素を織り混ぜ、ヨーロッパのカフェの様なお洒落なサウンドに転身、昔からのファンは戸惑ったものの、新しいポップな切り口にファンの間口は大きく広がった。アルバムも全英アルバムチャートで最高位2位を記録した。

1985年、2ndアルバム『アワ・フェイバリット・ショップ』を発売。同作ではアヴァンギャルドなサウンド・テイストをわずかに薄めて、モータウンのようなポップ性が前面に出された。音楽的評価と商業的評価の両方で成功を収め、スタイル・カウンシルにとって最初で最後のイギリスでのNo.1を記録した。シングルカットされた「タンブリング・タウン」は、ヴィンテージな曲調ながらもその歌詞の内容は政権を痛烈に批判し、労働者の連帯を訴えたウェラーの反骨精神が込めらている。全英シングルチャートで最高位6位を記録。

1987年リリースの3枚目『The Cost Of Loving』ではよりアメリカンマーケットを意識し、よりエレクトリックなモダンソウル的作品となった。また今作ではDCリーのボーカルがよりクローズアップされており、その後ポールと結婚した(1998年に離婚)。この作品によってポールとタルボットは自身の理想を具現化することに成功したが、一方で音楽性の多様化により方向性を見失いだした側面もあり、この時期からセールス的に不振に陥りだしてきた。

1988年に発売された5thアルバム『コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ』はバラード主体の静かな佇まいとなったが、発売初週に15位を記録した後は4週目にはチャート圏外に落ち、批評家からも否定的な評価を受けた。音楽的な視野を広げようとしていたポールとタルボットだったが、ポールは1980年代後半に急成長したアシッド・ハウス・シーンにも接近。その成果は1989年にリリースされた6作目『モダニズム(Modernism-A New Decade)』で結実した。しかしこのアルバムは、所属レーベル、ポリドールからセールス的成功が見込めないと判断されリリースを拒否された。最終的に日の目を見たのは1998年のことだった。多くの珠玉のポップソングを残したスタイル・カウンシルだったが、音楽的迷走と失意の中、1990年に解散した。

ソロとして(1990年ー1995年)

ソロ期。1990年代のポール・ウェラー

ザ・スタイル・カウンシルの解散はザ・ジャムの頃の絶頂期に惜しまれつつ解散したのとは対照的だった。ポール自身も音楽界から身を引くことも考え、過去の人になっていく可能性もあった。

1990年のほとんどを休息にあてた後、長年の友人でもあり、スタイル・カウンシルのドラマーだったスティーブ・ホワイトと、ジェームス・テイラー・カルテットのセッション・ベーシストであったポール・フランシスと、それまででは考えられなかったような国内の小さなホールやクラブハウスで一からの再スタートを切った。そして1991年、バンドでもないソロでもない「ポール・ウェラー・ムーブメント(Paul Weller Movement)」名義で、実質ソロデビューシングルである「Into Tomorrow」を自主制作レーベルFreedom Highからリリースした。スタイル・カウンシル後期にはハウスミュージックに傾倒していたポールが久しぶりにギターを抱えて帰ってきた姿に、まず日本のファンが歓喜した。

紆余曲折を経て1992年、自身の名前を冠したソロデビューアルバム『ポール・ウェラー(Paul Weller)』を日本のポニーキャニオンから発表した。イギリス本国では契約が取れなかったが、日本に遅れること約半年後にロンドンのレコードレーベル「Go! Discs」よりリリースされた。英国内ではメインストリームから離れかけていたポールだったが、日本ではスタイル・カウンシルからの根強いファンが残っており、本国よりもヒットした。アルバムはザ・ジャム時代の激しさとスタイル・カウンシル時代の華麗さを全て削ぎ落とした原点回帰のようなサウンドで、当時イギリスのシーンで流行していたアシッドジャズの要素も織り交ぜながら素朴で芯のあるサウンドを展開した。デビューアルバムは商業的にも批評家からも肯定的に受け入れられ、ポールは自分のやりたい音楽をありのまま演奏することに自信と手応えを掴んだ。

そして発表された1993年の2ndアルバム『ワイルド・ウッド(Wild Wood)』は「サンフラワー」と「ワイルド・ウッド」などのシングルを含み、マーキュリー音楽賞にノミネートされた。そしてこの頃からオアシスやオーシャン・カラー・シーン、パルプ、ブラーといったブリットポップスの若いアーティストたちからリスペクトを受けるようになり、イギリスロック界の兄貴的存在になっていた。

そしてそのブリットポップスがイギリスの音楽シーン席巻した1995年、自らもその波に乗って発表しただ3rdアルバム『スタンリー・ロード(Stanley Road)』は大ヒットを記録、ソロ転向後初の全英1位に輝くなど完全復活を果たした。シングル「ザ チェンジングマン」は UK シングル チャートで 7 位に返り咲き、バラード「You Do Something To Me」は英国で9位と、2曲連続でトップ10入りを果たした。このアルバムはポールの最も売れたアルバムとなり、オアシスのノエル・ギャラガーは「I Walk on Gilded Splinters」のゲスト・ギタリストとして参加した。そしてポールも恩返しにオアシスのヒット曲「シャンパン・スーパーノヴァ」にゲスト・ギタリストおよびバッキング・ボーカリストとして出演した。

1997年ー2006年

ポール・ウェラー、2000年代

ミリオンセラーとなった『Stanley Road』に続き、1997年『Heavy Soul』を発表。鋭いロックサウンドを展開した。2000年発表の5作目『ヒーリオセントリック(Heliocentric)』では多くの曲でオーケストラを取り入れ、オーシャン・カラー・シーンのスティーヴ・クラドックとデーモン・ミンケラが全面参加した。

再びレコード契約がなくなったポールは2001年、主にアコースティックギター一本で弾き語りによるヨーロッパツアーを行う。その模様は『デイズ・オブ・スピード』というライブアルバムに収録され、ジャムやスタイル・カウンシル時代のいくつかのナンバーも取り上げ、英国アルバムチャートで3位に輝き2001年に2番目に成功したライブ アルバムとなった。

『Heliocentric』がポールの最後のスタジオ作品になるという噂が飛び交ったが、2002年アルバム『イルミネーション(Illumination)』を発表し、再び英国アルバムチャート1位を獲得したことによりその噂は根拠のないものであることが証明された。このアルバムでもオーシャン・カラー・シーンのスティーヴ・クラドックとデーモン・ミンケラ、オアシスのノエル・ギャラガーとゲム・アーチャー等の若手プレイヤーを起用した。

2004年、V2レコードへ移籍し、全曲カバーアルバム『スタジオ 150』をリリース。UK チャートで初登場2位を記録。ボブ・ディランの「All Along the Watchtower」のほか、ギル・スコット・ヘロンの「The Bottle」、ローズ・ロイスの「Wishing On A Star」などをポール・ウェラー流にカバーし、話題を呼んだ。2005年には『As Is Now』をリリース。「From the Floorboards Up」、「Come On/Let's Go」、「Here's the Good News」等のシングルを発表するが、批評家からは音楽的進歩がみられないと評され、デビュー以来最も低いチャートアルバムとなった。

2006年2月、BRITアワードで生涯功績賞を受賞した。元来ポールはそのような賞は辞退する傾向があったが、賞を受け取り式典ではジャム時代の名曲「悪意と呼ばれる街」を含む4曲を披露した。またこの年には、経済人、文化人、芸能人、スポーツ選手や社会奉仕活動をした人達に贈られる「大英帝国勲章」で、ナイトの次のランクであるコマンダー任命されることを打診されたが、その申し出は断った。

2006年6月にはライブアルバム『Catch-Flame』を発表。スタイル・カウンシル時代の曲やソロ時代の曲が収録された。2006年後半には、ジャム、スタイル・カウンシル、ソロ活動中にリリースしたすべてのシングルを集めたベストアルバム『ヒット・パレード』がリリースされた。

2008年ー2012年

2012年 東京Zepp DiverCity公演にて

2008年ポールはギタリストのスティーブ・クラドックを除く全てのバンドメンバーを入れ替え、『22 Dreams』をリリースした。オアシスのノエル・ギャラガーとゲム・アーチャー、元ブラーのグレアム・コクソン、元ザ・ストーン・ローゼズのアジズ・イブラヒム、元ソフト・マシーンのロバート・ワイアット、リトル・バーリーのメンバー3人等が参加したアルバムは全英アルバム・チャートで初登場1位に輝き、ポールのソロとしては3度目の1位獲得となった。

2009年には BRITアワードの「最優秀男性ソロアーティスト」を、2010年にはNMEアワードの「ゴッドライクジーニアスアワード」を受賞した。2010年4月『Wake Up the Nation』をリリース、ザ・ジャムのベーシスト、ブルース・フォクストンとの28年ぶりのコラボレーションが実現した。アルバムは全英2位に輝き、マーキュリー音楽賞にもノミネートされた。2012年3月19日、11 枚目のソロアルバム 『Sonik Kicks』をリリース。『22ドリームス』にもゲスト参加したノエル・ギャラガー、グレアム・コクソン、アジズ・イブラヒム等が参加し、アルバムは、UKアルバムチャート1 位となった。

2012年12月ハマースミス アポロで開催された「クライシス チャリティー ギグ」のヘッドライナーを務め、2013年3月には、オアシスのノエル・ギャラガーが主催したティーンエイジャーの癌に対するチャリティーコンサートに出演し、ポール・ウェラーはドラムを叩き、デーモン・アルバーン、ノエル・ギャラガー、グラハム・コクソンと共にブラーの「テンダー」を演奏した。

tw-31458148808
tw-31458148808
@tw-31458148808

目次 - Contents