ファイト・クラブ / Fight Club

ファイト・クラブ / Fight Club

『ファイト・クラブ』とは、1999年に公開されたデヴィッド・フィンチャー監督の映画で、チャック・パラニュークの同名小説を原作としている。現代社会の消費主義やアイデンティティの喪失をテーマにした、サイコロジカル・スリラーである。名前の明かされない主人公が不眠に悩まされるところから物語は始まっている。主人公は医者の勧めにより、様々な自助グループに参加し、そこでマーラ・シンガーというひとりの女性に出会う。またある時に主人公は、飛行機の中でカリスマ的な石鹸の販売員タイラー・ダーデンと出会い、彼の影響でFIGHT CLUBを結成する。『ファイト・クラブ』は男性たちが地下で、殴り合いをする秘密の集まりで、次第に過激な行動をエスカレートさせていく。物語が進むにつれて、主人公はタイラー・ダーデンの正体と自分自身の真実に気付き、衝撃的な結末を迎える。タイラー・ダーデンのキャラクターは、主人公の分身であり、主人公の抑圧された欲望や反抗心を具現化した存在である。

ファイト・クラブ / Fight Clubのレビュー・評価・感想

ファイト・クラブ / Fight Club
10

膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画

冴えない生活を送る不眠症の主人公が出会った風変わりな男と始めた共同生活。
一緒に組織したアンダーグラウンドのファイト・クラブ。

そこには夜な夜な男たちが集まり、お互い、殴り殴られる真剣勝負の刹那。
組織は主人公の知らぬところで日に日に拡大し、当初の目的を逸脱していくのだった--------。

チャック・パラーニックの原作を新人脚本家ジム・ウルスが脚色し、「セブン」、「ゲーム」のデヴィッド・フィンチャー監督の問題作だ。
出演はエドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター。

病んだ作品世界に病んだキャラクターと濃い役者。
過剰に攻撃的なダストブラザーズによるスコア。
後半のとんでもない展開の伏線が、なんとサブリミナル映像というルール違反。
破綻寸前でまとまった危うさ。いびつだが、魅力的な傑作、というか、他ではまず見られない大怪作だと思う。

CGの助けを借りて、自在に動きまわるカメラに象徴されるように、スタイルと物語が拮抗し、ときにスタイルそれ自体が強烈に自己主張を始める。
セックス・シーンですらCG処理してみせる、そのあまりに人為的な映像。
その居心地の悪さ、そして面白さ。そして、その必然性。

どんな作品にでも自分の刻印を明確に刻み、しかし、あくまで商業映画の枠の中で消化してきたフィンチャーだが、ここにいたっては、もはや「ベストセラー原作の映画化」をダシにして、世界を挑発しているとしか思えない。

曲者俳優エドワード・ノートンとスター俳優ブラッド・ピットが肉体改造をして熱演しているが、画面に映らない映画監督が、その両方を食ってしまっているといってもいいほどの存在感はなんなのだろう。

見た目のスタイルや刺激に惑わされそうだが、この作品は、その裏に隠されたテーマ性ゆえに、必ず、映画史に後々まで残る作品になるだろう。

日に日に肉体的なリアリティを失うサイバーな世紀末に、原初的な衝動をあらわにして殴り合う男たちを置き、1980年代から引きずり続けてきたヤッピー文化の尻尾と、膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画であると思う。

それを象徴するのが、この作品のラストシーン。このヴィジュアルイメージに、背筋が震えた。
初めて観た時に感じた衝撃をどう表現すればいいのだろう。
何度、観返しても惚れ惚れとする作品だ。

ファイト・クラブ / Fight Club
10

絶対に二回見たくなる映画『ファイト・クラブ』

タイトルは知っており、人からも度々勧められてはいたのですが、どんな内容なのかを聞くと皆曖昧な感想しか言ってくれない、そんな不思議な映画だと思っていました。
実際に観てその理由がわかりました。
「これはものすごく面白いけど、ネタバレをしないように勧めようと思うと何も話せなくなる映画だ!」と。

アパートが爆発することで生活が一変した不眠症のサラリーマンのノートンと、破天荒だが視聴者や出会ったばかりのノートンを惹きつける魅力のある、ブラット・ピット演じるタイラーが始める共同生活。
「僕」であるノートンの視点で進んでいくこの映画は、前半パートは鬱屈した日常を吹き飛ばしていく爽快感を感じながら進んでいきます。
そしてこの二人を発端に集まりだした男たちによりタイラーが結成した「ファイト・クラブ」という、閉店後のバーの地下でただただ素手で殴り合う組織の結成。多くの視聴者は、そこに生き甲斐を見出していくノートンに感情移入していくでしょう。
そしてタイラーの主導で「ファイト・クラブ」のメンバー達により行われる様々ないたずらが、徐々にテロまがいな内容になっていき作品は不穏な空気に満ちていきます。
ノートンの視点で物語を追っていく視聴者も「タイラーは一体どうしたんだ。そもそもタイラーは何なんだ」という疑問や不安をノートンと共有していきます。
しかしそんな感情移入すらもまた、爆発したノートンの部屋のように派手に吹き飛ばされました。
この映画の肝である「タイラーはノートンが作り出したもう一つの人格である」という衝撃的な展開。
アパートを爆破したのも、ファイト・クラブを結成したのもテロを主導したのもすべて「僕」でありタイラーでもあったノートンでした。
終盤に明かされるこの仕掛けは、映画の始まりから様々な伏線が巧妙に盛り込まれているのです。
「何度も見返すほどとんでもなく面白いから人に勧めたいけど、見てない人には多くを語れない。だけど絶対に観てほしい!!」
独特な画面構成や斬新かつ丁寧な空気づくりも含めて、そんな思いにさせてくれる素晴らしい映画でした。

ファイト・クラブ / Fight Club
7

非日常を体験したい人にぜひ見てほしい。

このFight Clubという映画はほかの映画と比べてかなりぶっ飛んでいる映画だと思います。まず、基本はエドワード・ノート演じる「僕」の視点で物語が進行していきます。この「僕」は自動車会社に勤務し、全米を飛び回りながら車のリコールの調査をする平凡な会社員でした。その「僕」の家は、IKEAのデザイン家具や職人手作りの食器、高級ブランドの服などをそろえた雑誌の表紙に載っているような部屋を作るのが彼の生きがい、人生そのものとなっていました。しかし、彼には不眠症という大きな病を患っていました。この不眠症の苦しみを精神科の医者に訴えますが、「世の中にはもっと大きな苦しみを背負ったものがいる」と言われ睾丸がん患者の集いを紹介されます。そこで彼は、患者たちのつらい苦しみの告白を聞くと自然と感極まり、ここから不眠症が治り始めます。これに味を占めた「僕」は末期がん患者や結核患者などの集いに偽の患者として潜入するようになりました。そこで「僕」と同じように偽の患者としていた女性「マーラ」と出会いますが、彼女との出会いで「僕」の不眠症は再発するようになりました。
そんなある日、リコールの調査で全米を飛び回っていた時に自宅が何者かによって爆破されてしまいます。そんな生きがいを失った「僕」の前に石鹸の行商人タイラー・ダーデン(ブラッドピット)が現れ、「僕」は彼に救いを求めます。その後、バーの帰りに二人は殴り合いをすることが日常になっていき、次第に観客が増え殴り合いをする同士が増えていきました。そこでタイラーはFightClubを設立し、殴り合いがやりやすい環境を整えていきました。しかし、ある日タイラーはFightClubのメンバーに宿題を出し始め、さらには軍団を作り始めました。やがてタイラーは、「プロジェクト・メイヘム」を発案し、社会的権威のある会社などに破壊工作をし始め、FightClubはテロ集団へと変貌していきました。そのことに疑問を感じた「僕」はタイラーに意見しようとタイラーを探すがどこにもおらず、部屋にあった使用済みの航空券を手掛かりに全米を探すようになりました。タイラーは全米のどの大都市にもFightClubを作っていた。ある店でFightClubのメンバーたちと会うとある一人から「あなたダーデンさんですよね」と言われた。そこから慌ててマーラに電話で自分の正体を確認するとタイラー・ダーデンだということが発覚する。なんと理想の自分がもう一つの人格、タイラー・ダーデンとして自分がテロ集団への指揮をしてしまっていたのだ。タイラー・ダーデンがクレジットカード会社をFightClubを使って爆破しようということに気が付いた「僕」は自分の計画を止めようとクレジットカード会社へ走っていく。
この映画は、かなりグロテスクな表現や性的な描写が多いため複数人で見るときは注意してください。

ファイト・クラブ / Fight Club
10

お前は今の自分に満足しているか?

物語の主人公である「僕」は自動車のリコール調査をする会社で働いているごくごく普通、平凡なサラリーマン。ある日、ひょんなことからタイラー・ダーデンという謎の男と出会うのだった、、、。
視聴者の自己投影先である「僕」は、自分に自信がなく、貧相な体、結婚もしていない普通のサラリーマン。おそらく多くの視聴者がこの主人公を見て「俺だ、、、」と思うのではないでしょうか。そんな彼が自分とは真反対の存在のタイラー・ダーデンに出合う。彼は自分に自信がありマッチョ、おまけに顔がいいときたもんだ。全人類の男性諸君が思い浮かべる「理想の男」だ。そんな彼が「お前は今の自分に満足しているか?もし明日死ぬとして、いい人生だったと心の底から思えるか?」と幾度となく問いかけてくる。我々視聴者はハッとするだろう。「今の自分に満足なんかしていない。俺にはやりたいことがある!でも今の自分は、、、」と。タイラーは続ける。「やりたいことがあるのになぜやらない?」。単純なで鋭利な問いに「僕」を含めた我々視聴者はたじろく。
そんな「僕」とタイラーは、夜な夜なバーの地下で素手の男たちが拳一つで殴りあう「ファイトクラブ」という組織を作り、物語は思いもよらぬ方向へ傾いてゆくのだった、、、

ファイト・クラブ / Fight Club
9

オシャレで、かっこいい

ちょっとわけのわからないところもありますが、かっこよくて大好きな映画です。エドワード・ノートンが家具が好きって設定もなんか好きだし、ブラット・ピットの汚らしい格好も全て計算し尽くされているなと思ってしまいます。もともとこの監督は細かい人らしいのですが、その細かい設定とか撮り方がとてもうまく作用している映画だなと思いました。
ブラピの役は頭のおかしいぶっ飛んだ役です。彼の作ったファイトクラブは女の私からしたら、意味のわからないクラブですが、この映画に憧れて、喧嘩してえ、とか思った男性も多かったと思います。予告編では、なんかそのファイトする奴らみたいなことしかわからなかったので、初めてこの映画を見たときは、サスペンス的要素もあって面白いなと思いました。
そして、その謎で観客を最後まで引っ張っておいて、最後は小馬鹿にしたように終わるところもオシャレだし、かっこいい映画だなと思います。ブラピがすごい体のいい男役なので、エドワード・ノートンはヒョロ男っぽく映りますが、エドワードも実はなかなかいい男だし、映画の中で鍛えていって、体もよくなるし、素敵です。男くさく、なんやねんと思う場面も多いですが、いい体の男たちが見れるのもこの映画の魅力の一つかなと思います。

ファイト・クラブ / Fight Club
10

【映画】ファイトクラブ【感想】

ブラッド・ピット、エドワード・ノートンがダブル主演を務める名作と名高い映画「ファイトクラブ」の見所や感想、映画の中で筆者の心に残った場面、筆者の心に刺さった言葉等を紹介していきます。
~概要~
1999年に公開。元はチャック・パラニュークによる長編小説

~メインキャスト~
エドワード・ノートン(僕 役)
ブラッド・ピット(タイラー・ダーテン 役)
ヘレナ・ボナム=カーター(マーラ・シンガー 役)

~主な登場人物と構成~
大手自動車会社に勤務し数々のブランド品に囲まれて物質的には何不自由なく暮らしているが、不眠症に悩まされている主人公の『僕』。精神科医に紹介された自助グループへと娯楽目的で参加し、『僕』の療養のノイズとなってしまう女性の『マーラ・シンガー』、『僕』とは対照的にユーモアにあふれ野生的でアウトローなマッチョである『タイラー・ダーテン』の3人が織りなすサイコサスペンス恋愛ミステリードラマ映画。

~ざっくりとした内容と感想~
タイラー・ダーテンとマーラ・シンガーに翻弄され複雑化する3人の関係と徐々に変容していく『僕』。徐々に暴かれていく真相に伏線の数々、男のロマンから現代社会へのアンチテーゼ、哲学、暴力、ブラックユーモアまで詰まった大どんでん返し、イカした演出に小洒落たギミックの散りばめられた壮大な映画です。
作中ではかなり極端な思想やメッセージが表現されてますが、その過激な表現や言い回しが鈍くなった心に突き刺さって思わずハッとなる場面が何度かあったり、心に残る台詞やシーンが多い映画でした。
忙しい毎日に追われて自分を見失ってしまっていたり、ただ漫然と毎日を過ごしているだけとなっている人には、作中の言葉を引用すれば正に『石鹸』で在り『爆弾』のような映画です。
ぜひ視聴してみることお勧めします。

最後に、筆者が思うファイトクラブの見所・名シーン3選!(軽くネタバレを含みます)
1.ブラッド・ピットの怪演
タイラー・ダーテン役として登場するブラッド・ピット。その完成された肉体美はもちろんの事、彼から漂うアウトローな雰囲気、どぎついファッションを着こなす野獣感が凄まじいです。またファイトクラブで演説を行う際のカリスマ性には映画を観ているこちらまで彼に心酔してしまいそうになります。終盤に"1人で殴り合い"を演じるシーンもとてつもなく痛々しく、いかに彼がタイラー・ダーテンという役に入り込んでいるかが見て取れました。

2.タイラー・ダーテンのイカレ具合
1とほぼ重複してしまいますが、タイラー・ダーテンの思想とその極端で1mmもブレない様はまさにイカれているといっても過言ではないでしょう。「死ぬ前になにがやりたいか?」という問いに対して『僕が応えられるまで』対向車に向かって車のアクセルを緩めない、獣医を目指す若者に銃口を突きつけ「死ぬ気で勉強しろ」と脅迫する描写なんかは間違いなくイカレていますが、彼の言っていることは実はとても大事なことだったりします。そこがまた考えさせられて面白いのです。また、ファイトクラブの会場をこれからも貸してくれと、自分を痛め続けながら店主に懇願する場面は最高にサイコでした。彼の自分の哲学に正直に、極端で度し難いほどブレずに野蛮に生きようとする様は最高にイカれていて、最高に爽快でもあります。

3.ラストシーン
なんといってもラストシーンです。物語的には果たしてバッドエンドなのか?トゥルーエンドなのか?どちらも解釈は受け手次第。『僕』が見下ろす周囲のビルが、あれだけ阻止しようとしていたにもかかわらず、まるで祝福の花火かのように大団円のごとく見事に爆発し崩壊していきます。とても象徴的なシーンだと思います。あの演出には監督の粋な計らいを感じました。そしてなんといっても最後のクレジットで一瞬サブリミナル的に映り込む男性器の描写。タイラー・ダーテンが映写室のバイトで話していた伏線がここで回収されます、それもラストシーンにもってくるところがとても茶目っ気を感じます。作中には他にもいろいろなシーンで彼がサブリミナルに映りこんでいる場面があるのですが、それはまた別の記事で紹介しましょう。タイラーの茶目っ気な伏線を添えて、『僕』のその後を明確に描写せず綺麗で壮大な爆発で締めくくるというラストシーンが筆者の心にはとても刺さりました。

以上、筆者が思う映画ファイトクラブの見所3選でした。
他にもファイトクラブで男たちが生き生きと殴り合うシーンなど上げだせばキリがありません。またここでは紹介できないほど心に刺さる名言もたくさんあります。
是非1度ご自身で映画を視聴してみて、タイラー・ダーテンという魅力あふれるキャラクターや伏線が多く驚かされるストーリーを楽しんでみてはいかがでしょうか。

ファイト・クラブ / Fight Club
8

今の自分に自信を持て

初めてこの映画を見たのは、週末のテレビのロードショーでした。その当時は学生で、当時は学業の成績もよくなく、また部活に打ち込んでみても、思っている程のめり込めなく結果もでない、何か鬱々とした日々を送っていました。
映画に出てくるタイラー・ダーデン(ブラッドピット)は、スタイルもいい、体も鍛えてたくましい、ファッションセンスも抜群、頭も切れる、それでいて自由奔放と、正に今の自分にはない物を持っている、男としての理想像そのものでした。
ブラットピットの作品は、何作か鑑賞していますが、個人的にはこの作品の彼がとても気に入っています。
映画の主人公(エドワード・ノートン)も何か、現実に生きがいを見いだせなく、鬱々とした日々を送っており、正にその当時の自分と重なりました。そこに彼と真逆の性質を持つ、タイラーダーデンの登場です。瞬く間に主人公はタイラーに魅了され、彼の導くがままに、彼の所属する..というよりも、彼と主人公が作り上げた非合法の拳闘クラブで活動するようになります。
タイラーの思考や行動理念は非常にアグレッシブかつ合理的で、そこに主人公はグイグイ引き込まれます。私も同じくグイグイ引き込まれたのですが、実際にこのような人物が目の前にいたら、おそらくみな惹かれるのではないでしょうか?
映画のオチは、実はタイラーは主人公が自分の妄想で作り上げた架空の人物で、主人公が一人で突っ走る度胸がないので、頭の中で自分の理想像を作り上げ、妄想の友達にリードしてもらいながら、本当に自分がやりたかった欲求を実行してきた..と、ちょっとアブない妄想男というオチですが、映画の最後で自分の妄想と決別します。
そして自信を取り戻した所辺りで、終わってしまうのですが、この作品の言わんとしている事は、今の自分に自信を持て!という事ではないのでしょうか?
私も最初に映画を見た時は、タイラーのルックスや行動や言動ばかり、しばらく目がいってしまいましたが、何回も見直しているうちに、自分の心の中で理想化した自分ばかりに捕らわれて、人生を見失うのではなく、理想も凄く重要ですが、着実に一歩一歩進んでいくのが、人生かなと..この映画を見て感じました。

ファイト・クラブ / Fight Club
10

人生のテンションがあがる作品

あらすじは不眠症の主人公が、タイラーという男と出会い2人で毎晩殴り合いをする「ファイトクラブ」という集まりを作り、徐々にその行動が過激になっていくというストーリーです。
この作品を10回以上観てますが、観るたびにテンションが上がります。
それは随所に生きることの本質を投げかけられてるからだと思います。
例えば主人公の住んでる部屋が何者かに爆破され、行き場を失った主人公がタイラーと飲んでるシーンです。
主人公はそれまで家具などをこだわって揃えて雑誌などに載ってる理想の部屋を作っていましたが、タイラーに言わせればそれは「物に支配されてる人生」なのです。
確かに生きていく上で高級なソファーや食器などは必要ではありません。
そういった「物」によって見えなくなっている部分というのがあるのではないかと思わせてくれます。
しかもこの映画が公開されたのは1999年です。今でこそパソコンやタブレットがあれば、音楽も映画も本もデータで楽しむことが当たり前になってきたり、シェアリングエコノミーという考え方が根付いてきてますが、当時には無かったと思います。
それを見据えていたようなシーンを創る監督のデイヴィッド・フィンチャーは本当にすごいと思います。
他にも色々あるので、ぜひこの作品を観ながら自分なりの生きることの本質を探してください。