エレファントカシマシ(エレカシ)の徹底解説まとめ

エレファントカシマシとは、ボーカル・ギターの宮本浩次を中心とした1988年にデビューしたロックバンドである。1981年に中学の同級生を中心に結成。1988年のメジャーデビューから長きにわたり活動を続けている。
デビュー当初はストレートなロックを提示したが、2ndアルバム以降は宮本の独創的かつ文学的な世界観を強く反映させている。アルバムごとにサウンドの印象を大きく変える実験的な試みが特徴で、オルタナティヴ・ロックやポップスなど多様なスタイルを取り入れ、独自の音楽性を追求し続けている。

目次 - Contents

エレファントカシマシ(エレカシ)の概要

エレファントカシマシとは、ボーカル・ギターの宮本浩次を代表とするロックバンドである。宮本、ギターの石森敏行、ドラムスの冨永義之、ベースの高緑成治の4名で構成されている。1981年に中学の同級生で結成され、1988年にEPIC/SONY RECORDSからメジャーデビューした。主な略称は「エレカシ」。

エレカシは、1988年にメジャーデビューを果たして以来、長きにわたり活動を続けている。
バンド名を冠した1988年リリースの1st『THE ELEPHANT KASHIMASHI』では、アマチュア時代の楽曲を含みつつ、ストレートで伝統的なメロディーとサウンドを提示した。しかし、2ndアルバム以降、ボーカルの宮本浩次の音楽に対する姿勢がより強く反映されるようになった。
宮本は、政治への関心や文学作品から受けた影響を楽曲に映し出し、その独裁的とも言えるスタイルがバンドの音楽性を決定づけていった。また、エレカシはアルバムごとにサウンドの印象を大きく変える実験的な試みが特徴で、オーソドックスなロックだけでなく、打ち込み主体のオルタナティヴ・ロックや緻密なアレンジのポップスなど、常に独自の音楽性を追求し続けている。

エレファントカシマシ(エレカシ)の活動経歴

結成からEPIC/SONY RECORDSでのメジャーデビューまで

エレファントカシマシは、1981年に北区立赤羽台中学校の同級生である石森敏行と冨永義之を中心として結成された。翌年、宮本浩次が加入。当初は6人編成だった。バンド名は「かしまし娘」と映画『エレファント・マン』に由来し、遊び心から付けられたという。
当初はディープ・パープルなどのコピーから始めたが、1982年にはオリジナル曲で初ステージを踏み、新宿JAMなどでライブ活動を展開した。1986年に高緑成治が加入。同年12月、「CBS/SONY SDオーディション」入賞をきっかけにデビューへの道を開き、双啓舎と契約した。

1988年、シングル「デーデ」とアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』でEPIC/SONY RECORDSよりデビューした。音楽評論家の渋谷陽一や桑田佳祐など、著名人から早くも注目を集めた。
1stアルバムは、ローリング・ストーンズやRCサクセションの影響が見られるストレートなロック。特にラストの「花男」は、内に秘めたエネルギーを爆発させる独自のスタイルを確立した。
しかし、2nd『THE ELEPHANT KASHIMASHI II』では、ストレートなロックから一転し、内面の苦悩や沈鬱な感情を叩きつけるようなヘヴィーな曲で占められた。
3rd『浮世の夢』以降は厭世的な文語体の歌詞が増え、4th『生活』では長尺の曲が多く収録された。
1991年、初の日本武道館公演を成功させるが、その後のアルバムは高い音楽性にもかかわらず売上に繋がらなかった。
ディレクターの要求に応えた6th『奴隷天国』などを経て、1994年、ゲストを迎えた7th『東京の空』を発表。宣伝に注力したものの、EPICとの契約を打ち切られてしまった。

エレファントカシマシのデビュー期は、とにかく先鋭的だった。ライブでは観客に対し「拍手をするな。座って聞け。」と言い放ち、実際に客席には正座してライブを鑑賞する者もいたという逸話がある。
デビューアルバムでは、アップテンポな曲調に乗せて、ボーカルの宮本がつぶれそうながなり声で風刺のきいた強烈な歌詞を叫ぶスタイルだった。しかし、2nd以降は、重たいリズムにボーカルがさらに重くなり、時にバックの演奏と意図的にずらしながら歌うという、独特な空気を持つ楽曲が多くなった。
この時期の彼らの音楽を聴いて衝撃を受けたという著名人は非常に多く、そのスタイルは今でも語り草となっている。この時期のエレファントカシマシのスタイルこそ、ある意味で真の「日本の和製ロック」だったと言えるだろう。

ブレイク時(ポニーキャニオン時代)

EPICとの契約が打ち切られ一時メジャーから遠ざかったエレカシだったが、その間も地道な曲作りとライブ活動は続けた。
その後、ロッキング・オンの渋谷陽一らの協力で新事務所と契約し、1996年、ポニーキャニオンからシングル「悲しみの果て」で再デビューを果たす。同年、8thアルバム『ココロに花を』をリリース。この時期、宮本はミックス済みの音質にイメージとの違いを感じ、機材を叩き付けたというエピソードが残っている。

この再デビュー以降、バンド名表記を「エレファントカシマシ」(スペースなし)に変更。積極的なメディア露出とタイアップ路線により売上を伸ばした。特に1997年、ドラマ主題歌となったシングル「今宵の月のように」は80万枚を超える大ヒットを記録し、収録アルバム『明日に向かって走れ-月夜の歌-』も50万枚の売上を達成。翌1998年には10thアルバム『愛と夢』を発表した。

この時期がエレカシの最初のブレイク期であり、メロディアスで優しい楽曲が多く、聴く者の傷を癒すような感覚を与えた。宮本は以前の刺々しいオーラを抑え、バラエティ番組などにも積極的に出演するなど、その独特なキャラクターが受け入れられ、国民的なロックバンドへと成長した。この時期はシングル化された曲の比率が高く、ヒット曲を多数輩出した。

1stブレイク後の潜伏期(東芝EMI時代)

「今宵の月のように」でブレイクを達成した後、エレカシは1999年にFAITH A&R傘下のバリアフリーレーベルとともに東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)へ移籍した。
移籍後、ファンの度肝を抜くようなシングル「ガストロンジャー」をリリース。2000年にはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなどの影響を受け、打ち込みを多用した、宮本のソロ的な要素の強い11thアルバム『good morning』を発表。
この時期、宮本は執筆やドラマ出演など多才な活動を見せた。
2002年、小林武史プロデュースによる12th『ライフ』で穏やかな世界観を構築したが、年末にはセルフプロデュースに戻り、シンプルなバンドサウンドへ回帰したミニアルバム『DEAD OR ALIVE』を発表した。宮本は「面白いキャラクター」として定着したことへの反省から、この頃からメディアへの露出を控えるようになる。
2003年の14th『俺の道』でバンドサウンドへの回帰は決定的となり、熱のこもった作品をリリースし続けた。2004年には熊谷昭を共同プロデューサーに迎えた15th『扉』を発表。その制作過程を追ったドキュメンタリーフィルム『扉の向こう』も話題となった。
2006年、ドラムの冨永が慢性硬膜下血腫で療養。治療により完治する。その後、エレカシは佐久間正英プロデュースの17th『町を見下ろす丘』をリリースした。
この時期は、商業的成功よりも、原点に立ち返りバンドとして洗練されていく、非常に熱量の高い時期であった。

再ブレイク期(ユニバーサルシグマ時代)

東芝EMI在籍期は世間的に低迷期と見なされがちだが、バンドはこの時期に精力的な活動を通じて大きな成長を遂げた。
そして2007年、ユニバーサルシグマへ移籍し、再ブレイクを果たす。宮本浩次は、移籍がバンド内の空気を攪拌し、新たな気持ちで活動できるようになったと述べている。
移籍第1弾シングル「俺たちの明日」を発表し、ハウス食品のCMタイアップに起用された。ユニバーサル側の意向により、この時期からプロモーション活動を積極化。2009年、映画『相棒』スピンオフの主題歌となったシングル「絆」を含む19thアルバム『昇れる太陽』がオリコン週間チャート3位を獲得し、バンドは再び勢いに乗った。
2012年5月に21stアルバム『MASTERPIECE』を発表したが、同年9月に宮本が急性感音難聴と診断され、手術を経てライブ活動を休止。翌2013年9月「復活の野音」で活動を再開した。2014年にはデビュー25周年記念ライブをさいたまスーパーアリーナで開催し、約1万4千人を動員。2015年のシングル「愛すべき今日」で、18年ぶりにシングルTOP10入りを果たした。

デビュー30周年と宮本のソロ活動

2017年、デビュー30周年を記念してオールタイム・ベストアルバム『All Time Best Album THE FIGHTING MAN』をリリースし、初の47都道府県ツアーを敢行。年末には、悲願であったNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、「今宵の月のように」を披露した。
2018年には3枚目のトリビュートアルバムを発表。宮本はデビュー以来初となる、バンド外への楽曲提供・プロデュースを高橋一生に対して行った。同年11月には、地元・赤羽駅の発車メロディに「俺たちの明日」と「今宵の月のように」が採用される。
2019年、所属事務所をアミューズに移籍。同年より宮本がソロ活動を本格化したため、エレファントカシマシとしての活動は新春ライブや日比谷野音公演など限定的となっている。

デビュー35周年と断片的な活動再開

エレカシは2023年、デビュー35周年を機に約5年ぶりの本格始動を発表した。3月8日に約5年ぶりのシングル「yes. I do」をリリースし、春には全国アリーナツアーを開催。同年10月には新曲「No more cry」を発表したほか、日比谷野外大音楽堂でのライブ開催、年末には二度目のNHK紅白歌合戦出場など、精力的に活動した。
2024年4月1日、アミューズとの契約が満了し、マネージメント窓口は株式会社elephants(エレファンツ)となった。2024年以降は、宮本のソロ活動が中心となり、バンドとしては「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」などのフェス出演や単独ライブに活動が限定されている。
2025年1月には日本武道館で新春ライブを2日間開催。同年9月には改修工事で閉場となる日比谷野外大音楽堂のさよなら公演を務めた。

エレファントカシマシ(エレカシ)のメンバー

宮本浩次(みやもと ひろじ)

1966年6月12日生まれ。東京都北区赤羽台の出身である。バンドではボーカルとギターを担当。愛称は「ミヤジ」。身長は170cm、血液型はO型。
エレファントカシマシの顔であり、中心人物である。主な使用機材として「TANGEMAN STRAT」「N.Y LAB TELE」など多数のギターを使い分けている。音楽プロデューサー、俳優としても活動している。
バンドの楽曲のほとんどを作詞・作曲し、その独特の言動と圧倒的な歌唱力で多くのファンを魅了している。ソロ活動も行っている。

石森敏行(いしもり としゆき)

keeper
keeper
@keeper

Related Articles関連記事

宮本浩次の破天荒なエピソード・逸話まとめ

宮本浩次の破天荒なエピソード・逸話まとめ

宮本浩次(みやもとひろじ)とは、ロックバンド・エレファントカシマシのボーカルで、高い歌唱力と強烈なキャラクターで幅広い層に人気を博すミュージシャンである。バンドとしてはもちろん、2018年頃からはソロでの音楽活動にも力を入れるなど、活躍の幅を広げてきた宮本だが、その個性的な言動、こだわり故に多くの破天荒なエピソードが存在し、それもまた多くのファンを引き付ける魅力となっている。本記事では、周囲をヒヤヒヤさせるようなものから笑い話になるようなものまで、宮本にまつわる逸話の詳細をまとめていく。

Read Article

目次 - Contents