浜田省吾(浜省・ハマショー)の徹底解説まとめ
浜田省吾とは、日本のロックボーカリストであり、シンガーソングライターである。愛称は「浜省」または「ハマショー」。シングル『路地裏の少年』とアルバム『生まれたところを遠く離れて』で1976年にデビューして以来、日本のロックシーンを走り続けている。テレビなどのメディアにはほとんど出演せず、ライブ活動を中心に多くのファンを魅了しているのが特徴。「悲しみは雪のように」など、数多くの名曲を送り出している。
浜田省吾の概要
浜田省吾とは、日本のミュージックシーンに大きな影響を与えているロックボーカリストであり、日本語の歌詞にこだわりを持つシンガーソングライターである。ニックネームは「浜省」または「ハマショー」で、サングラスがトレードマークになっている。1975年にロックバンド「AIDO」のドラマーとしてデビューしたが、シンガーソングライターへの憧れなどから約5か月で脱退。翌年の1976年にシングル『路地裏の少年』とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビューを果たした。
テレビなどのメディアにはほとんど出演せず、地道なライブ活動で多くのファンを獲得し、「テレビ出演や大ヒット曲がないのに、観客動員数が日本一のミュージシャン」として話題になった。
数多くの名曲を生み出しているが、最大のヒット曲となったのは1992年にテレビドラマの主題歌となった「悲しみは雪のように」である。ドラマの大ヒットという追い風も受けて「悲しみは雪のように」は初のミリオンヒットを記録し、コアなロックファンだけでなく、日本全国のお茶の間にも浜田省吾の名前が知れ渡った。カラオケファンにも愛されており、「MONEY」などの盛り上がる曲から「片想い」や「もうひとつの土曜日」などのバラードまで、幅広い支持を得ている。
浜田省吾の活動経歴
ロックバンド「AIDO」でのデビューと脱退(~1975年)
浜田省吾が音楽に興味を持ったのは小学生のときで、姉へのプレゼントだったギターを拝借して遊んだのがきっかけである。小5で聴いたThe Beatlesに衝撃を受け、Bob DylanやJackson Browneも好きになって、ポップミュージックからロック、ソウルミュージックへと音楽世界が広がっていった。実際に音楽活動を始めたのは、大学生のときだった。当時の大学は、激しい学生運動が巻き起こっている最中で、荒廃したキャンパスに失望した浜田省吾は、大学を休学・中退して故郷の広島に戻り、バンド活動に熱中することになる。
広島に戻った浜田省吾は、ロックバンド「AIDO」に加入。ギターやベースはすでに他のメンバーが担当していたため、残る楽器の中からじゃんけんでドラムを選択した。広島でライブ活動を続ける中で、CBSソニーの社員だった蔭山敬吾との出会いがあり、「AIDO」はターニングポイントを迎える。浜田省吾は1974年にデモテープを持って、東京でディレクターになった蔭山敬吾の自宅を訪れ、プロデビューしたい意思を伝えた。
デモテープが認められたAIDOは、吉田拓郎のライブでバックバンドを務めた後、1975年5月にアルバム『AIDO』とシングル『二人の夏』でデビューを果たした。100万枚の売り上げを目標に大規模なプロモーションが行われたが、AIDOのセールスは伸び悩んだ。浜田省吾はバンド内での自分の存在に疑問を持ち始め、シンガーソングライターへの憧れを捨てきれなかったことから、デビューから半年も経たない9月末でバンドを脱退し、ソロデビューを目指すことになる。
念願のソロデビューと定まらない音楽の方向性(1976年~1979年)
浜田省吾は1976年4月、シングル『路地裏の少年』とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビューを果たした。その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリースしたものの、ヒット曲には恵まれなかった。デビュー当時はギター1本を持って全国を回り、レコードショップの店頭で歌ったり、スーパーのイベント会場などでプロモーションすることもあったが、ヒットや集客にはつながらなかった。浜田省吾自身がやりたかった音楽と、事務所やレコード会社が目指していた方向性にギャップがあり、大きな悩みとなっていた。
浜田省吾本人は本格的なロック志向だったが、事務所側はポップな音楽を作ることを重視しており、アルバムを発売するたびに方向性が変わってしまう試行錯誤を繰り返していた。浜田省吾も一時期、歌詞は書けるが曲は書けない状態にまで落ち込んでしまうこともあった。方向性の迷いは紡ぎだす歌詞にも反映され、自分を否定するような曲もこの時期に多く生み出されている。
暗闇のような3年間を過ごしていく中で、ついに待望のヒット曲が誕生する。1979年7月にリリースしたシングル『風を感じて』である。この曲は日清カップラーメンのCMに採用され、10万枚を超えるスマッシュヒットとなった。日清食品がスポンサーとなっているテレビ番組への出演も決まり、この時期に数少ないテレビでの歌唱も行っている。ヒット曲の誕生をきっかけに、バンドを従えてのツアーが初めて行われ、浜田省吾がやりたい音楽へと突き進んでいくターニングポイントとなった。
音楽性の確立と見る者を惹きつけて離さないライブ活動(1980年~1989年)
方向性の迷いがなくなり、浜田省吾がやりたい音楽を確立したのは、1980年に発売した6枚目のアルバム『Home Bound』である。本格的ロックの色合いが強くなり、レコーディングも初めて海外のロサンゼルスで行われた。スタジオにはNicholas Christian HopkinsやTOTOのSteve Lukatherなど、アメリカの一流ミュージシャンも参加。浜田省吾自身、このアルバムが本格的なスタートとなったアルバムだと位置づけていて、それ以前のアルバムは廃盤にしたいと冗談交じりに何度も話している。
全国ツアーで会場が満員になる回数も増えていき、浜田省吾の熱い歌声やソウルを直接届けることのできるライブは、着実にファンを増やす場所となっていった。その最初の到達点となったのが、1982年1月に行われた日本武道館公演である。当時の武道館はロックアーティスト憧れの場所で、「風を感じて」の1曲しかヒットがない浜田省吾には無謀だとも言われたが、ふたを開けてみれば即完売で武道館公演は大成功に終わった。以後、ライブツアーには「ON THE ROAD」というツアータイトルが使われるようになり、浜田省吾の快進撃がスタートする。
浜田省吾にとってライブは音楽のよりどころであり、直接歌を聴いてほしいという想いが強い。1986年まで毎年、途切れることなく実施されたツアーによってその想いは着実にファンの元に届き、テレビ出演がないにも関わらず日本全国のロックファンにその名前が知れ渡っていった。1983年8月には福岡の海の中道海浜公園で初めての野外コンサートを開催し、2万5千人を動員。1986年9月に発売した10枚目のアルバム『J.BOY』は初のチャート1位を記録し、日本を代表するアーティストとなった。
1988年8月に静岡の渚園で開催した野外イベント「A PLACE IN THE SUN」では5万人を動員するなど、レコード・セールスもライブの観客動員も絶好調だったが、この年を最後にいったん休養に入り、音楽活動からも離れることとなった。
突然巻き起こった浜省ブームとどん底の精神状態からの脱却(1990年~1999年)
活動休止期間を経て、1990年6月にアルバム『誰がために鐘は鳴る』をリリースしたが、内省的な作品が多く「このまま引退してしまうのでは?」と心配する声があがった。1991年5月から8月まではアリーナツアーを開催。この時期の浜田省吾は精神的な波が大きく、どん底の状態に陥っていたと後の雑誌インタビューで語っている。
精神状態が不安定な中、浜田省吾にそれまでの人生で最大のスポットライトを浴びる瞬間が不意に訪れた。1992年2月にリリースしたシングル『悲しみは雪のように』がドラマ主題歌に選ばれ、初のシングルチャート1位に輝いたのだ。野島伸司脚本の月9ドラマ「愛という名のもとに」のクライマックスシーンで流れる主題歌はインパクト抜群で、初のミリオンセラーも記録した。また、過去のアルバムも発掘され、何枚もの旧譜がチャートインするという、前代未聞の「浜省ブーム」が巻き起こった。
どん底の時期に一番の脚光を浴びたことを、浜田省吾は雑誌インタビューで自嘲気味に語っていたが、そんな浜田省吾が新たな一歩を踏み出す原動力となったのは、やはりライブ活動だった。1993年9月から2年ぶりの全国ツアーを開催し、翌年4月にツアーが終わると同時に、また新たな全国ツアーをスタート。その初日には、プロとして初めてステージに立った思い出の場所である京都会館が選ばれた。
1992年のシングル『アヴェ・マリア』ではすべての印税をエイズ予防財団に寄付し、1995年のシングル『我が心のマリア』では印税を阪神淡路大震災の復興に役立てるなど、チャリティー活動にも新たに力を入れ始める。どん底だった時期がウソのように、1996年以降もアルバムをリリースしてツアーで全国で回るというサイクルを精力的にこなしていった。
熟成される作品と拡がっていく音楽活動(2000年~)
1999年から2000年にかけて全国のホールをまんべんなく回るツアー、そして2001年からも新たなツアーを開始するなど、ライブ中心の活動が続いていく。2002年1月には20年前に行った武道館公演のアンコール公演とも言える武道館公演を開催。2000年代は、これまでのアルバムリリース・全国ツアーというサイクルだけでなく、いろいろな方面に音楽活動の幅が広がった時期でもあった。
2001年にはNHKでスペシャル番組が放送され、久々のテレビ出演を果たしている。また2003年からは通常の全国ツアーとは別に、ファンクラブ会員限定のコンサートツアーが開かれるようになった。2004年にはアレンジャーの水谷公生や新人作家の春嵐とともに「Fairlife」という音楽制作チームを結成。ゲストボーカルにポルノグラフィティの岡野昭仁を迎えた『永遠のともだち/砂の祈り』は、チャリティシングルとして発売され、被災地などの復興支援に充てられた。2006年にはソロデビュー30周年を記念して、発売することはないと言われていたベストアルバムを初めてリリースし、大きなニュースとなった。
2011年に東日本大震災が発生した際には復興チャリティーコンサートを開催し、被災地復興のための支援金として寄付した。以後、2013年、2016年、2017年、2019年、2020年と定期的にチャリティーコンサートを実施している。2020年以降もアルバムやシングルのリリース、全国ツアーと精力的に活動し、2024年に発売した映像作品がチャート1位を獲得するなど、日本の音楽シーンを引っ張り続けている。
浜田省吾のプロフィール・人物像
浜田省吾は1952年に広島県の竹原市で生まれた。父親は警察官で、1945年の広島への原爆投下直後に救援活動に向かい、二次被爆した。浜田省吾が被爆二世であること、そして広島県で暮らしていたことが、音楽活動の大きなバックボーンとなっている。警察官の父親は転勤が多く、尾道市・廿日市市・広島市と広島県内での転校を繰り返し、高校を卒業するまでに20回近くの引っ越しを経験した。このため、ひとり遊びで時間をつぶすことが多くなり、空想を膨らませる習慣が身についていった。
幼い頃からスポーツ全般が得意で、小学校から習っていた剣道は初段の腕前であり、中学校では陸上部、高校では野球部に入っていた。野球の趣味は大人になってからも続き、バッティングセンターで気分転換したり、バンドメンバーやスタッフといっしょに草野球をすることもあった。「BASEBALL KID'S ROCK」など、野球を題材にした曲もある。マンガは読むのも描くのも大好きで、描いた作品がクラスで回し読みされるほど好評だった。
小学4年生のときに江田島に引っ越した際、友達の部屋でThe Beatlesの「Please Please Me」を聴いたのが、本格的な音楽との出会いとなった。以後、中1まで過ごした江田島での3年間が、浜田省吾の音楽活動の原点になっている。その後は呉市に引っ越して、高校までを過ごした。ラジオで洋楽を聴くことに熱中し、さまざまな音楽を聴く中で、シンプルなポップスやロックを好むようになっていった。
浜田省吾が具体的に好きなアーティストとして挙げているのはThe Beatlesの他に、Bob DylanやJackson Browneである。特に好きだったのがJackson Browneで、曲名から引用したワードを事務所やバックバンドの名前につけており、愛犬にも「ジャクソン」と名付けていた。Jackson Browne本人との面識もあり、彼からプレゼントされたギターは、浜田省吾にとっても大切な宝物となっている。
浜田省吾といえば、サングラスがトレードマークになっている。ライブやレコーディングなどの公の場では外さないし、それ以外の場所でも人前でサングラスを外したことはない。「なぜサングラスをするの?」という質問は、デビュー以来何万回もされてきたため、浜田省吾自身も飽き飽きしている面がある。質問への答えも一定ではなく、素顔を覚えられたくない、サングラスを外せば誰だかわからなくなり自由に動ける、好きなアーティストのマネをしてかけ始めたなど、聞かれるたび微妙に変わっている。あまりに顔になじんでいるため、サングラスをしたまま顔を洗ってしまうこともあった。一度だけ、ファンの前でサングラスを落としてしまうアクシデントがあった。1988年に行われた長岡市でのライブで、歌唱中にサングラスが落ちてしまい、MCで「みんなも見るの初めてだろ?」とコメントしている。その場に居合わせたファンにとっては貴重な体験となった。
浜田省吾のディスコグラフィー
浜田省吾は1976年のデビュー以来、数多くのシングルやアルバムをリリースしている。量が膨大であり、すべての作品を詳しく紹介することは難しいため、全体を網羅しつつキーポイントを細かく紹介していく。
シングル
目次 - Contents
- 浜田省吾の概要
- 浜田省吾の活動経歴
- ロックバンド「AIDO」でのデビューと脱退(~1975年)
- 念願のソロデビューと定まらない音楽の方向性(1976年~1979年)
- 音楽性の確立と見る者を惹きつけて離さないライブ活動(1980年~1989年)
- 突然巻き起こった浜省ブームとどん底の精神状態からの脱却(1990年~1999年)
- 熟成される作品と拡がっていく音楽活動(2000年~)
- 浜田省吾のプロフィール・人物像
- 浜田省吾のディスコグラフィー
- シングル
- 『路地裏の少年』
- 『愛を眠らせて』
- 『風を感じて』
- 『陽のあたる場所』
- 『ラストショー』
- 『ON THE ROAD』
- 『DANCE』
- 『LONELY-愛という約束事』
- 『悲しみは雪のように』
- 『星の指輪』
- 『I am a father』
- オリジナルアルバム
- 『生まれたところを遠く離れて』
- 『君が人生の時…』
- 『Home Bound』
- 『愛の世代の前に』
- 『DOWN BY THE MAINSTREET』
- 『J.BOY』
- 『FATHER'S SON』
- 『誰がために鐘は鳴る』
- 『SAVE OUR SHIP』
- 『My First Love』
- 『Journey of a Songwriter 〜 旅するソングライター』
- 浜田省吾の代表曲とミュージックビデオ(MV/PV)
- 「悲しみは雪のように」
- 「MONEY」
- 「もうひとつの土曜日」
- 「片想い」
- 「J.BOY」
- 「ラストショー」
- 「I am a father」
- 「DANCE」
- 「イメージの詩」
- 「この新しい朝に」
- 浜田省吾の名言・発言
- 「自分で照れて、二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞は」
- 「今も変わらず俺 君に恋してる 一番きれいな君を知っているから」
- 「歌を書くことに苦しんだ30代後半から40代になる頃があって、あとから考えると、逆にその時期に大きく成長できた」
- 浜田省吾の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- テレビへの出演回数は少ない
- ライブでの恒例行事は「年代別チェック」
- 「ライブに参戦」という言葉は使わない