David Foster(デイヴィッド・フォスター)の徹底解説まとめ
デイヴィッド・フォスター(David Walter Foster) は、1949年11月1日生まれの、カナダ出身のミュージシャン、作曲家、編曲家、レコードプロデューサー。70代よりキーボーディストとして活動をスタートし、78年にジェイグ・レイドンと共に「エアプレイ」を結成。その後数々のアーティストに楽曲を提供、作品をプロデュースし、「ヒットマン」の異名をとる。グラミー賞47回ノミネート、そのうち16回受賞。全世界で5億枚以上を売り上げた世界で最も成功したプロデューサーの一人である。
David Foster(デイヴィッド・フォスター)の概要
David Foster(デイヴィッド・フォスター)は、1949年11月1日カナダ生まれ。70年代よりキーボーディストしてスタート。その後すぐにバーブラス・トライサンド、ジョージ・ハリスンと言った大物ミュージシャン達と活動し、1979年にはジェイグ・レイドと「エアプレイ」を結成。同じ年にプロデュースしたアース・ウインド&ファイヤーの「After the Love Has gone」が全米2位のヒットとなり、初のグラミー賞、最優秀R&Bソングを受賞した。1982にプロデュースしたシカゴの「Hard to say I’m sorry 素直になれなくて」は見事全米ビルボードチャートNo.1を獲得、瀕死の状態だったバンドを不死鳥のごとく蘇らせた。バラードを得意とするフォスターは、この時期に多くのアーティストに楽曲を提供、ヒットを量産する。また、映画サウンドトラックの仕事も幅広く手掛け、特に1992年の映画『ボディーガード』のサウンドトラックは、全世界で累計5000枚を売り上げグラミー賞でも主要3部門を獲得、中でもホイットニー・ヒューストンの「I will always love you 」は14週連続全米No.1をゲット。当時のビルボード・チャート最長記録となる大ヒットとなった。、90年代以降もセリーヌ・ディオンやジョシュ・グローバンを見出す等、今なお活動を続ける世界最高のプロデューサーである。
David Foster(デイヴィッド・フォスター)の活動経歴
1966年チャック・ベリーのバックバンドに参加し、1971年には自身のバンド「スカイラーク」を結成”、「ワイルドフラワー」の全米9位の大ヒットを生む。1974年ロサンゼルスに進出し、そこで、まだ無名だったフォスターはいきなり超大物との仕事に巡り合う。売れっ子ドラマーのジム・ケルトナーにリンゴ・スターを紹介され、アルバム『グッドナイトウイーン』で1曲だけピアノをプレイする幸運に恵まれる。翌年1975年には、今度はジョージ・ハリスンのアルバム『エクストラ・テクスチャー』で演奏し その1年後にハリソンのアルバム『サーティスリー&1/3』でもフェンダーローズとクラビネットを演奏した。更にバーブラス・トライサンド、ポール・アンカ等、名だたる大物達とプレイする。また、ジム・ケルトナーやダニー・コーチマーと「アティテューズ」を結成する。
1970年代~ プロデュース活動を開始
David Foster(デイヴィッド・フォスター)初プロデュース作品
1977年、若干13歳の天才兄弟キーン・ブラザーズのファーストアルバムをプロデュース。長いことこれがフォスターの初プロデュース作品と思われていた。実際、AOR評論家の中田利樹氏が1994年にインタビューした時、「初めて手掛けたアルバムは、キーンブラザーズのファーストアルバムで良いのでしょうか?」と尋ねたところ、フォスターは「うん、そうだよ。待てよ、その前にジェイ・P・モーガンをプロデュースしたな…アルバムはリリースされなかったけど…」と答えている。ところがそのアルバムはほとんど自主制作に近い形で1976年に発売されていた。当のフォスター自身も一度も目にしたことのないアルバム『ジェイ・P・モーガン』は日本のマニアの間でも超レア盤とされていたが、2000年に日本で奇跡のCD化がされた。このアルバムこそがフォスターの記念すべき初プロデュース作品とされ、その内容は1976年の時点でこれ以上いないという程のミュージシャン達をふんだんに起用し、この上ないゴージャスな仕上がりとなっている。
ところが近年、さらに古いプロデュース作品が発見された。それはカナダのフォークシンガー、ブルース・ミラーの1975年のファーストアルバム『Rude Awakening』である。カナダのみで発売された作品ながら、LAの一流スタジオミュージシャン達がバックを務め、全編を通してトム・スコットの洗練されたサックスが彩を添えている。
David Foster(デイヴィッド・フォスター)とディスコミュージック
David Foster(デイヴィッド・フォスター)は1979年のアース・ウインド&ファイヤーのアルバム『I am 黙示録』で、白人音楽と黒人音楽の見事な融合を果たしたが、それと前後する時期にいくつものディスコソングをプロデュースしている。1977年ハーヴィー・メイソンのソロ3作目『ファンク・イン・ア・メイソンジャー』でフォスターが作曲アレンジ、プレイした「Till you take my love」がR&Bチャートで大ヒット、1979年のメイソンの次作「Groovin you」にも参加。
1979年、アース・ウインド&ファイヤーのモーリス・ホワイトの下デビューを果たし、80年代には映画『フットルース』のサントラで「let's here it for the boy」のスマッシュヒットを放った歌姫「デニース・ウイリアムス」の3作目をプロデュース。
また同じ頃、TOTOのデヴィッド・ペイチとの強力タッグにより「シェリル・リン」のデビュー作をプロデュース「ガット・トゥー・ビー・リアル」は当時全盛を迎えていたディスコ・ブームに乗って全米ビルボードR&Bチャート1位を獲得、総合チャートでも12位となるヒットを記録した。
1978年はフォスターにとっても忙しい一年となった。アリス・クーパーの「閉ざされた世界」を全編プロデュース。キワモノハードロッカーとの異色のコラボだったが、フォスター、クーパーお互いの特色を活かした作品となり、フォスターの音楽的幅の広さを証明した。
キャロル・ベイヤー・セイガーのソロ2作目「…Too」に収録されている、キャロルとの共作「It’s the falling」はその後マイケルジャクソン他多くのアーティストにカバーされる。
サンズ・オブ・チャンプリンから独立し、その後シカゴに加入することになるビルチャンプリンの初ソロ作「独身貴族」をプロデュース。セールス的にはヒットしなかったが、そのクオリティの高さから、AORフリークからは高い評価を得たアルバムとなった。
また、ホール&オーツの「Along the red ledge」をプロデュース。「it’s a Laugh」が全米20位、プロデューサー、フォスターの初のスマッシュヒットとなる。翌1979年の「XーStatic」でも再びフォスターが制作を担当、「Wait for me」が全米18位まで上昇する。このころはLAの凄腕スタジオミュージシャン達を頻繁に起用し、特にTOTO周辺のミュージシャン達との仕事が多かった為、一種のファミリーのようなものを形成していた。
そして1978年の最大の仕事は、スティーリー・ダンのアルバム『Aja』の一曲「Peg」でのギタープレイで注目を浴び、プロデューサーとしても活躍していたジェイ・グレイドンと結成した「エアプレイ」だろう。当時ホール&オーツのマネージャーだったトミー・モトーラにデモテープを聞かせると、それがRCAの重役の元に渡り、あっさりとデビューが決まる。その後フォスターとジェイはプロデューサーとして更に忙しくなり、結局エアプレイは一枚のアルバムを残したのみで解散してしまうが、このアルバムはAOR(アダルト・オリエンテッド・ロックーアダルト志向のロック)の教科書とも言われる程の名盤となっている。そしてこのアルバムからの一曲、ジェイ・グレイドンとビル・チャンプリンと共作した「After the love has gone」は「アースウインド&ファイヤー」の総師モーリス・ホワイトに気に入られ、翌年彼らのアルバムに収録される。
アース・ウインド&ファイヤーの1979年発表のアルバム『黙示録(I Am)』は、全9曲中6曲のソングライティングに関わり、キーボードもプレイ。ブラックミュージックの本流だったバンドに白人のエッセンスを注ぎ込み、高度な音楽的化学反応を起こした傑作アルバムとなった。バンドにとっても大きなターニングポイントとなったこのアルバムからは、先述した「After the Love Has gone」が全米2位のヒットとなり、フォスターにとっての初のグラミー賞、最優秀R&Bソングを受賞した。
クインシー・ジョーンズとの仕事
フォスターが、名プロデューサー、クインシー・ジョーンズから仕事のオファーを受けるようになったのは、1978年のブラザーズ・ジョンソンのアルバム「Blam!!」からで、その後ミュージカル「Wits」のサントラでも起用されるが、1979年のマイケル・ジャクソンのアルバム、『オフ・ザ・ウォール』でもフォスターは2曲をプレイ。その2曲とは、ポール・マッカートニー提供の「Girlfriend」と、キャロル・ベイヤー・セイガーの『…Too』に収められていたフォスターの曲「It’s the falling」のカバーである。因みにフォスターはマイケル・ジャクソンの『スリラー』でも、マイケルとポール・マッカートニーのデュエット「Girl is mine」でシンセをアレンジ、プレイしている。
1980年代~ プロデューサーとしてヒットを量産
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目次 - Contents
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)の概要
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)の活動経歴
- 1970年代~ プロデュース活動を開始
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)初プロデュース作品
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)とディスコミュージック
- クインシー・ジョーンズとの仕事
- 1980年代~ プロデューサーとしてヒットを量産
- 映画サウンドトラックの仕事
- 1990年代~ ビッグネーム達との仕事 アルバムプロデュースから楽曲プロデュースへ
- セリーヌ・ディオンとの出会い
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)とオリンピック
- 2000年代~ クラシック音楽への傾倒
- 2010年代以降 音楽キャリアーの集大成として
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)のプロフィール・人物像
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)のディスコグラフィー
- アルバム
- 『ザ・ベスト・オブ・ミー』 - The Best of Me(1983年)
- 『デイヴィッド・フォスター』 - David Foster (1986年)
- 『シンフォニー・セッションズ』 - The Symphony Sessions (1988年)
- 『リヴァー・オブ・ラヴ』 - River of Love (1990年)
- 『レコーディングズ』 - Recordings (1991年)
- 『クリスマス・アルバム』 - The Christmas Album (1993年)
- 『ラヴ・ライツ・ザ・ワールド』 - Love Lights the World (1994年)
- 『Eleven Words』 (2020年)
- コンピレーションアルバム
- 『デイヴィッド・フォスター プレゼンツ ラヴ、アゲイン』 - David Foster Presents Love, Again (2010年)
- The Best of Celine Dion & David Foster (with Celine Dion) (2012年)
- 『メロディーズ・オブ・ラヴ デイヴィッド・フォスター・ソングブック』 - Melodies of Love - David Foster's Songbook (2017年)
- 『デイヴィッド・フォスター・ワークス』 - David Foster Works (2018年)
- 『デイヴィッド・フォスター・ワークス 2』 - David Foster Works 2 (2019年)
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)の代表曲
- Till you take my love
- Got to be real
- Nothing you can do about me
- After the Love Has gone
- Let’s go round again
- Hard to say I’m sorry( 素直になれなくて)
- Mornin
- Through the fire
- Who’s holding Donnna now
- 抱いて
- Glory of love
- I will always love you
- Earth song
- To love you more
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)のミュージックビデオ(MV/PV)
- Nothing you can do about me
- The Best of Me
- The Best Of Me - David Foster & Olivia Newton-John
- Love Theme from St. Elmo's Fire
- Winter Games
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)の名言・発言
- 「クインシー・ジョーンズとの出会いによって、良い音楽とは何かを知った。今までの自分は間違っていた。」
- 「セリーヌ・ディオンは私が要求したものをその通りに実行してくれる。それは私を興奮させた。同じことをホイットニー・ヒューストンに要求すると、彼女は私の考えと違うものを返してくる。しかし99.9パーセント、それは私の想像を超えたものだった。『ノー!私が言っているのはそうじゃない… ん?待てよ?よし、私の考えは忘れよう、それでいこう!』彼女こそ天才だった。」
- David Foster(デイヴィッド・フォスター)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- 4度の離婚と5度の結婚
- マリブのバカ息子