David Foster(デイヴィッド・フォスター)の徹底解説まとめ

デイヴィッド・フォスター(David Walter Foster) は、1949年11月1日生まれの、カナダ出身のミュージシャン、作曲家、編曲家、レコードプロデューサー。70代よりキーボーディストとして活動をスタートし、78年にジェイグ・レイドンと共に「エアプレイ」を結成。その後数々のアーティストに楽曲を提供、作品をプロデュースし、「ヒットマン」の異名をとる。グラミー賞47回ノミネート、そのうち16回受賞。全世界で5億枚以上を売り上げた世界で最も成功したプロデューサーの一人である。

1980年代のフォスターはヒットソングを量産し、プロデューサーとして最も躍動した時代と言える。1980年のボズ・スキャッグスのアルバム『ミドルマン』をサウンドプロデュース。「ブレイク・ダウン・デッド・アヘッド」、「ジョジョ」、「シモーネ」など、スキャッグスの最も成功したいくつかの曲を共作、作曲家、アレンジャーとしての一種の頂点を極めたと言われるアルバムに仕上がった。
同じ年、「ピック・アップ・ザ・ピーセス」の全米ナンバーワンをヒットを持つイギリスの白人ファンクバンド「アヴェレージホワイトバンド」のアルバム『シャイン』をプロデュース。このアルバムからは、ディスコクラシックとなった「Let’s go round again」チャカ・カーンのアルバムでも取り上げられた珠玉の1曲「What cha gonna do for me」等、ファンクの中にフォスター的「美」を詰め込んだAORの名盤に仕上がった。

1982年ーその当時、メンバーの事故死や長いスランプの中、瀕死の状態となっていた往年のブラスロックバンド「シカゴ」のプロデュースを一任される。フォスターはバンドを一からテコ入れし、新メンバーとして朋友ビル・チャンプリンを送り込んだ。バンドが用意した楽曲は全て破棄し、彼らと一から曲を作り上げた。そして出来上がった曲が永遠のスタンダードナンバー「Hard to say I’m sorry 素直になれなくて」である。この曲は見事全米No. 1に輝き、アルバム『Chicago16』も大ヒット、シカゴはフォスターの手により不死鳥の如く蘇った。続く1984年彼はシカゴとの2作目『Chicago 17』を制作、グラミー賞で初の最優秀プロデューサー賞を受賞した。

エアプレイ解散後もジェイグ・レイドンとの仕事は多岐にわたり、特にフォスター、グレイドンの二人は、アース・ウインド&ファイヤーやボズ・スキャッグス等、黒人ソウルと白人ロックを巧みにミックスすることによりポップシーンを席巻していった。と同時にもう一つの黒人音楽であるジャズにもアプローチしていく。その代表が、マンハッタン・トランスファーやジョージ・ベンソン、アル・ジャロウといったアーティスト達だ。特にアル・ジャロウの代表曲「モーニン」はフォスター、ジェイ、アル3人の共作であり、TOTOのドラマー、ジェフ・ポーカロのドラムが軽快にシャッフルする。

この時期のフォスターはライオネ・ルリッチーの大ヒットアルバム『オールナイトロング』の中の一曲「The only one」や、映画フットルースのテーマ曲で全米ナンバー1に輝いたケニー・ロギンスに「Forever」を書き上げるなど名バラードを量産するが、特に1984年にプロデュースしたチャカ・カーンのアルバム『I feel for you 』からの一曲「Through the fire」は、先述したシカゴの「Hard to say I’m sorry 」アース・ウインド&ファイアーの「After the love has gone 」と並び、ファンの間ではDavid Foster(デイヴィッド・フォスター)の3大バラードと呼ばれる。

1980年代初頭から中期にかけてフォスターの仕事は多忙を極めるが、同時に竹内まりや、尾崎亜美、Char、河合奈保子、岩崎宏美など、日本人アーティストのプロデュースも積極的に行った。特にフォスタープロデュースによる松田聖子の1988年のアルバム『Citron 』に収録されたフォスター作曲のバラード「抱いて」も名バラードとの呼び声が高い。また「赤いスイートピー」の続編、「続赤いスイートピー」もこのアルバムに収録。松本隆作詞、スティーヴ・キプナー、リンダ・トンプソン、そしてデイヴィッド・フォスターが作曲を手掛けた。このアルバム制作にあたり松田聖子はフォスターから、発声法など徹底的に指導を受けたと言われる。
フォスターはこの時期にソロアルバムも発表する一方で、1985年にはUSA・フォー・アフリカのカナダ版ともいえるノーザン・ライツ(ジョニ・ミッチェルやニール・ヤング、ブライアン・アダムスらが参加)の「Tears Are Not Enough」を仕切り、1988年には母国カナダのカルガリーオリンピックの公式テーマ曲「ウィンター・ゲームズ」を作曲するなど、大きな仕事を次々と手掛けていった。

映画サウンドトラックの仕事

フォスターは映画のサウンドトラックでも功績を残しており、1985年、映画『セント・エルモス・ファイア』のスコアを作曲した。ジョンパーが歌った「セント・エルモス・ファイアー(マン・イン・モーション)」は1985年9月に2週に渡りビルボード全米1位を獲得し、「セント・エルモス・ファイアー、愛のテーマ」(デイヴィッド・フォスター作のインストゥルメンタルの映画テーマ曲)は第15位まで上昇した。1986年、シカゴを脱退してソロに転身したピーターセテラが、当時の妻ダイアン・ニニととデイヴィッド・フォスター共に書いた「Glory of love」が映画『ベスト・キッド2』のテーマ曲となり、全米1位を獲得した。その後もマイケルJ.フォックスコメディー「摩天楼はバラ色に」The Secret of My Success(1987)ジョディ・フォスター-マーク・ハーモンの1988年の映画「スティーリング・ホーム」(君がいた夏)のサウンドトラックにフォスターが著名な貢献をした。その他にも「フットルース」や『ゴーストバスターズ』にも携わっている。

そして映画音楽のハイライトは、1992年の映画『ボディガード』のサウンドトラック。全世界で累計5000枚を売り上げたこのアルバムは、実質ホイットニー・ヒューストンのアルバムとも言える。この作品からのトラック「アイ・ハヴ・ナッシング」は、当時のフォスターの妻リンダ・トンプソンとの共作である。そしてこのアルバムの最も有名な一曲「I will always love you 」は180万枚を売り上げ、14週連続全米No.1をゲット。これは当時のビルボード・チャート最長記録となり、グラミー賞でも主要3部門をゲットした。
この「I will always love you」のヒットに象徴されるように、1980年代後半からのフォスターはカバー曲のリメイクが多くなる。それまでのフォスターは自らの筆による曲を提供し、作品全体を仕切ることが殆どであったが、次第にアルバム作りよりヒット曲を要求されるようになるにつれ、、過去の名作に新たな息吹を注ぎ込むというスタイルに変化して行った。ホイットニーの「I will always love you 」もオリジナルはドリー・パートンの1974年のナンバーである。

1990年代~ ビッグネーム達との仕事 アルバムプロデュースから楽曲プロデュースへ

80年代に数々の成功を手にしたフォスターは、90年代に入っても精力的に活動する。
1951年にナット・キング・コールがヒットさせた「Unforgettable(忘れられない人)」はアーヴィング・ゴードンが作曲したナンバーだが、1991年、フォスターはナットの娘ナタリー・コールと、亡き父の音源とをオーバーダブさせ、疑似デュエットという形でプロデュース、見事全米TOP10入り。アルバムもグラミーの最優秀レコード・最優秀アルバム賞に輝き、フォスターもふたたび最優秀プロデューサーに返り咲いた。アン・ヴォーグやモニカ、フェイス・エヴァンス、ドゥルー・ヒルのような若いR&Bアーティストを手掛ける例も多くなっていた中、カントリーミュージシャンであるJohn Michael Montgomeryの曲「I swear 」を黒人コーラスグループAll-4-Oneに提供。フォスタープロデュースのもと独自のバージョンに作り上げ、11週間連続で全米1位を獲得した。1曲だけのプロデュースが続いたこの時期、フォスターは、ダイアン・ウォーレン作曲の「Un-Break My Heart」をトニ・ブラクストンに提供。あまりのベタなメロディーに当初トニは歌うのを嫌がったが、結果的には全米1位とグラミー賞を獲得した。この頃フォスターはマイケル・ジャクソン、マドンナ、ビー・ジーズからフランク・シナトラまで大物を次々に手掛けた。1995年、フォスターはワーナーブラザーズと契約を結び、ワーナーとの合弁会社として自身のレーベル「143レコード」を設立。当時無名だったアイルランドのフォークロックバンド、ザ・コーアーズのデビューアルバムを制作する。

セリーヌ・ディオンとの出会い

1994年には3度目の来日。「JT SUPER PURODUCER’S 94 デイヴィッドフォスター」と題して武道館公演を果たす。しかし90年代の最大の仕事は、フォスターの地元カナダの歌姫、セリーヌ・デュオンの発掘であろう。 カナダのフランス語圏、ケベック出身の彼女に徹底的に英語を習わせるところから始まり、先述した映画『めぐり逢えたら』のサウンドトラックからはクライヴ・グリフィンとのデュエット「When I Fall In Love」がヒット。また、フォスターが作曲・プロデュースした「To Love You More」はフジテレビのドラマ『恋人よ』の主題歌になり日本でも大ヒット、彼女の出世作となった。「Because You Loved Me」や「All By Myself」等フォスターの手によるヒットを経て、彼女は世界の歌姫へと羽ばたいていった。また、フォスター、リンダ・トンプソン、ベビーフェイスによって書かれた「パワー・オブ・ドリーム」は、1996年のアトランタオリンピックの開会式で10万人以上の観客の前で歌われた。

David Foster(デイヴィッド・フォスター)とオリンピック

オリンピックのテーマ曲は、1988年故郷カルガリー大会の「Winter Games」、1996年アトランタ大会の「The Power of the Dream」、2002年ソルトレイクシティ大会の「Light the Fire Within」と3度携わっている。

2000年代~ クラシック音楽への傾倒

90年代後半以降はフォスター自身が〈イタリアの時代〉と呼ぶようにルチアーノ・パヴァロッティやアンドレア・ボチェッリと巡り会い、セリーヌとボチェッリのスーパー・デュエットを企画したりと、よりクラシカルなものに接近していった。2001年当時17歳のジョシュグローバンを発掘、2003年(ネクスト・シナトラ)と言われたマイケル・ブブレをデビューさせ、2007年と2010年にグラミーへ導いた。2004年レニー・オルステッド、2010年フィリピンの歌姫シャリースを143レコードからでデビューさせた。その他シールやエリック・ベネイ、メアリー・J・ブライジ、ロッド・スチュワートらとも関わりつつ、スウェーデンのダーティ・ループス、クラシックのジャッキー・エヴァンコなどの新人を発掘したり精力的に活動した。

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