前原一誠 佐藤隆太
松下村塾の塾生で、維新十傑の一人に数えられる志士。松陰に似て、まっすぐな性格の人物として知られ、のちに越後府判事(現在の新潟県知事)に就任した際、農民のために独断で年貢を半減したエピソードなども残っている。また、時代の変化に取り残され困窮した士族を見捨てることができず、新政府に不満を持つ者を集めて明治9年(1876年)「萩の乱」を起こす。しかし、即座に鎮圧され、人生の幕を閉じた。
寺島忠三郎 鈴木伸之
松下村塾の塾生。兵学をよくし、詩文に長けていたという。松陰の再入獄が決した際は救護、減刑に向けて尽力した。その後も、尊王攘夷運動に奔走するが、禁門の変で久坂玄瑞とともに自刃。
品川弥二郎 音尾琢真
松下村塾の塾生。薩長同盟の成立に尽力するなど、活躍。明治維新後はヨーロッパ諸国への留学を経て、駐独公使、内務大臣などを歴任した。学校や、信用組合、産業組合の設立にも貢献している。
赤禰武人 阿部亮平
松下村塾の塾生。高杉晋作らが企てた藩内クーデターに反対して失脚。その後も幕府との全面戦争を避けるよう、かつての同志を説得しようとするが、裏切り者との嫌疑をかけられ、刑場の露と消える。
松浦松洞 内野謙太
松下村塾の塾生。幼少から絵に秀で、安政の大獄で松陰先生が江戸に送られる際、吉田松陰の肖像画をかき残した。その後、松下村塾一派と対立していた長井雅楽の暗殺を図るも失敗し、自刃。
小田村志乃 かたせ梨乃
のちに文の夫となる小田村伊之助(楫取素彦)の養母。藩医・松島瑞蟠が亡くなった後、遺児の伊之助を引き取り、養子に迎えた。夫亡き後、19歳で家督を継いだ伊之助に、代々、儒学者の家系である小田村家の跡取りとして期待をかけるが、伊之助は松陰と出会い、広い世界に飛び出していこうとする。そんな息子に、つい皮肉や苦言ばかり口にしてしまう。
松島剛蔵 津田寛治
小田村伊之助の兄。勝海舟らとともに長崎で航海術を学び、帰藩後に洋学所・軍艦教授所を創立。西洋式軍艦製造に携わって初代長州藩海軍総督となるなど、要職を務める。しかし、「俗論派」が台頭すると捕えられ、斬首された。
入江すみ 宮崎香蓮
松下村塾の塾生・入江九一、野村靖の妹。兄の仲間たちと交流する中で、塾生の伊藤博文と出会い、結婚。夫・伊藤は、兄たちとともに明治維新を推し進めるリーダーとして活躍するが、下関の芸妓・梅子との間に子どもができると、すみは離婚を迫られてしまう。のちに、長州藩士の男性と再婚するが、その際、仲人を務めたのが、伊藤博文・梅子夫妻だった。
吉田ふさ 小島藤子
松下村塾の塾生・入江九一、野村靖の妹。兄の仲間たちと交流する中で、塾生の伊藤博文と出会い、結婚。夫・伊藤は、兄たちとともに明治維新を推し進めるリーダーとして活躍するが、下関の芸妓・梅子との間に子どもができると、すみは離婚を迫られてしまう。のちに、長州藩士の男性と再婚するが、その際、仲人を務めたのが、伊藤博文・梅子夫妻だった。
高須久子 井川遥
松陰と野山獄で出会う謎の女囚。もともとは名門・高須家に生まれ育ち、婿を迎え子宝にも恵まれたが、夫亡き後、歌舞音曲にひたり、慎みを欠いた振る舞いが目に余るとして、親戚たちによって獄に入れられてしまう。男ばかりの獄で誰にも心を開かない久子だったが、松陰と出会い、交流するようになる。そのとき二人の間で交わされた和歌は、今も多くの人の心をとらえている。
【井川遥】美人ママたちの卒業式コーデがすごいと話題に!【新山千春】 - RENOTE [リノート]
renote.net
美人ママで有名な芸能人たちの卒業式コーディネートをまとめました。井川遥や細川直美などが子供の卒業式に出席したことをSNSに投稿。ティーンエイジャーの子供がいるようには見えない若さと美しさを見せる彼女たちの姿に、「姉と言っても通用する」などと驚きの声が上がりました。
金子重輔 泉澤祐希
吉田松陰の弟子。安政元年(1854年)に黒船が来航すると、松陰とともに国禁を犯して下田に停泊中だった黒船に乗り込み渡米を試みるも、失敗して自首。その後、萩に送還され、獄中で病没した。
金子ツル 麻生祐未
吉田松陰の弟子・金子重輔の母。夫と染物屋を切り盛りし、跡取り息子の重輔を大事に育てていたが、重輔は松陰に出会い、学問にのめり込んでいく。嘉永7年(1854年)、黒船が来航すると、重輔は松陰とともに渡米を計画するが、失敗して捕らえられてしまう。ツルは、獄中で衰弱する息子に一目会おうと通い続ける中で、文に出会う。
宮部鼎蔵 ビビる大木
肥後藩の医者の家に生まれるが、家業を継がずに、叔父の宮部丈左衛門から山鹿流兵法を学ぶ。藩の兵学師範に任じられた宮部は、嘉永三年(1850年)、九州遊歴で熊本を訪れた吉田松陰と出会う。
文久二年(1862年)、熊本に戻っていた宮部は、京都に上り肥後藩の興起を促すことに努めたが、八・一八の政変により、三条実美ら七卿らとともに長州に落ちることに。
再起を期して再び京都に潜入したが、元治元年(1864年)6月5日未明、新選組に捕縛された同志を救出するため、京都三条小橋池田屋で、長州、土佐、肥後の尊王攘夷派とひそかに会合。そこを新選組に襲撃される。これにより宮部鼎蔵は自刃し、四十五歳の生涯を閉じた。