Billy Joel(ビリー・ジョエル)とは【徹底解説まとめ】

Billy Joel(ビリー・ジョエル)とはピアノマンの異名を持つアメリカを代表するシンガーソングライターである。1949年5月9日生まれ、ニューヨーク、ブロンクス出身。1971年、アルバム『コールド・スプリング・ハーバー~ピアノの詩人』でソロデビュー。以降、12枚のオリジナルアルバムと1枚のクラッシックアルバムを発表している。「ピアノ・マン」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」など、代表曲多数。1990年代以降はライブを中心とした活動を行なっている。

We Didn't Start The Fire

邦題「ハートにファイア」は、アルバム『ストーム・フロント』からの第1弾シングルとして、1989年にリリースされた。ビリーが生まれた1949年から、この曲が発表された1989年に至るまでの、世界の歴史に関する様々な事象、人物をただ羅列しただけの歌詞で、様々な学校(ウィスコンシン州のメナシャにあるバンタ小学校等)で歴史の教材として使用され、1990年にはビリー本人による歌詞解説を追加収録したカセット・テープが教育雑誌と共に学校に配布された。「We Didn't Start the Fire」の意味は、「我々が始めた(火をつけた)のではない」。ビリーが20代の若者と話していた時、若者は世界の様々な問題を深刻に考えており、それをきっかけに歌詞が作られた。
Billboard Hot 100で1位を獲得。ビリーのシングルとしては3作目の全米チャート1位獲得を果たした。

The River Of Dreams

1993年のアルバム『River of Dreams』のタイトルトラックで、アルバムからのファーストシングル。ビリーの90年代最高、最後のヒットで、アメリカとイギリスのチャートで3位を獲得、オーストラリア、ニュージーランドでは1位に輝く。米国のアダルトコンテンポラリーチャートでもトップに立った。1994年にグラミー賞年間最優秀賞にノミネートされたが、ホイットニー・ヒューストンの「I will always love you 」に敗れた。

Billy Joel(ビリー・ジョエル)の名言・発言

「君の好きなことを見つけ、それをするんだよ。 好きなことをしないなんて人生の浪費だよ」

これはビリーの有名な言葉だが、夢を諦めずに好きな事をして食べていくということは、現代の日本人にとってはとても難しいことである。更にビリーはこう付け加える。「人間ができる唯一の独創的な行為こそ、間違えることなんだ。」「へまをして混乱しちゃったとしても気にすることはないさ。 そんな時は自分に休息をあげればいい。」そして最後にビリーはこう言う。「音楽はそれ自体が癒しだと思う。 音楽は人間性の爆発的な表現だ。」
更にビリーは日本のテレビに出演したとき、世界的なミュージシャンを目指して頑張っている日本の若者達にこんなメッセージを送っている。「もし君が安いバーでピアノを演奏していたとして、お客さんが5人しかいなかったとしよう。君のやるべきは、そのうちのたった1人でもいいから君のファンにすることだ。もしそれができたなら、君の前に5万人いたら、1万人のファンがいることと同じだ。」

「私は女性に育てられた。子供の頃からずっと女性に囲まれて生きてきた。 幼い頃から父親はいなかった。 それに何度も結婚した。娘も3人いる。 子供の頃から女性ホルモンふんだんな人生だよ。」

幼い頃にビリーの両親は離婚し父親はアメリカを去った。ビリーは母親と妹、4人の妻に3人の娘、まさに女性に囲まれて生きてきた。ビリーはそのことについてとても恵まれていると語っている。
「父親に脅されてミュージシャンになる夢を諦めた同年代の男達を何人も知っている。それに比べたらとても穏やかな環境で育ったと言える。」
女性特有の愛情に溢れた温かい気質は心地よかったし尊敬もしている。3人の娘もいずれ母親になるであろうが、ビリーは自分の母のような母親になって欲しいと語っている。

「ドナルド・トランプは私と全く違う星から来た人間にしか見えないよ。」

「彼がクイーンズ生まれなのは知っている。でも彼は裕福な家に育った。父親が金持ちで息子に沢山の金をやった。実際のところ、違う境遇で育った人々に対する彼の共感度がどの位あるのかはわからない。」
ビリーは公に政治に関与する事を拒む。しかし実際には民主党の候補者に寄付をした事もあるし、2008年にはバラク・オバマの大統領選の資金集めの為にブルース・スプリングスティーンとコンサートを開いた事もある。2016年の選挙ではヒラリー・クリントンに投票するとニューヨークデイリーニュースに語った事もある。しかし彼は、自分を売り込む為にセレブを利用する政治家を不快に思っている人々が沢山いることを知っている。それによって離れていくファンも多いということも。
「ブルース・スプリングスティーンのように、実際に候補者支援を表明する人達には敬服するよ。スプリングスティーンは市民だしその権利を持っている。しかし、私の経験からいうと、ライブ会場にコンサートを観に来た観客は、そこでアーティストが政治的な演説をとうとうと語るのを見ると不快に感じるんだよ。」
さらにビリーはドナルド・トランプについて言及する。
「彼とは歳が近くて、生まれもニューヨークのアウターボーロー地区だが、私自身彼に好感を持っていないので、理解出来る部分は殆どない。ただ、彼の登場は、私達を無気力や怠慢から目覚めさせる為には必要な衝撃だったと思う。」

「今でも音楽を作っている。ただ、作った音楽を録音しないだけ。」

彼はローリングストーン誌のインタビューで語っている。
「それは歌ものの曲ではないし、全く違ったスタイルの音楽だよ。」
今作っている音楽は純粋に自己啓発の為のものであって、レコーディングする必要性も感じない。
「かつてはロックンロールな人生を生きてきたけど今はそう言う音楽を作っていないんだ。」「ただ、曲は沢山書いている。それらの曲を録音するなり、公開するなりしない限りは今後もそれらの曲を耳にする人はいない。」
自分の曲をチャートインさせたり、アルバムを沢山売ったりすることではなく、ビリーにとって最も大切な事は音楽を作ると言うクリエイティヴなプロセスであり、それによって今でも常に何かを学んでいる。
「人は永遠に学び続けるものだ。曲作りのプロセスの醍醐味がこの『学び』だよ。何かを作ろうとするときは必ず新しいことを学ぶからね。」
ただ、今後絶対に新曲を収録したアルバムを出さないとは言わない。
「私は『絶対に』ということは絶対に言わない。もしかしたら歌ものの曲になるアイデアが浮かぶかもしれないし、映画のサウンドトラックを作るかも知れない。シンフォニーを書き上げるかもしれない。」
ビリーは先のことについてははわからないと語っている。

Billy Joel(ビリー・ジョエル)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話

世界初のCDは『ニューヨーク52番街』だった

世界で初めて商業用CDが発売されたのは1982年。その記念すべき第一号作品がビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だった。

FM雑誌による「好きなアーティスト」部門、3年連続1位を獲得

1981年創刊のFM雑誌「FMステーション」誌の年に一度の読者投稿コーナー「好きなアーティスト、嫌いなアーティスト」で、ビリーは1982年から3年連続1位に輝いている。1982年の2位はビートルズ、3位はホール&オーツが獲得。1983年は引き続き2位がビートルズ、3位はデイヴィッド・ボウイ。1984年はビートルズが3位に転落、代わりにデュラン・デュランが2位に入った。この読者投稿が示す通り、当時の日本でのビリーの人気は飛び抜けていた。因みに「嫌いなアーティスト」では田原俊彦が82年、83年と二連覇を達成し、84年の1位はプリンスだった。83年は田原俊彦と近藤真彦が「嫌いなアーティスト」ワンツーフィニッシュを決めている。

ビリー来日秘伝1978年&1995年(初来日と阪神淡路大震災)

1978年、ビリーは日本ではまだ無名に近い存在だった。ある日、「オーストラリアに行くので、ホテル代と飛行機代を持ってくれれば、ギャラはなくても日本に寄って公演をしたい。」とウドー音楽事務所にテレックスが入った。しかしビリー側が希望する日程では、空いている会場がない。唯一のアイデアは、スコーピオンズの公演のために押さえている中野サンプラザのみ。結果、昼公演という形でビリーの初来日公演が実現。チケットは60分で完売した。
時は流れ1995年、既に東京公演前半と福岡公演を終えて大阪「ホテルプラザ」に滞在していたビリー・ジョエル一行は、阪神・淡路大震災に巻き込まれた。当日に予定されていた大阪公演初日はもちろん中止。ツアー全体を中止して帰国することも真剣に検討された。しかしビリーはツアーの続行を決意し、1月17日の公演を19日に振り替えて予定の日本公演を完遂させた。そしてコンサートの収益金の一部は義援金として寄付された。
ビリーは後にニューヨークタイムズのインタビューでこう答えている。「私はこれまで多くの死に直面する体験をしてきた。その度に死に対する信じられないような運命論を感じた。しかしあの時、これが最後の人生の数秒間だという信じ難い考えが頭をよぎり、それを受け入れた。」

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