Billy Joel(ビリー・ジョエル)とは【徹底解説まとめ】

Billy Joel(ビリー・ジョエル)とはピアノマンの異名を持つアメリカを代表するシンガーソングライターである。1949年5月9日生まれ、ニューヨーク、ブロンクス出身。1971年、アルバム『コールド・スプリング・ハーバー~ピアノの詩人』でソロデビュー。以降、12枚のオリジナルアルバムと1枚のクラッシックアルバムを発表している。「ピアノ・マン」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」など、代表曲多数。1990年代以降はライブを中心とした活動を行なっている。

ウィリアム・マーティン・ジョエルは、1949年5月9日にニューヨーク市ブロンクスで生まれる。父ハワード・ジョエル(1923-2011)、はドイツのニュルンベルク生まれのユダヤ人で、ナチスから逃げる為にスイスに移住、その後一家はキューバ経由でアメリカに移住する。彼はエンジニアだったが非常に音楽好きであった。母ロザリンド(1922-2014)はイギリスから移住したユダヤ人の両親のもとニューヨーク市ブルックリンで生まれた。一家はユダヤ人だがユダヤ教には関心が無く、ビリー本人も後にカトリックの教会に通うようになる。
ビリーが1歳のとき、家族はオイスターベイの町にあるロングアイランド郊外ヒックスビルに引っ越す。妹のジュディが生まれる。ビリーは母親の勧めで4歳でピアノを始める。
10代の頃、彼はいじめから自分を守る為にボクシングを始め、アマチュアボクサーとして22試合に勝利したが、24試合目で鼻を骨折しボクシングをやめる。
1957年に両親は離婚、父親はアメリカを去りオーストリアに移住してしまう。父親の不在により女性に囲まれた彼は後に、「Why Judy Why」「Rosalinda's Eyes」「She's Always A Woman」などで家族や妻を歌い、「Angry Young Man」(76年の『Turnstiles』収録)ではみずからの世代の声を強く代弁していくことになる。
ビリーは1967年までヒックスビル高校に通っていたが、英語の単位が足りなくなり、サマースクールに通う代わりに音楽の道に進む決意をする。「コロンビア大学に行かない代わりに、コロンビアレコードに行くので、高校の卒業証書は必要ない。」と言ってハイスクールを中退する。実際にビリーはその後コロンビアレコードと契約した。そして中退から25年後の1992年にはビリーは教育委員会にエッセイを提出し、ヒックスビル高校の卒業式で、卒業証書を授与された。
ミュージシャンとして順調にキャリアを築きはじめたように思えたビリーだが、17歳の時に強盗の疑いをかけられて留置場で一晩を過ごしてパニックに陥ったり、69年頃には長く付き合った彼女と別れた悲しみから彼は自殺のメモを残し、家具用の洗剤を飲んで人生を終わらせようとした。「家具用光沢材を飲んだ。漂白剤よりおいしいね。」と語っている。アッティラのバンドメイトでドラマーのジョン・スモールは彼をメドウブルック病院に連れて行った。そこで3週間過ごし、自殺者用の時計治療を受け、うつ病の回復に努めた。この時の心情は1971年のビリーのデビューアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』の一曲、「トゥモロー・イズ・トゥデイ」に歌われている。1970年には、アッティラでの相方ジョン・スモールの妻「エリザベス」と浮気をはじめ、アッティラは解散する。後にビリーはエリザベスと結婚した。1982年4月15日にビリーはロングアイランドでオートバイ事故に巻き込まれ、左手を負傷、アルバム『ナイロンカーテン』の生産は一時的に遅れた。それでもビリーはすぐに怪我から回復し、アルバムは数ヶ月遅れでリリースされる。1982年7月20日には、マネージャーとしてもビリーを支え続けてきた妻のエリザベス・ウェーバーと離婚。ビリーは財産の半分を慰謝料として支払った。数々の災難が続いた彼だが、1982年に行われたツアー後のオフで滞在したサン・バルテルミ島で出会ったスーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと交際を始める。彼女は1983年のシングル「アップタウン・ガール」のプロモーションビデオにも出演。同曲はこれまで彼にとって主要なマーケットではなかったイギリスで大ヒットし、初の全英チャート首位に輝いた。このビデオでの撮影を経てビリーとクリスティは1985年3月23日に結婚し同年12月には娘のアレクサ・レイ・ジョエルが誕生した。アレクサのミドルネーム"レイ"は、ビリーの憧れの存在だったレイ・チャールズにあやかってつけられた。1986年発表のシングル「ベイビー・グランド」では、そのレイ・チャールズとのデュエットが実現し大きな話題を呼んだ。
1994年ビリーは2番目の妻クリスティ・ブリンクリーとの別居を発表し、1994年8月に離婚が確定したが二人は友達のままだった。
1999年12月31日、ビリーはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで演奏し、ビリーはおそらくこれが最後のコンサートになると言及した。このコンサートは4時間近く演奏され、後に『2000年・ミレニアムコンサート』としてリリースされた。ポピュラー音楽からの引退を宣言した一方で、彼はクラシック音楽への路線変更を試み、2001年に初のクラシック作品『ファンタジーズ・アンド・デリューションズ』をリリースした。しかしその後は、アルコール依存症や鬱病が原因で、コネチカット州ニューカナンの薬物乱用と精神科センターであるシルバーヒル病院に入院したり、3度の交通事故を起こしたりと、私生活で数多くのアクシデントに見舞われている。
2004年10月2日、ビリーは3番目の妻である有名な料理研究家のケイティ・リーと結婚した。当時リーは23歳、ビリーは55歳だった。当時18歳だったビリーの娘アレクサ・レイと2番目の妻クリスティ・ブリンクリーは二人を祝福した。だが、結婚生活わずか4カ月目にしてアルコール依存症が悪化し、2005年3月、ビリーはベティ・フォード・センターと言うリハビリ施設に入り、そこでアルコール乱用の治療のために30日間を過ごした。ポップスづくりは休止状態ではあったが、入院中も献身的に支えてくれたケイティへの愛情を示したくて、2006年に2度目の結婚記念日のために「All My Life / オール・マイ・ライフ」を書き上げた。2009年6月17日、彼らは別居を発表し、その後離婚した。
2015年7月4日、ビリーは元モルガン・スタンレーの幹部であるアレクシス・ロデリックと4度目の結婚をした。ニューヨーク州知事アンドリュー ・クオモが式を司った。歳の差33歳、彼女が生まれた1982年は奇しくもビリーが最初の妻エリザベス・ウェーバーと離婚した同じ年であった。2015年8月12日、ビリーにとって二人目の娘デラ・ローズ・ジョエルが生まれた。.2017年10月22日,次女レミー・アン・ジョエルが生まれた。4人目の妻アレクシス・ロデリックと穏やかに暮らすビリーは、達観したかのように元妻たちについて語る。
「今もお互いにいい友達だよ。元妻たちがそろって素晴らしいのは、みんな僕をいまだに嫌いになっていないことだ。クリスティもそうだし、エリザベスともたまに会うよ。彼女たちにとってもいい友人でいられて嬉しいね。」

Billy Joel(ビリー・ジョエル)のディスコグラフィー

スタジオアルバム

Cold Spring Harbor

‎01. She's Got A Way
02. You Can Make Me Free
03. Everybody Loves You Now
04. Why Judy Why
05. Falling Of The Rain
06. Turn Around
07. You Look So Good To Me
08. Tomorrow Is Today
09. Nocturne
10. Got To Begin Again

1971年11月、ビリー22歳時にリリースされたデビュー・アルバム。アルバムからは「She's Got A Way」「Tomorrow Is Today」「Why Judy Why」「Nocturne 」の4曲がシングルとなる。レーベル会社「ファミリープロダクション」から制作されたこのアルバムは、プロデューサー、アーティー・リップによりピッチが半トーン高くレコーディングされ、技術的にも商業的にも失敗し、ビリーは大きく失望する。その後1981年のライブ・アルバム『Songs In The Attic‎‎』で「‎She's Got A Way」「Everybody Loves You Now」のライブヴァージョンが録音され、「‎She's Got A Way」は10年の歳月を経てようやく日の目を見、ビルボードヒットチャート23位を記録した。1983年にはビリーが関与しない形でプロデューサー、アーティー・リップによるリミックス盤がリリースされ、結果このアルバムは2つの異なるバージョンが存在‎する。
因みにコールドスプリングハーバーとは、ビリーの故郷の近くのニューヨーク州ロングアイランドサウンドにある町の名前で。アルバムジャケットはコールドスプリングハーバーのハーバーロードで撮影された。

Piano Man

01. Travellin' Prayer
02. Piano Man
03. Ain't No Crime
04. You're My Home
05. The Ballad Of Billy The Kid
06. Worse Comes To Worst
07. Stop In Nevada
08. If I Only Had The Words (To Tell You)
09. Somewhere Along The Line
10. Captain Jack

ビリー・ジョエルの2枚目のスタジオアルバムで、1973年11月9日にコロンビア・レコードからリリース。このアルバムはビリーの元レーベル「ファミリー・プロダクションズ」と法的に争っている中でリリースされ、最終的には彼の最初のヒットアルバムとなった。
アルバムからは「Piano Man」「Worse Comes To Worst 」「Travellin' Prayer 」「The Ballad Of Billy The Kid」の4曲がシングルカットされた。ロサンゼルスのラウンジでピアノの弾き語りなどをしていたビリーの経験を、架空のストーリーで語るタイトルトラックは、ビルボード・ホット100で25位、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで4位に輝き、「Travellin' Prayer 」と「Worse Comes To Worst」は、それぞれ77位と80位を獲得、アルバムも27位に輝く。このアルバムは1975年にアメリカ・レコード協会(RIAA)によってゴールドディスクに認定されたが、ビリーのロイヤリティはわずか8000ドルだった。

Streetlife Serenade

01. Streetlife Serenader
02. Los Angelenos
03. The Great Suburban Showdown
04. Root Beer Rag
05. Roberta
06. The Entertainer
07. Last Of The Big Time Spenders
08. Weekend Song
09. Souvenir
10. The Mexican Connection

『Streetlife Serenade』は1974年10月11日にリリースされた、ビリーの3枚目のスタジオアルバム。「自分は歌手というよりもまずピアノ弾きであり、ソングライターである」とビリーは自身が語るように「Root Beer Rag」「The Mexican Connection」のピアノのインストゥルメンタル・ナンバーを2曲収録しているのも、このアルバムの特徴といえる。
アルバムからのシングル「The Entertainer」は全米34位のヒット、アルバムも最高35位を記録、最終的には100万枚以上を売り上げたが、前作よりチャート的にも売り上げ的にもふるわなかったため、ビリー自身も精神的に落ち込んでしまう。しかしこのアルバムからのナンバー「Root Beer Rag」と「Souvenir」は1970年代のビリーのライブでは、しばしば、最後のアンコールとして演奏された。「Streetlife Serenader」と「Los Angelenos」の2曲は1981年のビリーのライブアルバム『Songs In The Attic』に収録された。

Turnstiles(ニューヨーク物語)

01. Say Goodbye To Hollywood
02. Summer, Highland Falls
03. All You Wanna Do Is Dance
04. New York State Of Mind
05. James
06. Prelude / Angry Young Man
07. I've Loved These Days
08. Miami 2017 (Seen The Lights Go Out On Broadway)

1976年発表の通算4作目。邦題『ニューヨーク物語』。
ビリーは本作の制作に当たり、ロサンゼルスから故郷ニューヨークに戻った。その心境が「Say Goodbye To Hollywood /さよならハリウッド」や「New York State Of Mind /ニューヨークの想い」に反映されている。
テクニカルなピアノの速弾きから始まる「Prelude / Angry Young Man(プレリュード / 怒れる若者)」は、ビリーのライブでの定番で、1987年の旧ソ連公演でもオープニングとして演奏された。
アルバムとしては前2作と比較してチャートでもセールス面でも大きく下回ったが、その後の評価では「『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の成功への布石となったビリーの最高傑作の一つ」と、評価が見直されている。1981年のアルバム『Songs In The Attic』では「さよならハリウッド」のライブヴァージョンがシングルカットされ全米17位を記録した。
アルバムタイトルの『Turnstiles』とは、NYの地下鉄の改札口の自動ゲートの事を言う。アルバムジャケットの人々は全てこのアルバムの収録曲の登場人物の格好をしている。

The Stranger

01. Movin' Out (Anthony's Song)
02. The Stranger
03. Just The Way You Are
04. Scenes From An Italian Restaurant
05. Vienna
06. Only The Good Die Young
07. She's Always A Woman
08. Get It Right The First Time
09. Everybody Has A Dream
10. Untitled

ポール・サイモンの1975年作グラミー賞受賞アルバム『Still Crazy After all These years / 時の流れに』などを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに起用して制作されたこのアルバムは全米アルバムチャートに於いてビリーにとって最高位の2位となった。この成功によりプロデューサーのフィル・ラモーンとの協力関係はこの後10年続く。1978年度のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞し、ビリーはパリでのツアー中、ホテルの部屋でこのニュースを知った。
ビリーの最初の妻、エリザベス・ウェーバーのために書かれた「Just The Way You Are / 素顔のままで」は全米チャート3位のヒットとなり、アコースティック・バラードの「She's Always A Woman 」、ロック調のナンバー「Only The Good Die Young」、後にブロードウェイミュージカルの題材となった「Movin' Out 」がシングルカットされ、全てがビルボードチャート25位以内にランクインされた。アルバムは1000万枚を売り上げ、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』を抜き、当時のコロンビアレコードで最も売れたアルバムとなった。2003年にローリング・ストーン誌の「最も偉大な500のアルバム」に於いて、67位にランクインしている。また、アルバム4曲目「Scenes From An Italian Restaurant」は、ビリーのお気に入りであり、ライブでの定番となっている。

52nd Street(ニューヨーク52番街)

01. Big Shot
02. Honesty
03. My Life
04. Zanzibar
05. Stiletto
06. Rosalinda's Eyes
07. Half A Mile Away
07. Until The Night
08. 52nd Street

邦題『ニューヨーク52番街』。
前作『ストレンジャー』のヒットと言う重圧の中、僅か一年で前作と双璧をなすアルバムを発表する。ビリーにとって初の全米アルバム・チャート1位を獲得し、さらに1979年の年間LPチャート第1位にも輝く。アルバム・タイトルは、マンハッタン52丁目のA&Rスタジオでレコーディングしたことに由来している。シングル「My Life」はシカゴのピーター・セテラとドニー・デイカスがゲスト参加。全米3位、「Big Shot」は14位、日本で人気の高い「Honesty」は24位に輝く。グラミー賞では最優秀アルバム賞と最優秀男性歌手賞を獲得。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』に於いて354位にランクインした。このアルバムを境に、ビリーはよりロックンロール寄り、ポップ路線寄りにシフトしていく。

Glass Houses

01. You May Be Right
02. Sometimes A Fantasy
03. Don't Ask Me Why
04. It's Still Rock And Roll To Me
05. All For Leyna
06. I Don't Want To Be Alone
07. Sleeping With The Television On
08. C'Etait Toi (You Were The One)
09. Close To The Borderline
10. Through The Long Night

1980年発表の通算7作目。全米アルバム・チャートで6週連続1位。ビリーにとって2作連続の1位獲得アルバムとなった。「Just the way you are 」「Honesty 」などのピアノ主導のバラードの成功により、一部の批評家はビリーに「ソフトロッカー」というレッテルを貼った。ビリーはこれらのレッテルは不当で侮辱的だと思い、グラスハウスでは、批評家が彼にを与えた評価を凌駕するようなアルバムを録音しようとした。 アルバムの表紙ではビリーは革のジャケットを着て、ガラスの家に石を投げつけようとしている。因みにこの家は、ビリーがかつて所有していた邸宅といわれている。
イギリスでは「All For Leyna / レイナ 」が第1弾シングルとなり全英40位を記録、アメリカでも、当初は「レイナ」が第1弾シングルとなる予定だったが「You May Be Right / ガラスのニューヨーク」に変更され、全米7位を記録。第2弾シングル「It's Still Rock And Roll To Me / ロックンロールが最高さ」はビリーにとって初の全米シングル・チャート1位を獲得した。この曲はビルボード・ホット100のトップ10で11週間を過ごし、1980年の年間チャート7位を記録した。その他「Don't Ask Me Why 」(全米19位)、「Sometimes A Fantasy / 真夜中のラブコール」(全米36位)といったシングル・ヒットも生まれた。グラスハウスはグラミー賞最優秀ロックボーカルパフォーマンス、男性賞を受賞した。全体的にロック指向に傾き、それまでのピアノ主体のポップは影を潜めた。

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