Yes(イエス)の徹底解説まとめ

Yes(イエス)とは、1968年ロンドンで結成されたプログレッシブ・ロックバンド。ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、EL&Pと共にプログレ四天王(ジェネシスを入れると五大プログレバンド)と呼ばれ、分裂とメンバーチェンジを繰り返し活動を続けているロック史上に大きな影響を与えたバンドである。2017年『ロックの殿堂』入りをした。

『ユニオン』(Union)(1991年)のセッション・ミュージシャン

・ジョナサン・エリアス (Jonathan Elias)(シンセサイザー、キーボード、バックボーカル)
・トニー・レヴィン (Tony Levin)(ベースギター、スティック)
・ジミー・ホーン(Jimmy Haun)(ギター)
・アーラン・シュバルツバーグ (Allan Schwartzberg)(パーカッション)
・ゲイリー・バーロウ (Gary Barlough)(シンセサイザー)
・ジェリー・ベネット (Jerry Bennett)(シンセサイザー、パーカッション)
・ジム・クライトン(Jim Crichton)(シンセサイザー、キーボード)
・ゲイリー・ファルコーネ(Gary Falcone)(バックボーカル)
・デボラ・アンダーソン(Deborah Anderson)(バックボーカル)
・イアン・ロイド(Ian Lloyd)(バックボーカル)
・トミー・ファンダーバーク(Tommy Funderburk)(バックボーカル)
・シャーマン・フット(Sherman Foote)(シンセサイザー)
・ブライアン・フォーケーカー (Brian Foraker) (シンセサイザー)
・クリス・フォスディック(Chris Fosdick)(シンセサイザー)
・ロリー・カプラン(Rory Kaplan)(シンセサイザー)
・アレックス・ラサレンコ(Alex Lasarenko)(シンセサイザー、キーボード)
・マイケル・シャーウッド (Michael Sherwood)(バックボーカル)
・ダニー・ヴォーン(Danny Vaughn)(バックボーカル)

スティーブ・ポーカロ

Steve Porcaro
担当:シンセサイザー、キーボード
参加アルバム:『ユニオン』(Union)(1991年)、『オープン・ユア・アイズ』(Open Your Eyes)(1997年)

ランディ・レイン・レーシュ

Randy Raine-Reusch
担当:世界中の楽器
参加アルバム: 『ラダー』(The Ladder) (1999年)

リース・フルバー

Rhys Fulber
担当:ダンス・ループ
参加アルバム:『ラダー』(The Ladder) (1999年)

ルイス・ジャルディム

Luís Jardim
担当:パーカッション
参加アルバム:『フライ・フロム・ヒア』(Fly from Here)(2011年)

ジェラード・ジョンソン

Gerard Johnson
担当:ピアノ
参加アルバム:『フライ・フロム・ヒア』(Fly from Here) (2011年)

ライブ・ミュージシャン

・イアン・ウォレス(Ian Wallace)(Ds) 1968年 (one show)
・トム・ブリンスリン(Tom Brislin)(Key) 2001年『シンフォニックライブ』(Symphonic Live)
・ジェイ・シュレン(Jay Schellen)(Ds) 2016年-2017年(アラン・ホワイトの代替)
・ディラン・ハウ(Dylan Howe)(Ds) 2017年のツアー

ジャケット・デザイン

ロジャー・ディーン(Roger Dean)
イエス4枚目のアルバム『こわれもの』(Fragile)から『究極』(Going for the One)までジャケット・デザイン担当。
バンド・ネームのロゴもデザインして視覚的な面から貢献している。

Yesのバンドヒストリー

History Ⅰ

1968年、ウォリアーズ(Warriors)を解散したジョン・アンダーソン(Vo)(John Roy Anderson, 1944年10月25日 - )は仕事を捜していた。ガン(The Gun)というバンドのレコーディングに誘われたがバンド内で諸問題を抱えていたため辞退した。
丁度その頃メイベル・グリアーズ・トイショップ(Mabel Greer's Toyshop)というバンドに籍を置いていたが行き詰まっていたクリス・スクワイア(B)(Christopher Russel Edward Squire 1948年3月4日 - 2015年6月27日)と偶然あるクラブで出会いお互いの境遇を話し合っているうちに意気投合し新しいバンドを結成することとなった。
同じメイベル・グリアーズ・トイショップのクライヴ・ベイリー(G)(Clive Bailey)とボブ・ハガー(Ds)(Bob Hagger)の4人でセッションを試みたがハガーは前途多難を理由にバンドを去ってしまった。そこでメロディ・メイカー紙にドラマー募集の広告を出したところ、やって来たのがビル・ブラッフォード(Ds)(William Scott Bruford、1949年5月17日 - )だった。
ブラッフォードは当時サヴォイ・ブラウン(Savoy Brown)でドラムを叩いていたが正式な契約でなかったため焦っていたがメロディ・メイカー紙のドラマー募集の広告に運命的なものを感じ応募した。リハーサルを開始する前にいきなりサウス・ロンドン・カレッジでの仕事が入ってきたがブラッフォードの卓越したドラミングに他の3人はリハーサル無しの不安は吹き飛びブラッフォードを正式にメンバーとして迎え入れた。
彼ら4人は新たにリハーサルを開始したが緻密なサウンドを構築する上でキーボードの必要性を感じていた。そこでスクワイアが連れてきたのがトニー・ケイ(Key)(Tony Kaye:Anthony John Selvidge、1946年1月11日 - )だった。5人でリハーサルを開始したもののベイリーが音楽的な相違からバンドを脱退する事になった。そして再びスクワイアが連れてきたのがスクワイアと共にザ・シン (The Syn)、メイベル・グリアーズ・トイショップで活躍していたギタリスト、ピーター・バンクス(G)(Peter Banks 1947年7月15日 - 2013年3月7日)だった。
こうしてバンドは強力なライン・アップとなりバンド名をイエスとし(ピーター・バンクスが名付けたとされている)デビューにそなえ特訓に入った。厳しいリハーサルを重ね、ついにマーキー・クラブへ出演するチャンスを掴んだ。そして徐々に知名度を上げていき、ついにはオープニング・アクトを務めるまでに成長した。(当時、マーキー・クラブでアンダーソンがアルバイトをしていたのが切っ掛けだった)
1969年、アメリカ・アトランティック・レコードとイギリスの最初のバンドとして契約した。デビューシングルはA面が『スウィートネス』 - "Sweetness" (Anderson - Squire - Bailey)、B面が『サムシング・カミング』-"Something s Coming"(Music by Leonard Bernstein, lyrics by Stephen Sondheim)ウエスト・サイドストーリーからの曲。
デビューアルバムはカバー曲を含めた全8曲、シンプルに「イエス」と題されていた。イギリスではシングル、アルバムの順にリリースされたがアメリカではアルバム、シングルの順にリリースされた。シングルはA面は『スウィートネス』 であったがB面はビートルズ(Beatles)の『エヴリー・リトル・シング』(Every Little Thing)が収められていた。
ジョン・アンダーソンはデビュー・アルバムについて後のインタビューで「クリーム(Cream)のへヴュー・サウンドにフィフス・ディメンション(The Fifth Dimension)のコーラスを加えたサウンドが理想だった。しかしプロデュースが悪かった。これは顔見世のアルバムだ。だがイエスの将来を暗示していたという気はする。」と語った。

History Ⅱ

1970年、ピーター・バンクスが志向する音楽の違いからバンドを去ってしまう。そして三度スクワイアが連れてきたのがスティーヴ・ハウ(Stephen James Howe, 1947年4月8日 - )だった。
(バンクスの後任として一番最初に名が挙がったのはロバート・フリップ(Robert Fripp)だったと言われている。)
まだバンクスがいた頃の作品となってしまったがセカンド・アルバム『時間と言葉』(Time and a Word)リリース。
1971年、新生イエスの第一弾、通算3枚目のアルバム『イエス・サード・アルバム』(The Yes Album)リリース。
このアルバムをレコーディング中、トニー・ケイはバンドからの脱退を決意していた。他のメンバーがシンセサイザーやメロトロンを使用して欲しかったの対しケイはオルガン1つでのスタイルを保持していきたかったのが原因だ。ケイの後釜に関してまたもやスクワイアがアイデアを出し、ストローブス(Strawbs)を脱退しそれ以前にも数々のバンド、ソロ・アーティストとのセッションで名を知られていたリック・ウェイクマン(Richard Christopher Wakeman、1949年5月18日 - )が新メンバーとなった。『こわれもの』(Fragile)リリース。
1972年、ビル・ブラッフォード脱退。ビル・ブラッフォードの音楽的ルーツはジャズであった。その基盤であるリズムを生かして作った曲を具現化するためにキング・クリムゾン (King Crimson)への参加を決意した。残ったメンバー達は次のドラマーの検討を重ねプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)などで活動していたアラン・ホワイト(Alan White、1949年6月14日 - )にオファーしセッションした結果、正式メンバーとなった。(最終候補は元キング・クリムゾンのマイケル・ジャイルズ(Michael Rex Giles)とアラン・ホワイトだった)
『危機』(Close to the Edge)リリース。このアルバムはビル・ブラッフォードが在籍中にレコーディングされていたためアラン・ホワイトは参加していない。
1973年、イエス初のライヴ・アルバム『イエスソングス』(Yessongs)リリース。アラン・ホワイトはこのアルバムからの参加だが2曲はビル・ブラッフォードが担当していた時代に収録されていた。
『海洋地形学の物語』(Tales from Topographic Oceans)リリース。アラン・ホワイト加入後初のスタジオ・アルバム。

History Ⅲ

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