甲子園という名前は、球場が出来た年の1924年(大正13年)が十干、十二支の最初の「甲(キノエ)」と「子(ネ)」に当たる年だったため「縁起がいい」ということで「甲子」という頭文字を取って「甲子園」という名前になったという話です。
野球場を「甲子園球場(当時は大運動場)と名付けたそうです。
甲子園球場の高くそびえる内野スタンドを「アルプススタンド」と言います。
1929年(昭和4年)に増設されたものですが、名付け親は漫画家の岡本一平、大阪万博の太陽の塔や「芸術は爆発だ!」で有名な画家・岡本太郎の父上です。
この年、朝日新聞記者として夏の甲子園大会を取材した一平は、高いスタンドを埋め尽くす白シャツのファンに雪を被ったアルプスを重ねてそう名付けたのです。
1951年、春のセンバツ大会のこと。
兵庫代表・鳴尾高校の応援団がとんでもないゲストを連れて応援に駆けつけました。
そのゲストとはなんとアフリカゾウ。
甲子園近くの動物園から連れてきて、グラウンドで練習中の選手たちと記念撮影に興じていたのだとか。
もちろん球場に許可もとっておらず、すぐに強制退場させられてしまったそうです。
1953年夏の1回戦、慶応高(神奈川)-北海高(北海道)の試合は、北海高はわずか1安打、慶応高はノーヒットに終わり、両チーム合わせて1安打しか出なかった。
ただし、勝ったのはスクイズと相手エラーで2点をあげたノーヒットの慶応高だった。
北海 000 000 000 = 0
慶應 000 011 00X = 2
今ではタレントとしておなじみの板東英二氏。
1958年に開催された「第40回全国高等学校野球選手権大会」で記録した83個の奪三振記録が今も残っているそうです。
一試合奪三振と大会通算奪三振、両方の記録をなんと50年以上にわたって保持しています。
第40回大会
・2回戦 秋田商 17奪三振(9回)
・3回戦 八女 15奪三振(9回)
・準々決勝 魚津 25奪三振(18回)
・準々決勝 魚津 9奪三振(再試合・9回)
・準決勝 作新学院 14奪三振(9回)
・決勝 柳井 3奪三振(8回)
1916~17年の第2回、第3回大会だけ敗者復活できたそう。
1916年(第2回大会)の場合、全国大会に参加は12校。
1回戦の試合数が6試合。2回戦が3試合となると、次のステップに進めるのは3校と端数が生じてしまうということで、1回戦で敗れた6チームのうち抽選で2校を敗者復活として出場させた。
1917年(第3回大会)も12校で開かれたが、この時は抽選による敗者復活が4校となった。
でも、第3回大会で敗者復活した初戦敗退チームが優勝したことで疑問が生まれ、廃止されたんだとか。
1954年(昭和29年)夏の大会で優勝した中京商(現 中京大中京・愛知)は、閉会式で受け取った優勝旗を校長室で保管していたが、盗まれた。
高野連で優勝旗を新調しようという意見も出はじめた2月中旬になって、ようやく近くの中学校の床下から発見された。
結局、犯人は分からないままであったが、無事に戻った優勝旗は以後、金庫に保管され、夏の大会の開会式で無事大会本部に返還された。
優勝校に贈られる優勝旗ですが、実は1,000万円ほどの価値があるというのです。
日本の伝統工芸の1つ、西陣織の職人に依頼して優勝旗を作ってもらったそうで、こんなにもお高くなってしまったとか。
元祖優勝旗は第1回大会から39回大会目まで使用され、第40回大会からは2代目の優勝旗が使用されているそうです。
出典: www.shokunin-times.com
1998年7月18日の青森県大会、東義vs深沢の試合。
翌日の日刊スポーツの一面を大きく飾りました。
打者149人、ヒット86、四死球36、本塁打7、三塁打21、二塁打31、盗塁78。三振は僅か1つ。
対する深浦は打者25人がノーヒットで、アウト25のうち三振は16でした。。。
甲子園の感動テーマソング歴代まとめ!Official髭男dismや嵐など - RENOTE [リノート]
renote.net
ここでは日本の夏の風物詩・高校野球のテレビ放送「熱闘甲子園」の歴代テーマソングをまとめている。放送開始した1981年から2019年までを集めた。Official髭男dismの「宿命」など、時代ごとの流行が反映された熱い曲ばかりだ。