シンガーソングライター・原田真二の凄すぎる伝説まとめ【早すぎた天才アーティスト】

シンガーソングライター・原田真二の凄すぎる伝説をまとめました。デビュー1年目で武道館ライブを行ったり、ジョン・レノンプロデュースの話もあったりと、とにかく異例だらけの音楽活動をしてきた彼。時系列順に彼の音楽活動や伝説の数々を紹介していきます!

Making of Our Song:原田真二

1978年TV番組「わたしのスター探検」という番組とのこと。
画質は悪いが、非常に貴重な映像。4分あたりの地点でハープの演奏に対して具体的にオーダーしているシーンがあるが、作品が出来上がっていく生々しい雰囲気が良く伝わってきて面白い。
当時の原田真二が色々なものと葛藤していたというのもよく伝わってくる貴重な映像。

1978年12月31日
‐ NHK紅白歌合戦に出場。

1979年4月21日
‐ 発売の2ndアルバム『natural high』の制作で、初の海外レコーディング(ロサンゼルス)。英語詞以外の作詞、作曲、編曲、プロデュースを手がけた。

2ndアルバム『natural high』

ロサンゼルスでレコーディングの本作。
SomethingNew以外の楽曲はすべて現地でレコーディング。
どの曲も佳作が多く聴いていて楽しい。
「ヘリコプターチェイス2」、「L.Aエアポート」、「ナチュラルハイ」が特によい。
現在CDは廃盤につきプレミア価格化している。

Something New:原田真二

当時この楽曲もL.Aで現地サポートメンバーとレコーディング予定だったらしいが現地に手配された最初のバンドマンたちが原田真二の求めるクオリティに達していなく差し戻した関係で時間がなくなりこの楽曲だけ日本で演奏したものになったらしい。

出典: 1.bp.blogspot.com

この頃の原田真二は本当に時代を先取っていた。
今では当たり前のような光景が、当時のファンには新しすぎて刺激が強すぎたのかもしれない。

↑これは本当にCD音源もすばらしいアレンジ。是非聴いてもらいたい。

Wake Up:原田真二

この動画はデビュー当時ではなく、かなりベテランとなった真二のライブで披露されたものだが、アレンジがすばらしい!

1980年
- 21歳で事務所を独立。株式会社クライシスを興す。レコード会社もポリドールに移籍。ソロ名義から原田真二&クライシス(SHINJI & CRISIS)として活動開始。

Sweet Baby:原田真二

このころの歌番組は生演奏だし生歌があたりまえだった。
プロがプロとして本気の演奏をしていた良い時代だったと思う。

1980年独立後~2000年までの活動

1980年
- 21歳で事務所を独立。株式会社クライシスを興す。レコード会社もポリドールに移籍。

1980年夏頃
‐ ジョン・レノンプロデュースの話が持ち上がるも、ジョンに不幸があり幻となる。

1980年11月5日
‐ コンセプト・アルバム『HUMAN CRISIS』発売。

1981年8月21日
- アルバム「ENTRANCヨ(エントランス)」発売。

1981年12月25日
‐ クリスマスライブにて米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)を発表。

1982年10月
‐ 23歳で結婚。結婚パーティ-にはCHARや八神純子など音楽仲間も駆けつけた。

1983年5月5日
‐ アメリカから帰国後フォーライフへ再度移籍

1983年7月21日
- アルバム「SAVE OUR SOUL」発売

1984年3月21日
‐ アルバム『MODERN VISION』が発売。5月からツアースタート。
オープニングアクト(演劇)等を取り入れたライヴを発信

1984年11月21日
‐ 発売のシングル「Teardrops 」では、アメリカのPVに触発されCGを取り入れ制作。

1985年3月17日 - 9月16日
‐ 筑波科学万博で「BREATHE」の音楽を担当。観客動員数はパビリオン中で最大

1985年10月
‐ 新たに「Friday Night Club」というイベントを企画。定期的にクラブでのライブを試みた。

1985年11月1日
‐ レコードクレジットを原田真二に戻し、バンド・サウンドから打ち込みサウンドへ移行。
『Magical Healing』を発売

1986年10月21日
- アルバム「DOING WONDER」発売

1987年7月21日
‐ デビュー10周年として7月〜12月で「SWEET HEART」「LOVE OPERATOR」「君にもっと近づきたくて」とシングルを連続発売。

1988年7月
‐ 「NECアベニュー」に移籍。社名は「Air Field」バンド名はTHE AIRに変更

1988年11月21日
- アルバム『Urban game』発売。

1989年9月21日
‐ ライブアルバム「Just Urban Night」とライブビデオ「Live Act Urbangame」を同時発売

1990年6月
‐ 「アコースティック・ナイト」という小規模なアコースティックなライブを始める

1992年4月
‐ 「日本コロムビア」への移籍をライブ中に発表。

1992年11月
- アルバム『Miracle Love』を発売。

1996年2月21日
‐ 「生命交響楽」発売。カップリングは自身が手がけた小学校の校歌

1996年4月20日
‐ 広島原爆50年を迎え「ひろしまから始めよう」を発売

LIFE / SHINJI&CRISIS

ライブアレンジが最高にかっこいい「LIFE」
これをこの時代にやっていたというのは本当に驚きだ。

ジョン・レノンプロデュースの話があったがジョンの悲報により実現せず

1980年夏頃
‐ ジョン・レノンプロデュースでのレコーディングの話が内々で持ち上がるも、1980年12月8日、ジョンはニューヨークで銃弾に倒れ幻となった

HOT EXPRESS「原田真二 『OUR SONG』インタビュー」より

--あと、ジョン・レノンプロデュースでのレコーディングの話があった的な噂を聞いたことがあるんですけど、これは本当ですか?

出典: www.hotexpress.co.jp

出典: cress30.exblog.jp

実現されなかった、ジョン・レノンプロデュース

原田真二:本当です。ジョンが亡くなる年の夏ぐらいから話が出ていて、その話はオノ・ヨーコさんのところへも行ってて「ジョンもすごく気に入ってるから、これを進めようと思うんだけど」と。ただ、僕はポール・マッカートニーはすごく聴いていたんですけど、ザ・ビートルズは全く聴いていなかったんで、ジョンのこともそんなに知らなかったんですよ。だから「それは面白いですね」ぐらいのテンションだったんですけど、後からだんだん「凄い人だったんだな」って分かって(笑)。で、その秋に具体的な打ち合わせに入って、翌年に実現するプロジェクトになっていたと思うんですよ。

ただ、僕は12月にツアーの合宿に入っていたんですけど、その最中にニュースで「射殺された」っていうのを聞いて。--実現できなかった訳ですね。

事務所独立後の原田真二 自ら「いばらの道だった」と語る

1980年
- 21歳で事務所を独立。株式会社クライシスを興す。レコー会社もポリドールに移籍。

中川:でも、デビューして、一気に売れたわけですから、なかなか自分のやりたいことをやるというわけにはいかなかったんじゃないですか。

原田:全然できませんね。曲を作る時間もないし、このままではダメだと思いました。
それで、コンサート中心の活動をしたいと思って、思い切って独立しました。それからが、イバラの道でしたが(笑)。
でも、大変な道を選んで良かったと今では思っています。痛みとか苦しみといったものも知ることができましたし。

中川:自分の音楽を追求できるようになったわけですからね。

出典: www.shinkiko.com

3rdアルバム『HUMAN CRISIS』発売 当時のJPOP界ではコンセプトアルバムはまだまだ珍しかった

1980年11月5日
‐ 10月のシングル「STRAWBERRY NIGHT」に続き、アルバム『HUMAN CRISIS』発売。「僕の中にあるハードな部分ががつ~んと出た一品。当時のファンの人たちを裏切りまくった僕のトライでした。」

3rdアルバム「HUMAN CRISIS」

名義を原田真二から「shinji&Crisis」としてリリース。
2ndアルバムで自身の今後の方向性を見出し、本作でバンド色全開でコンセプトもしっかりさせた最初の到達点といえるアルバム。ポップからハードプログレへと急速な進化にアイドルと見ていた女性ファンが離れてしまい結果的にセールス的に苦戦してしまったのが非常にもったいない。
当時ロックミュージシャンの戦略的なプロモーション手法が確立されていない背景もあり本作品より売り出し方含め真二自身も模索していく時代へとなっていく。
しかし本当にかっこいい曲が多い傑作アルバムである。

Rareku0477
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@Rareku0477

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