フィッシュマンズ(Fishmans)の徹底解説まとめ

「フィッシュマンズ(Fishmans)」とは1987年に結成された日本のロックバンドである。デビュー当時のポップでレゲェな曲調からキャリアを重ねるにつれロック・ダブなど様々な要素を取り入れハイブリッドで独自性のあるサウンドを作り上げていった。それら無二の楽曲にボーカル佐藤伸治のハイトーンで強烈なバイブスが重なり合い、サブカル界隈の若者を中心に絶大な支持を集めた。しかし1999年に佐藤が急逝し活動休止を余儀なくされてしまった。2005年からはリーダーの茂木を中心に再び活動を始めている。

「フィッシュマンズ(Fishmans)」の概要

「フィッシュマンズ(Fishmans)」とは、1987年結成されたロックバンドである。ボーカル佐藤伸治、ドラム茂木欣一、ギター小嶋謙介の3人で結成されたのち、ベース柏原譲、キーボードのハカセを加えた5人で活動をしていく。
1991年にヴァージン・ジャパン(メディア・レモラス)からメジャーデビュー。当初はレゲエをベースとしたポップテイストな楽曲が多かったが、さまざまな経験を重ねながらロック、ダブ、エレクトロニカ、ファンク、ヒップホップなどを雑多ながらも取り入れ、独自性のあるサウンドに昇華させていった。

1995年ポリドールへ移籍後、「フィッシュマンズ(Fishmans)」の評価を確固たるものとする「世田谷三部作」を立て続けにリリースしていく。いままで築き上げてきた独自の音楽性とボーカル佐藤のハイトーンボイスから放たれるメランコリックながら共感し得る歌詞が相まって音楽業界から再評価される。さらにはDJやクラブミュージック・サブカル界隈からも一躍注目を集めるようになり、日本の音楽シーンで大きな存在感を示すようになっていくのである。

しかし、バンドを取り巻く環境や人間関係の変化、方向性の相違などによりコアメンバーが次々と脱退、最終的には佐藤と茂木の2人体制となってしまった。そんな中、1999年3月15日にボーカル佐藤が急逝。ほとんどの楽曲に深く関与していた佐藤を失ったことによりバンドは活動を休止せざるをえなくなってしまうのである。

その後、2005年にリーダーの茂木を中心に今までの、そしてこれからの「フィッシュマンズ(Fishmans)」をとの想いでバンド活動を再開。様々なゲストミュージシャンを迎えながら断続的に活動をおこなっている。もちろんいまでも「フィッシュマンズ(Fishmans)」をリスペクトするアーティストも多く、様々なカタチでトリビュート作品が制作されている。

「フィッシュマンズ(Fishmans)」の活動経歴

メンバー5人、それぞれの出会い

1985年、明治学院大学内で活動していた音楽サークル「ソングライツ」に佐藤伸治が入会。のちにメンバーとなる小嶋謙介は同大学の「ライトミュージックソサエティ(L.M.S)」という佐藤とは別の音楽サークルに所属している。その2年後、後輩としてのちのコアメンバーとなる茂木欣一が佐藤が所属する「ソングライツ」に入会。1987年、同大学内でおこなわれる定期演奏会に出場するために3名で「フィッシュマンズ(Fishmans)」を結成する。

1988年、東京渋谷のライブハウス「La.mama」を中心にライブ活動を開始。当初はバンド活動にあまり身が入っていなかった佐藤だったが、熱心なメンバーに次第に感化されていくことになる。その後、「ソングライツ」では茂木の同期になる柏原譲を勧誘し4人編成となる。勧誘の理由には「演奏に惚れこんだ」とされているが、ただ単に「車を持っていた」からだともいわれている。

1989年、カルチャー誌「宝島」主宰のキャプテンレコード・オムニバスCD『パニック・パラダイス』への参加依頼を受ける。この時「フィッシュマンズ(Fishmans)」として初のレコーディング楽曲「いなごが飛んでる」「Special Night」の2曲を提供する。

1990年、新宿LOFTにてオムニバスCD発売記念ライヴに「スカンク」「クスクス」「ポテトチップス」「ムスタングA.K.A.」らと出演。このとき「ムスタングA.K.A.」に在籍していたハカセがサポートメンバーとして参加。このとき佐藤から熱烈なラブコールをうけハカセがバンドに加入。ここで「フィッシュマンズ(Fishmans)」のにコアメンバー5人が揃うこととなった。

ジレンマの中でのバンド活動

折しも当時の音楽業界は空前のインディーズブームを迎えていた。
「ロックは商売になる!」と、各レコード会社は様々なインディーズバンドに唾をつけ、青田刈りをし始める。もちろん、例に漏れず「フィッシュマンズ(Fishmans)」にもいろいろな声がかかったようだがどこ吹く風を気取っていた。また、バンドブームの象徴、テレビ番組いかすバンド天国にも「つまんないバンドばかりのブームなんてすぐ終わる」と当時のインタビューでは語っている。

そんな中1989年「フィッシュマンズ(Fishmans)」はマネージメント事務所りぼんと契約する。りぼんはメンバーが尊敬していた「RCサクセション」忌野清志郎のマネージャー奥田義行が設立したマネージメント事務所。りぼんとの契約、そして奥田の元で「フィッシュマンズ(Fishmans)」の活動は急速に本格化していくこととなった。

1990年10月、ついにメジャーレーベルであるヴァージン・ジャパン(メディア・レモラス)と契約。1991年2月、バブル景気・バンドブームに乗っかり、新人バンドながらオーストラリアで1stアルバムのレコーディングを開始する。プロデューサーは佐藤が憧れていた「MUTE BEAT」のリーダーこだま和文。こだまはメンバーに自らが作成したミックステープを渡し、ロックステディのイロハを学ばせる。このミックステープに感化されたメンバーはアルバム制作に熱中していく。1991年4月、先行シングルとしてアルバムに収録された「ひこうき」でついにメジャーデビューをする。続く5月、1stアルバム『Chappie, Don't Cry』をリリース。

1991年11月、ミニ・アルバム『Corduroy's Mood』をリリース。このアルバムでメンバーは、当時ブームだった「渋谷系」を意識されすぎることに不満を漏らしている。
1991年1月、「100ミリちょっとの」がフジテレビの深夜ドラマ「90日間・トテナム・パブ」の主題歌に抜擢される。初のタイアップにバンドは大いに盛り上がったが、楽曲の制作やプロモーションには大きな制約が付いてまわることになった。

1992年10月、2ndアルバム『King Master George』をリリース。メジャー思考なリクエストに当惑することもあったが、好き放題にやれる環境の中バンドが隠し持っていた雑多な音楽性が発揮され、今までにないバラエティに富んだアルバムとなった。

フジテレビ系バラエティ番組「わんわんバラエティ・スターはポチだ!」に「いなごが飛んでる」「Walkin'」が採用され、バンドはさらに日の目を見るようになっていったが、メンバー内ではメジャー路線な方向性について議論が交され始めていた。「タイアップとって売れるより、本当にやりたいものをやろう」などの声が上がっていった。

新たな仲間と出会い、そして決別

1993年7月、3rdアルバム『Neo Yankee's Holiday』をリリース。このアルバムからメンバーの強い要請により、レコーディングエンジニアとしてZAKを迎え入れる。ZAKの加入によって楽曲には打ち込みやサンプリングなどが多用されるようになり、これまでの温かみのあるバンドサウンドからクールで研ぎ澄まされた音楽へと変化をしていく。楽曲の中からはコマーシャル的な要素を排除していくことで、今までの売れるためのメジャー思考から自分たちの求める方向へと一変させていった。このアルバムから「フィッシュマンズ(Fishmans)」史上屈指の名曲でもあり、今も聴き継がれている「いかれたBaby」が誕生する。このアルバム制作の中、佐藤のすさまじい熱意と熱量そして変化に、メンバーは驚かされる。「プレイヤーとして力不足を痛感し、彼に付いていくために一生懸命練習した」と語ったように、佐藤の進化に遅れまいと茂木と柏原は必死に食らいついていった。だが、小嶋は「何かと決別するような毅然としたものを感じた」とバンドから距離を置き始めてしまいその後、脱退を決意する。小嶋の脱退で、佐藤はかなりのショックを受けてしまう。

1994年10月、4rdアルバム『ORANGE』をリリース。本作からZAKが共同プロデューサーとして名を連ねることになった。小嶋脱退の傷心が残っていることを感じていたZAKは、気分転換も兼ねロンドンでのレコーディングを提案。だがロンドンレコーディングの中、佐藤はレコード会社とのバンド方針の相違から移籍を考え始めていた。「フィッシュマンズ(Fishmans)」としてはポップ開放的な新境地とも言えるアルバムだが、佐藤の苦悩・葛藤も見え隠れするアルバムでもある。

1995年3月、5rdアルバム『Oh! Mountain』をリリース。ツアーの音源の中からシングル曲や人気曲をふんだんに集めたレーベル移籍前の集大成ともいうべきライブ盤。このツアーで今後の「フィッシュマンズ(Fishmans)」に欠かせぬ存在となるHONZIがコーラスとピアノで参加。本作をもって「フィッシュマンズ(Fishmans)」はヴァージン・ジャパン(メディア・レモラス)との契約を終了。ポリドール・レコードへと移籍する。

走り始めた未来、そして

1995年6月、ポリドール・レコードと契約。「スピッツ」の大ヒットで、さらなる邦楽部門の強化を計っていたポリドールは、音楽性も近く比較されることも多かった「フィッシュマンズ(Fishmans)」に白羽の矢を当てることにする。ポリドール移籍に際し「フィッシュマンズ(Fishmans)」は「プライベートスタジオが欲しい!」と前代未聞の要求をするのだが、当時の景気と重なり「2年間でアルバム3枚を作る」という条件で程なく承諾される。自由にできるプライベートスタジオ「ワイキキビーチ・ハワイスタジオ」を手に入れたことで、メンバーの創作意欲はより一層の進化を遂げていくことになる。だが、移籍後の新作アルバム制作を進めていく中「自分の音楽に専念したい」との理由に、突然ハカセが脱退してしまう。当然ながらバンドとしてかなりのダメージだったが、レーベル移籍・プライベートスタジオなどの好機の中、メンバーは制作に集中していく。

1996年2月、ポリドール移籍後の初アルバムであり6rdアルバム、のちに「世田谷三部作」として語られる第1作目『空中キャンプ』をリリース。
ワイキキビーチ・ハワイスタジオという最高な環境の中「この頃から見るものの景色すべてが変わってきた」と佐藤が語ったように、メンバーの熱意・熱量が十二分に凝縮されたアルバムとなった。このアルバムでサブカルチャー周辺のメディアから注目されるようになっていく。

1996年9月、シングル『SEASON』をリリース。ツアー中メンバーの「終わらない曲を作ろう」という他愛もないアイデアから「SEASON」の拡大版「LONG SEASON」を制作する。1トラック35分にもなるこの楽曲を、7rdアルバム「世田谷三部作」第2作目にあたる『LONG SEASON』としてリリース。

1997年7月、8rdアルバム「世田谷三部作」3作目となる『宇宙 日本 世田谷』をリリース。この時期の佐藤は誰の付け入る隙をあたえないほど感性が鋭く研ぎ澄まされていたという。本作品はバンドとしての最高傑作と言われているが、同時に佐藤の孤高・孤独感が浮き彫りにもなっているアルバムでもある。

1997年8月、プライベートスタジオであるワイキキビーチ・ハワイスタジオが建物の契約終了に伴い閉鎖してしまう。さらにバンドのサウンドを支えてきたZAKの離脱、のちに柏原も脱退の意思を伝えることとなった。ある意味で限界を超えて進んでいく佐藤に付いていけないという側面が強かったとも語られている。この出来事と同時に契約事項でもある「2年間でアルバム3枚」という、多忙で過密なスケジュールをバンドは走り終え、夢のような2年間の終焉を迎えた。ZAKの離脱、柏原の脱退表明の中、バンドはツアーを開始。ツアータイトルには次々とバンドを離れていくメンバーのことを愁い佐藤が「男達の別れ」と名付けた。ツアー終了後「フィッシュマンズ(Fishmans)」は佐藤と茂木の2人体制で活動をしていくこととなる。しかし1999年3月15日、佐藤が急死。「フィッシュマンズ(Fishmans)」は事実上、活動を休止せざるをえなくなった。

2005年、リーダーの茂木を中心に「今までの、そしてこれからの」フィッシュマンズ(Fishmans)をとの思いでバンド活動を再開する。以後、様々なゲストミュージシャンを迎えながら、今も断続的にライブ活動を行っている。

2021年、当時のメンバーや関係者へのインタビューを収録したドキュメンタリー映画『映画:フィッシュマンズ』が公開。フィッシュマンズ(Fishmans)は若者や海外リスナーなどから再び注目・評価を集めることになった。

「フィッシュマンズ(Fishmans)」のプロフィール

佐藤伸治(さとう しんじ)

1966年2月16日 ~ 1999年3月15日
ボーカル担当
明治学院大学の軽音楽サークル「ソングライツ」に所属。
バンドの中心的存在としてほぼ全ての楽曲で作詞、作曲を担当している。
楽曲によってはギターやコルネットも演奏している。
1999年3月15日に急逝。
33歳没。

茂木欣一(もてぎ きんいち)

1967年12月15日 ~
ドラム担当
ボーカル佐藤とは共に明治学院大学(佐藤の2年後輩)の軽音楽サークル「ソングライツ」に所属していた。
時期は定かではないがバンドのリーダーに指名され担っている。
佐藤が亡くなったあとも中心となって「フィッシュマンズ(Fishmans)」の活動を続けている。
「東京スカパラダイスオーケストラ」のドラマーでもある。

小嶋謙介(おじま けんすけ)

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@kedamaru

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