James Brown(ジェームス・ブラウン)の徹底解説まとめ
James Brown(ジェームス・ブラウン)とは、アメリカを代表するソウル歌手、ダンサー、音楽プロデューサーである。
ブルース、ゴスペル、リズム&ブルース(R&B)に影響を受け、1955年にデビュー後、数々のヒット曲を放った。ソウルと呼ばれる音楽の代表的ミュージシャンであり、ファンクと呼ばれる音楽を作り上げた。さらに、ダンサーとしてマイケル・ジャクソンなど後進のミュージシャンに大きな影響を与えた。
1971年、テレビ「マイク・ダグラス・ショー」から
Living in America
ジェームス・ブラウン オフィシャル・ビデオ
James Brownの名言・発言
「俺たちはそいつをリズム・ホールドと呼んでいた。まさにそこがソウルの出発点だった」
1960年発表のシングル「シンク」。
強烈な8ビートとともにホーンセクションによるリフが繰り返され、ハーモニーを感じさせるものは極力省かれた。
リズムが明確に浮かび上がるサウンドに乗ってジェームスの声がとどろく。
「俺の頭の中には、これまでどこでも聴いたことのないサウンドが鳴り響いていた。そのサウンドには名前がなかったが、俺にはこれが今までのサウンドと違っていることが分かっていた」
「『シンク』はゴスペルとジャズを合わせたようなもので。俺たちはそいつをリズム・ホールドと呼んでいた。まさにそこがソウルの出発点だった」
「俺は公民権じゃなく、人権を信じていた」
キング牧師が暗殺された後の1960年代終わりごろ、ジェームスはそれまでストレートになでつけていた髪をアフロヘアにして、テレビやラジオで積極的に発言するようになった。
「俺は公民権じゃなく、人権を信じていた。世界中あらゆるところに住むすべての人間の人権を。そして俺は国を愛していた。だが、仲間の黒人たちを代表して語りたいことがあった。アメリカを愛すればこそだった。俺は黒人にはプライドと経済力、そして何よりも教育が必要だと思った」(俺がJBだ!ジェームス・ブラウン自叙伝より)
James Brownのエピソード・逸話
ジェームスのライブ最大の見せ場「マント・ショー」
1959年ごろから、ジェームスはライブに「マント・ショー」のパフォーマンスを取り入れるようになった。
ライブ終盤、ジェームスは歌っている途中で突然膝をつく。
疲労でよろけたのか、体調が悪くなったのかと観客は心配になる。
スタッフにマントをかけられて舞台袖に連れていかれようとするが、ジェームスはマントを振り払って再び歌いだす。
このパフォーマンスはライブ一番の見せ場となり、生涯にわたって続けられた。
そして、2006年12月25日に心不全で亡くなった5日後に行われた葬儀のひつぎには、40年間マントをかけ続けた付き人のダニー・ケイによって最後のマントがかけられた。
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目次 - Contents
- James Brownの概要
- James Brownの活動経歴
- 幼少期から教護院でミュージシャンを志すまで
- 「トライ・ミー」のヒット
- 公民権運動と歴史的名曲「セックス・マシーン」
- グラミー賞と波乱の晩年
- James Brownのプロフィール・人物像
- James Brownのディスコグラフィー
- トップ10シングル
- 主なアルバム
- Please Please Please
- ライブ・アット・ジ・アポロ
- セックス・マシーン
- James Brownの代表曲とミュージックビデオ(MV/PV)
- Please Please Please
- Papa's Got A Brand New Bag
- Out of Sight
- It's A Man's Man's Man's World
- Say It Loud,I'm Black and I'm Proud
- Sex Machine & Super Bad
- Living in America
- James Brownの名言・発言
- 「俺たちはそいつをリズム・ホールドと呼んでいた。まさにそこがソウルの出発点だった」
- 「俺は公民権じゃなく、人権を信じていた」
- James Brownのエピソード・逸話
- ジェームスのライブ最大の見せ場「マント・ショー」