James Brown(ジェームス・ブラウン)の徹底解説まとめ
James Brown(ジェームス・ブラウン)とは、アメリカを代表するソウル歌手、ダンサー、音楽プロデューサーである。
ブルース、ゴスペル、リズム&ブルース(R&B)に影響を受け、1955年にデビュー後、数々のヒット曲を放った。ソウルと呼ばれる音楽の代表的ミュージシャンであり、ファンクと呼ばれる音楽を作り上げた。さらに、ダンサーとしてマイケル・ジャクソンなど後進のミュージシャンに大きな影響を与えた。
James Brownの概要
James Brown(ジェームス・ブラウン)とは、アメリカを代表するソウル歌手、ダンサー、音楽プロデューサーである。
ブルース、ゴスペル、リズム&ブルース(R&B)に影響を受け、1955年にデビュー後、数々のヒット曲を放った。ソウルと呼ばれる音楽の代表的ミュージシャンであり、ファンクと呼ばれる音楽を作り上げた。さらに、ダンサーとしてマイケル・ジャクソンなど後進のミュージシャンに大きな影響を与えた。
「ミスター・ダイナマイト」「ソウルブラザー・ナンバーワン」「ゴッドフーザー・オブ・ソウル」「ファンキー・プレジデント」「ショービジネスで最も勤勉な男(The Hardest Working Man in Show Business)」などのニックネームを持つ。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」の第10位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第7位、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」第37位など、数々の受賞歴がある。
James Brownの活動経歴
幼少期から教護院でミュージシャンを志すまで
ジェームスは1933年5月3日、アメリカ合衆国サウスカロライナ州バーンウェルに生まれた。
郊外の森の中の小さな小屋で生まれた彼ははじめ意識がなく、出産に立ち会った叔母によって蘇生処置を施された。
彼の父親はアメリカ先住民・アパッチ族の血が流れており、母親はアフリカ系アメリカ人とアジア系の血を受け継いでいた。
父親は森の中で松製油の樹脂を採取して生計を立てていた。しかし食べていくのに精一杯で、ジェームスはジョージア州オーガスタの叔母の家に預けられた。
叔母の家は売春宿を経営していたが決して豊かではなく、ジェームスは綿花摘みの手伝いや靴磨きをして家計を助けていた。この間に彼は店の常連客にギターを習ったり、オルガンを譲ってもらって弾き始めるなど、音楽の世界に近づいていった。
しかしジェームスはまだミュージシャンになろうとは思っていなかった。野球とボクシングにも熱中しており、友人たちはプロ野球選手になることを勧めていたが、彼自身はプロボクサーになるのが夢だった。
大きくなるにつれて、彼は着るもの欲しさに万引きや盗みを働くようになった。15歳になったある日、仲間と車の中からコートなどを盗み出そうとしているところを警察官に見つかり、現行犯逮捕された。そして彼に言い渡されたのは「反省すれば8年、反省しなければ16年」という有罪判決。未成年の彼には重すぎる刑罰であったが、当時の黒人たちの置かれた立場からはそれが普通のことだった。1948年に教護院に収容された。
服役中、白人の看守によるいじめに耐えながら、収容された仲間たちとゴスペルグループを結成。あっという間に院内の人気者となる。「ミュージックボックス」というあだ名をもらった彼はついにミュージシャンとして生活していくきっかけをつかんだ。
「トライ・ミー」のヒット
収容されてから3年後、彼は仮釈放のチャンスを得た。真面目な生活態度と明るい性格、そしてゴスペルミュージシャンとしての活躍が好印象を与えたおかげだった。ただし、故郷のオーガスタに戻ることは許されず、教護院のあるジョージア州トコアの町で生活することが条件付けられていた。そこでゴスペルを通じて知り合ったボビー・バードにより家と仕事を得ることができた。ボビーとはこの後、長きにわたり音楽活動をともにすることとなる。
1953年、彼は昼は別の仕事をして、夜はライブ活動を重ねていた。そんな中、リトル・リチャードと知り合った。リチャードはまだビッグヒットには恵まれてはいなかったが、この地域ではナンバーワンの人気者だった。リチャードはフレイムスを自身の事務所に推薦。ジェームスたちはそれから安定した収入を得られるようになった。
そんなある日、リチャードは突然、西海岸に旅立ち、ジェームスたちはその後釜としてチャンスを得ることになる。徐々にジョージア州から活動範囲を広げ、次第に知名度が上がっていった。そしてついにレコード会社から声がかかった。それはオハイオ州シンシナティに本拠地を置くキング・レコードだった。
デビュー曲はヒットしたものの、その後ヒットがまったく出なくなった彼らにマネージメント会社は、バンド名を「ジェームス・ブラウン&フェイマス・フレイムス」へと改めるよう提案した。これはバンドのスターをはっきりさせることがはっきりさせることが目的だったが、他のメンバーはこれに反発。全員が故郷のトコアに帰ってしまった。
バンドが消滅してしまい途方に暮れていたジェームスだったが、ここで意外なところから救いの手が差し伸べられる。オーストラリアをツアー中だったリトル・リチャードが突如、「これからの人生を神にささげる」と言いだして引退を発表。アラバマ州オークウッドに入学して神学を修め牧師となった。そのツアーの開けた穴を埋めるためにジェームスは急遽呼ばれ、リチャードのバック・バンドと行動をともにすることになった。そしてジェームスは、このバンドのメンバーと帰ってきたフレイムスのメンバーからなる新しいバンドを結成。シングル曲を録音することになった。このラストチャンスに出した曲「トライ・ミー」は大ヒットし、R&Bチャート1位にまで昇りつめた。
1956年2月4日、フェイマス・フレイムスは初めてレコード録音のためにスタジオに入った。記念すべきデビュー曲はオリジナルの「プリーズ、プリーズ、プリーズ」。ところが、この曲を聴いたキング・レコード社長のシド・ネイサンは「『プリーズ』を繰り返すばかりで、どこがいいんだ!」と激怒。彼らを推薦したスカウトマンは首になり、曲はキング配下のマイナー・レーベル「フェデラル」から何の宣伝もないまま発売されることとなった。
仕方なく彼らはそれぞれがレコードを持ってツアー先の町にあるラジオ局を訪問。DJに配って歩くことで地道に宣伝していった。少しずつではあるがレコードは売れ始め、結果的にミリオンセラーとなった。
公民権運動と歴史的名曲「セックス・マシーン」
ジェームスは1960年5月、シングル「シンク」を発表。ミリオンセラーとなる。
そして1962年、ついにニューヨークに進出。アポロ劇場でのライブを録音したアルバムを発表した。当時、ライブアルバムというのはスタジオラライブに拍手の音をかぶせた程度のもので、観客の声が聞こえることはありえなかった。この企画を聞いたシド・ネイサンは制作に反対したため、ジェームスは自費で録音を行った。出来上がった作品を聞いてネイサンは発売を許可したが、そこからシングル曲を選ぶよう提案。しかしジェームスはあえてそれを実行しなかった。結果、63年の「ライブ・アット・ジ・アポロ」はシンシングルを出さないまま売れ続け、ラジオ番組のよってはアルバム片面全部を一気にかけてくれるところまで現れた。このアルバムはヒットチャートに66週にわたって居座り続けた。これによって音楽業界はLP単位を重視する流れをつくることなった。
ライブアルバムの成功後、最初のファンクナンバーとされる「アウト・オブ・サイト」を発表した。それから「パパズ・ガット・ア・ニュー・バッグ」「アイ・ガット・ユー(アイ・フィール・グッド)」「コールド・スウェット」と立て続けにヒットさせ、ジェームスは人気を不動のものにした。
1960年代後半、NAACP(全米有色人種地位向上協議会)の永久会員となり、非暴力の立場での公民権運動を支持。黒人の地位向上、職場確保と能力開発のためにラジオ局の運営を始めた。また、マーチン・ルーサー・キング牧師とも親交を深めた。
そして1968年4月4日、キング牧師が暗殺されると、全米各地120か所以上で暴動が発生。暗殺直後、ジェームスは所有するラジオ局から、平静を保つことでキング牧師の名誉をたたえようと訴えた。さらに事件翌日のボストンでのコンサートはあえて中止せず、テレビで生中継し人々を外出させないようにした。このライブ中継は何度も再放送され、ボストンでは全く事件が起きなかった。
ジェームスの活躍はアメリカ政府を喜ばせ、ホワイトハウスの晩さん会にも呼ばれるようになった。また、ベトナムへ慰問ライブなども行った。
しかしそれは反戦運動、公民権運動の活動家からは裏切り行為としか見えなかった。過激な活動家活動家グループからの脅迫も受けるようになった。
そんな中、1968年に「セイ・イット・ラウド(アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド)」を発表。R&Bチャートを6週間1位となり、ポップチャートでも10位まで上った。しかし、この強力なブラックパワー支持宣言は一気に白人ファンを失ってしまった。
権力と反権力の狭間で揺れ動いていた揺れ動いていたジェームスだが、音楽では妥協を許さなかった1970年、ジョージア州コロンバスで行うライブ当日、バンドメンバー全員が賃上げを要求。夕方6時になっても要求を撤回せず演奏の準備もしなかったため、ジェームスは全員に首を言い渡した。しかしコンサートを中止するわけにはいかなかったため、急遽、キング・レコードでセッションバンドとして働いていた若者たちを、ジェームスの新しいバック・バンド「JB’s」として使った。こうして誕生したJB’sとの最初の成果が歴史的名曲「セックス・マシーン」だった。
グラミー賞と波乱の晩年
70年代後半に入るとディスコ・ブームが始まった。それとともにジェームスの人気は下降線をたどったが、1980年、俳優でコメディアンのジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが映画「ブルース・ブラザーズ」への出演を依頼。この映画は大ヒットをきっかけにR&Bブームが起き、ジェームスはまた注目を浴びることになった。その後、映画「ロッキー4」で歌った「リビング・イン・アメリカ」がヒットしてジェームスは再びショービジネス界に返り咲いた。
1984年にはヒップホップの創始者のひとりであるアフリカ・バンバータと共演。ヒップホップ系の若手ミュージシャンからも尊敬を受けた。
1987年のグラミー賞ではベストR&B男性歌手に、92年には同賞特別功労賞を受賞した。
しかしプライベートでは87年4月に妻への暴行容疑で逮捕され、88年9月には警察官の職務質問を無視して逃走し逮捕されるなど、波乱の晩年を過ごした。
2006年12月25日、肺炎の症状が悪化して死去した。
James Brownのプロフィール・人物像
アメリカ先住民のアパッチ族の父と、アフリカ系アメリカ人とアジア人の系統にある母の間に生まれる。サウスカロライナ州バーンウェルで生まれたときの名前はジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアだったが、成人後にジェイムズ・ジョセフ・ブラウンに改名した。
家庭は非常に貧しく、ブラウンは親戚の家で育てられた。幼少期は綿花詰みの手伝いや靴磨きで家計を助けながら、地元の音楽大会で優勝するほどの歌唱力を発揮していた。15歳の時に車の窃盗で逮捕され、16歳(成人)で反省があれば8年、反省がなければ16年という差別的な有罪判決を下される。その後、1948年から教護院に収容された。服役中にバンドを組み、音楽に情熱を傾けていくことになる。
James Brownのディスコグラフィー
トップ10シングル
1956: Please, Please, Please (R&B #5)
1959: Try Me (R&B #1, U.S. #48)
1960: Think (R&B #7, U.S. #33)
1961: Baby, You're Right (R&B #2, U.S. #49)
1961: Bewildered (R&B #8, U.S. #40)
1961: I Don't Mind (R&B #4, U.S. #47)
1962: Lost Someone (R&B #2, U.S. #48)
1962: Night Train (R&B #5, U.S. #35)
1963: Prisoner of Love (R&B #6, U.S. #18)
1965: Papa's Got a Brand New Bag - Part I (R&B #1, U.S. #8)
1965: I Got You (I Feel Good)] (R&B #1, U.S. #3)
1966: Ain't That a Groove Pts. 1 & 2 (R&B #6, U.S. #42)
1966: Don't Be a Drop-Out (R&B #4, U.S. #50)
1966: It's a Man's Man's Man's World (R&B #1, U.S. #8)
1966: Sweet Little Baby Boy - Part 1 (U.S. #8)
1967: Cold Sweat - Part 1 (R&B #1, U.S. #7)
1967: Let Yourself Go (R&B #5, U.S. #46)
1968: I Can't Stand Myself (When You Touch Me) (R&B #4, U.S. #28)
1968: I Got the Feelin' (R&B #1, U.S. #6)
1968: Licking Stick - Licking Stick - Part 1 (R&B #2, U.S. #14)
1968: Say it Loud - I'm Black and I'm Proud - Part 1 (R&B #1, U.S. #10)
1968: There Was a Time (R&B #3, U.S. #36)
1969: Ain't It Funky Now (R&B #3, U.S. #24)
1969: Give It Up or Turnit a Loose (R&B #1, U.S. #15)
1969: I Don't Want Nobody to Give Me Nothing (Open Up the Door, I'll Get It Myself) (R&B #3, U.S. #20)
1969: Let a Man Come in and Do the Popcorn - Part One (R&B #2, U.S. #21)
1969: Mother Popcorn (You Got to Have a Mother for Me) Part 1(R&B #1, U.S. #11)
1970: Get Up (I Feel Like Being Like A) Sex Machine (Part 1) (R&B #2, U.S. #15)
1970: Santa Claus is Definitely Here to Stay (U.S. #7)
1970: Super Bad - Part 1 & Part 2 (R&B #1, U.S. #13)
1971: Escape-ism - Part 1 (R&B #6, U.S. #35)
1971: Get Up, Get Into It, Get Involved - Pt. 1 (R&B #4, U.S. #34)
1971: Hot Pants (She Got to Use What She Got to Get What She Wants) ? Part 1 (R&B #1, U.S. #15)
1971: I'm a Greedy Man - Part I (R&B #7, U.S. #35)
1971: Make It Funky - Part 1 (R&B #1, U.S. #22)
1971: Soul Power - Pt. 1 (R&B #3, U.S. #29)
1972: Get on the Good Foot - Part 1 (R&B #1, U.S. #18)
1972: King Heroin (R&B #6, U.S. #40)
1972: Talking Loud and Saying Nothing - Part I (R&B #1, U.S. #27)
1973: Down and out in New York City (R&B #13, U.S. #50)
1973: I Got a Bag of My Own (R&B #3)
1973: Sexy, Sexy, Sexy (R&B #6, U.S. #50)
1974: Funky President (People It's Bad) (R&B #4, U.S. #44)
1974: My Thang (R&B #1, U.S. #29)
1974: Papa Don't Take No Mess - Part I (R&B #1, U.S. #31)
1974: Stoned to The Bone - Part 1 (R&B #4, U.S. #58)
1974: The Payback - Part I (R&B #1, U.S. #26)
1976: Get Up Offa That Thing (R&B #4, U.S. #45)
1985: Living in America (R&B #10, U.S. #4)
1987: How Do You Stop (R&B #10)
1988: I'm Real (R&B #2)
1988: Static, Pts. 1 & 2 (with Full Force) (R&B #5)
主なアルバム
Please Please Please (1959)
Try me (1959)
Live at the Apollo (1963)
Cold Sweat (1967)
Super Bad (1970)
Sex Machine (1970)
Get on the Good Foot (1972)
The Payback (1973)
Hell (1974)
Hot (1975)
In the Jungle Groove (1986)
Gravity (1986)
Please Please Please
1. プリーズ、プリーズ、プリーズ
2. チョニー・オン・チョン
3. ホールド・マイ・ベイビーズ・ハンド
4. アイ・フィール・ザット・オールド・フィーリング・カミング・オン
5. ジャスト・ウォント・ドゥ・ライト
6. ベイビー・クライズ・オーヴァー・ジ・オーシャン
7. アイ・ドント・ノー
8. テル・ミー・ホワット・アイ・ディドゥ・ロング
9. トライ・ミー
10. ザット・ドゥード・イット
11. ベッギング、ベッギング
12. アイ・ウォークト・アローン
13. ノー、ノー、ノー、ノー
14. ザッツ・ホェン・アイ・ロスト・マイ・ハート
15. レッツ・メイク・イット
16. ラヴ・オア・ア・ゲーム
1959年発売。デビューシングルのタイトル曲を含む56年から58年までのシングル曲を集めた。
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目次 - Contents
- James Brownの概要
- James Brownの活動経歴
- 幼少期から教護院でミュージシャンを志すまで
- 「トライ・ミー」のヒット
- 公民権運動と歴史的名曲「セックス・マシーン」
- グラミー賞と波乱の晩年
- James Brownのプロフィール・人物像
- James Brownのディスコグラフィー
- トップ10シングル
- 主なアルバム
- Please Please Please
- ライブ・アット・ジ・アポロ
- セックス・マシーン
- James Brownの代表曲とミュージックビデオ(MV/PV)
- Please Please Please
- Papa's Got A Brand New Bag
- Out of Sight
- It's A Man's Man's Man's World
- Say It Loud,I'm Black and I'm Proud
- Sex Machine & Super Bad
- Living in America
- James Brownの名言・発言
- 「俺たちはそいつをリズム・ホールドと呼んでいた。まさにそこがソウルの出発点だった」
- 「俺は公民権じゃなく、人権を信じていた」
- James Brownのエピソード・逸話
- ジェームスのライブ最大の見せ場「マント・ショー」