歴史に名を残すファンクロックバンド、Sly & the Family Stone!
人種や性別など関係なく音楽をし続けたサンフランシスコの伝説的なバンド、Sly & the Family Stoneについてまとめた。
Sly & the Family Stoneとは
スライ&ザ・ファミリー・ストーン(Sly & The Family Stone)は、特に1967年から1975年にかけてサンフランシスコを本拠地として活動した、アメリカの人種・性別混合ファンクロックバンド。アバコ・ドリーム(Abaco Dream)名義によるシングルも2枚ある。
メンバー
スライ・ストーン(1944年3月15日 - ):ヴォーカル・キーボード・ハーモニカ。
強烈なアフロヘアともみあげでサングラスをかけ、キーボードを弾き語る。
フレディ・ストーン(1946年6月5日 - ):ヴォーカル・ギター。
スライの弟。
ローズ・ストーン(1945年3月21日 - ):ヴォーカル・キーボード。
スライの妹。ロージーとも名乗る。
シンシア・ロビンソン(1946年1月12日 - ):ヴォーカル・トランペット。
スライの高校時代の友人。後に、スライとの間にシルヴェットを授かる。
ラリー・グラハム(グレアム)(1946年8月14日 - ):ヴォーカル・ベース。
シンシアの親戚。1972年脱退。
ラスティ・アレン(1953年3月13日 - ):ヴォーカル・ベース
1972年加入。
ジェリー・マルティーニ(1943年10月1日 - ):サックス
グレッグ・エリコ(1949年9月1日 - ):ドラム
1971年脱退。
アンディ・ニューマーク(1950年7月14日 - ):ドラム
1973年加入。
オリジナル・メンバーでは、イタリア系の白人であるマルティーニとエリコを除く5人が黒人。途中加入組は黒人(アレン)と白人(ニューマーク)が1人ずつ。
1972年から、予備のサックス奏者としてパット・リッツォ(白人。イタリア系)が加わった。
デビューまで[編集]
スライ・ストーン(本名シルヴェスター・スチュアート)は、テキサス州デントンに生まれた。父K・C・スチュアートは、教会の助祭。幼い頃、一家でカリフォルニア州ヴァレーホに移住。少年時代から音楽の才能を発揮し、1952年には、弟のフレディや2人の妹(ローズ、ヴィエタ・後にヴェット)と共に「スチュアート・フォー」というコーラスグループを結成し、「On the Battlefield of the Lord(主の戦場にて)」というレコードを吹き込んだことがある。
ヴァレーホの高校で、シンシア・ロビンソンと知り合った。フィリピン系の同級生を交えて、ヴィスケインズ(The Viscaynes)という人種混合ドゥーワップバンドを結成したこともある。この頃のスライの芸名は、ダニー・スチュアート。
高校を卒業してから地元のコミュニティカレッジに進み、音楽理論を学ぶ。卒業後、1963年にDJとしてサンフランシスコのラジオ局KSOLに入り、ビートルズやジェームス・ブラウンやボブ・ディランやローリング・ストーンズなど、人種にとらわれない多様な音楽を吸収した。この頃、オータム・レコーズ社で、ボー・ブランメルズやボビー・フリーマン、モジョ・メン、ジェファーソン・エアプレインなどのレコードをプロデュース。同時に、彼自身も数枚のソロシングルを出したが、この時は鳴かず飛ばずに終わった。
1966年に、シンシア達とスライ&ザ・ストーナーズというバンドを結成。同じ頃、弟のフレディがフレディ&ザ・ストーン・ソウルズというバンドを結成。このフレディのバンドにいたのが、グレッグである。1967年、ジェリー・マルティーニの呼びかけに応えて2つのバンドが合体し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが誕生した。スライの末の妹ヴィエタは、メアリ・マクリアリー(後に、レオン・ラッセルの妻となる)やエルヴァ・ムートンと共にコーラスグループ、リトル・シスターの一員として、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのバッキング・ヴォーカルに参加した。
デビューシングル「I Ain't Got Nobody」をロードストーン・レコーズから出してヒットしたところ、CBSレコーズのクライヴ・デイヴィスが評判を聞きつけてアプローチしてきたため、CBSのエピック・レコーズと契約。1967年に、ファースト・アルバム『A Whole New Thing』とシングル「Underdog」を出し、絶賛はされたものの、売り上げの面では失敗に終わった。
全盛期[編集]
デイヴィスから「もっとポップな曲を」と要求されたため、渋々ながら出したシングルが1968年2月の「Dance to the Music」だった。この曲はビルボード8位を記録し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの名を初めて全米に轟かせた記念すべき曲となった。このシングルを出す直前に、ローズが参加している。彼女は、結成当初から参加を勧められていたが、地元のレコード店での安定した職を投げ打つ決断がつかず、先延ばしにしていたものである。
アルバム『Dance to the Music』の売り上げは好調だったが、次に出した『Life』は商業的に成功しなかった。しかし売れ行きに関係なく、この2作のアルバムの影響力は絶大で、1968年9月には英国ツアーも予定されていたが、ラリーがマリワナ所持で逮捕されたために、コンサートはキャンセルとなった。
1968年の暮れに、シングル「Everyday People」をリリース。このバンドにとって初めてのナンバーワンヒットとなった。この曲はあらゆる偏見に対するプロテストソングであり、最も健全だった時期のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの思想を代表している。1969年にはウッドストック・フェスティバルに出演し、愛と平和と人種統合の理想を背景に時代の寵児となった。同年、アルバム『Stand!』をリリース。300万枚を売り上げ、60年代に最も成功したアルバムのひとつとなる。
しかし、同じ頃すでにリーダーのスライ・ストーンは麻薬中毒に侵されていた。スライが薬物に走った理由の一つは人種問題から来る軋轢で、黒人の自立を説くブラックパンサーは、スライに対してグレッグとジェリーをバンドから追い出し、軍事的でもっと黒人寄りの曲を作るように圧力を掛け続けた。薬物の影響で人格に混乱をきたしたスライは、友好的でなくなったラリー・グラハムにバンドの主導権を乗っ取られるのではないかとの妄想に取り憑かれ、銃を振り回し何度となく逮捕起訴されたり、コンサートで大幅な遅刻とキャンセルを繰り返した。そのためにバンドは分解状態となり、プロモーターから見捨てられてしまう。ラリー・グラハムはやがてバンドを解雇され、グラハム・セントラル・ステーションを結成する。1975年1月には、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演の大失敗(僅か8分の1しか客席が埋まらなかった)を機に、とうとう活動を停止した(ただし、公式の解散は1981年)。バンドが崩壊しつつあった時期でも、輝きを放ったアルバムが、1971年11月の『暴動』である。このアルバムは、以前のロックとポップ・サウンドを演奏したスライとは大きく異なる、暗いトーンながらもひじょうにファンキーな作品に仕上がった。ブーツィー・コリンズは、このアルバムを自身のフェイバリットにあげている。また、1973年にはアルバム『フレッシュ』を発表した。フレッシュには「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」も収録されている。このアルバムは、勢いのあった時期のスライのファンキーな作品として評価された。スライは女優キャシー・シルヴァと結婚し、ブッバという息子を授かったが、74年以後のアルバムは精彩を欠いているとの評価がある。70年代後半の佳作としては、"Green Eyed Monster Girl"がある。
隠遁から一時復活へ[編集]
以後、スライはソロアーティストとして数枚のアルバムを出したが、いずれも全盛期ほどの評価は得られなかった。フレディは、グラハム・セントラル・ステーションでの活動を経て一時ショービジネスの世界を離れ、薬物中毒を治して故郷ヴェレーホで牧師となったが、カムバックし今も音楽活動を続けてCDをリリースしている。ローズは、1976年にモータウンから1枚だけアルバムを出した後、やはりショービジネスの世界から足を洗い、フレディの教会で歌っている。
スライは、短期の服役生活を経て1980年代前半には、ジョージ・クリントンやボビー・ウーマックの手助けで音楽界への復帰を試みている。1980年代後半に麻薬中毒から回復し、元タイムのジェシー・ジョンソンのアルバムにも参加した。その後、女助手2名と共にカリフォルニア州ナパバレーで永らく隠遁生活を送っている。時には自宅のスタジオで新曲を録音することもあり、その中の数曲(「Coming Back For More」を含む)はブートレグとして流出している。
2005年8月15日、妹ヴェットが参加しているファミリー・ストーン・トリビュートバンド、ファンク・ファミリー・アフェアーのロサンゼルス・コンサートにスライも加わって久しぶりに人前に姿を現し、演奏の間中ヘルメットを被ったままだったものの、往年のファンたちの間に話題を呼んだ。11月、スライはこのバンドを「ザ・ファミリー・ストーン」と改名した。このほか、ジェリー・マルティーニはザ・ファミリー・ストーン・エクスペリエンスというバンドを結成し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの伝説を継承すべく努めている。
2006年2月8日、スティーヴン・タイラー達によるスライへのトリビュートアルバム『Different Strokes By Different Folks』(2005年7月12日リリース)がグラミー賞にノミネートされたことに伴って、グラミー賞授賞式の会場に、金髪・モヒカン・サングラス・銀ラメスーツ姿のスライが登場し、グレッグ・エリコやシンシア・ロビンソンやヴェット・ストーンたちと共に「I Want To Take You Higher」を演奏した。
2007年7月7日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが結成40周年を記念し、カリフォルニア州サンノゼで20年振りにステージ復帰を果たした。しかし、前座のバンドのパフォーマンスが長引き、彼らが登場した時点で既に指定制限時間を過ぎてしまっていたため、15分間で2曲半を演奏したところで警察によって遮断されてしまった。同12日からはイタリアのペルージャを皮切りとして、同15日のロッテルダムで開催されたノース・シー・ジャズ・フェスティバル、同19日のニース・ジャズ・フェスティバル、同22日のイギリスのラヴボックス・ウィークエンダー・フェスティヴァル、同23日にはパリのオリンピアホール、同28日にはイギリスのボーンマス等を回るツアーを敢行。ニースでは、公演開始10分でスライがステージから立ち去ってしまい、残されたファミリー・ストーンが観客を盛り上げ続ける一幕があった。30分後に大きなサングラスとベースボールキャップ姿のスライが再び現れ、もう10分歌ってステージを後にした。再結成公演の際は然るべき事情があったが、その後のミニワールドツアーでも公演はいずれも短時間で、ブランクと老い、往時を思い起こさせる奇行をも見せたが、復帰を喜ぶファンからは大きな声援と拍手が贈られた。
2008年8月31日東京JAZZ2008、9月2日ブルーノート東京で初来日公演を行った。 この東京JAZZ2008公演には、ラリー・グラハムの様なスラップ奏法を得意とする細野晴臣も観に来ていた。高橋幸宏によれば、『細野さん、「ファミリー・アフェア」を聴いて泣いた』とのこと。[1]
なお、ジョニー・"ギター"・ワトソンの1981年のアルバム『Johnny Guitar Watson & The Family Clone』、スガシカオのツアー・バンド「Shikao & The Family Sugar」のように、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの名前をパロディー化した作品やバンド名も存在する。2010年代には、久しぶりにスライの現況がニュースとして報道されたが、それは著作権を手放し、トレーラー・ハウスで生活しているという知らせだった。
出典: ja.wikipedia.org
Sly & The Family Stoneのサウンドと背景
Sly & The Family Stoneはメンバー同様、様々なサウンドのエッセンスが投入されたバンドである。
しかし、一貫としてファンキーなサウンドが中心となっている。
1967年から活動を始めたことバンドは言わばボーダレスと呼ばれるサウンドの走りかも知れない。
Sly & The Family Stoneの活動を始めた当時は現在よりも人種差別が根強いものだったと伺える。
それにもかかわらず、人種や性別を問わずメンバーをバンドに入れるなど、
今思うととんでもないことをしてしまうのがこのバンドの特徴だ。
最後に
Sly & The Family Stoneは先述したように人種も性別も関係ない。
ファンの層もバラバラで、いまだにアメリカでは再結成するのではないか。など騒がれたりしている。
それほどまでに、このバンドは強烈だったのだ。
アップテンポの曲もできれば、落ち着いた曲もできる。そして、そのどちらもがSly & The Family Stoneという味を持っている。
現在は活動していないものの、音源やライブ映像を探せば多く出てくる。
現在のボーダレスのバンドだけでは物足りない人はそれらを楽しむこともおすすめできるバンドだ。