武満徹(Toru Takemitsu)の徹底解説まとめ

武満徹(たけみつとおる)は、1930年生まれの日本の作曲家。第二次世界大戦中に音楽の道を歩む決意をし、ほぼ独学で作曲家となった。管弦楽曲、ピアノ曲、室内楽曲のみならず、映画音楽やポップスも多く手がけている。1996年2月に、急性肺水腫でこの世を去る。

武満徹の概要

武満徹(たけみつとおる)は、1930年生まれの日本の作曲家。第二次世界大戦中に音楽の道を歩む決意をし、ほぼ独学で作曲家となった。管弦楽曲、ピアノ曲、室内楽曲のみならず、映画音楽やポップスも多く手がけている。また、エッセイストやプロデューサーとしても活躍し、その活動は多くの芸術家、演奏家に、大きな影響を与えた。若手の芸術家集団「実験工房」に所属し、映画音楽やテレビ音楽等で、前衛的な曲を積極的に創作する。代表作に、琵琶、尺八、オーケストラのための、《ノヴェンバー・ステップス》が挙げられる。1996年2月に、急性肺水腫でこの世を去る。

武満徹の活動経歴

1946年、浜田徳昭のもとで記譜法、対位法、和声学を学び、作曲を独学ではじめる。
1947年、五音音階や戦前の楽譜を研究を始める。
1948年、作曲家清瀬保二に師事し、松平頼則、早坂文雄と面識を得る。
1949年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)作曲科を受験する。
1950年、「新作曲派協会」第七回発表会で、ピアノのための《2つのレント》が初演される。
1951年、「新作曲派協会」第八回作品発表会で、《妖精の距離》が諏訪晶子(ヴァイオリン)、伊東昭子(ピアノ)により初演される。「実験工房」第一回作品発表会にバレエ《生きる悦び》を発表する。
1952年、早坂文雄のもとで、映画「長崎の歌は忘れ字」「美女と野獣」の仕事を手伝う。実験工房第四回発表会でピアノ曲《遮られない休息》が、園田高弘のピアノにより初演される。瀧口修三脚本による映画「北斎」の音楽を担当する。
1954年、早坂文雄が担当した黒澤明監督作品「七人の侍」の映画音楽を、佐藤慶太郎、佐藤勝とともに手伝う。
1955年、芥川也寸志や、黛敏郎の映画音楽を手伝う。実験工房第七回演奏会「室内楽作品演奏会」で、《室内協奏曲》が外山雄三指揮、N響メンバーにより初演される。
1967年より、カリフォルニア州立大学客員教授を務める。
1973年より、ハーヴァード大学客員教授を務める。
1975年より、エール大学客員教授を務める。
1978年、フェスティヴァル(ラ・ロシェル)国際現代音楽フルート・コンクール、アメリカ音楽国際演奏コンクールにて、審査を行う。
1980年、カナダ国営放送(CBC)作曲コンクールにて、審査員を務める。
1981年カリフォルニア大学サン・ディエゴ校客員教授
1983年、ハーヴァード大学、ボストン大学、エール大学、コロラド大学などで講義をする。
1983年、メシアン作曲コンクール(フランス)にて、審査員を務める。
1987年、香港で開催された国際現代音楽協会/アジア作曲家連盟(ISCM/ACL)作曲コンクールにて、審査員を務める。
1988年、第1回ニューヨーク国際芸術フェスティヴァル芸術顧問委員を務める。
1989年、東京国際映画祭、インターナショナル・コンペティション審査員を務める。
1990年、リーズ大学名誉音楽博士となる。
1990年、ダラム大学名誉音楽博士となる。
1993年、東京オペラシティ文化施設運営委員会顧問に就任する。
1995年、東京オペラシティ芸術監督に就任する。

武満徹のプロフィール

幼少期から終戦まで

武満徹(たけみつとおる)は1930年、10月8日に、東京市本郷区で生まれた。生後1ヶ月後に、母、武満麗子(たけみつれいこ)と共に、父、武満威雄(たけみつたけお)の赴任先である満州の大連へと移り住む。そこで6年間過ごした後、武満自身が「日本の小学校へ行きたい」と言ったことから、単身で日本に帰国することとなる。帰国後は、箏曲の師範である伯母の元に身を寄せる。伯母の4人の息子達はクラシックが好きで、そこで武満は西洋の音楽を耳にした。
1937年、武満は近所の富士前尋常小学校に入学する。日本語と中国語が混ざった言葉を話す武満は、いじめられることもあった。その頃、武満は映画に熱中していて、よく映画館に通っていた。戦前の映画最盛期に存分に映画を楽しんでいたが、戦争という暗雲が覆い始める。
1945年の3月はじめに、愛する伯母が亡くなる。武満は同じ年に東京大空襲に遭うが、それまでとは人が変わったかのように陰鬱になっていたという。しかしある時に、フランスのシャンソン歌手であるリュシエンヌ・ボワイエの《聞かせてよ、愛のことばを》をレコードで聴いた武満は、心の穴が満たされていく体験をする。この時、戦争が終わったら音楽の道に進むことを、武満は決意した。

音楽の勉強を始める

太平洋戦争終結後、武満は学外で独自に音楽の勉強を始めるが、東宝交響楽団の事務員の紹介で、作曲家の清瀬保二にレッスンを受けることになる。武満の楽譜を見た清瀬は、譜面から溢れ出る、個性を感じ取った。そして、楽譜に手を加えるような教え方はしない方が良いと判断し、武満の芸術観を鍛える内容のレッスンをする。
武満は1950年にピアノ曲「二つのレント」
を発表し、作曲家としてデビューした。しかし、結核を患っていながら無理を続けていたため、血痰を吐いた武満は1953年に入院をする。入院の甲斐虚しく、年が明けても武満の結核菌は消えなかった。しびれをきらして退院を決意した武満は、近所に住んでいた若山浅香(わかやまあさか)に引き取られるかたちで、彼女と結婚する。

映画作曲家としての活動と日本の伝統音楽

武満は1956年の映画「狂った果実」で、映画作曲家としてもデビューを果たす。子供時代から映画が好きな武満は、その後も様々な映画の、主題歌や挿入歌を作曲家した。そして、多くの監督から厚い信頼と高い評価を得ていた。
1960年代に、前衛的な活動をする作曲家と、日本伝統音楽の奏者の間に交流が活発になった。武満も、テレビや劇の中で使用する付随音楽という分野で、日本に関連する映像には和楽器の音を用いていた。しかし、自身の音楽作品では、日本の楽器は用いていなかった。この頃、邦楽界では西洋音楽に歩み寄ろうとする動きがあり、オーケストラの形態を模倣した大人数の合奏や、エレキ琵琶の作成などが行われる。しかし、武満はこうした活動を虚しく感じ、楽器の本質を、実際の鳴り響きから見定めようとした。1966年に武満は、琵琶と尺八の2重奏「蝕(エクリプス)」を書いた。この曲は演奏家が息を合わせるアンサンブルではなく、邦楽の独特な間合いを生かした2重奏である。「蝕(エクリプス)」の初演に立ち会った指揮者、小澤征爾(おざわせいじ)は寒気がするほど感動し、ニューヨークフィルの正指揮者であるバーンスタインに聞かせる。そこから、武満の代表作である、「ノヴェンバー・ステップス」が生まれることとなった。1967年、アメリカのフィルハーモニックホールにて、行われた「ノヴェンバー・ステップス」の初演は、拍手の鳴り止まない大成功を収める。楽屋にはレナード・バーンスタインや、アーロン・コープランドなど、名だたる作曲家が訪れ、武満を絶賛した。武満の作品はアメリカで演奏され続け、1994年に武満は、ルイヴィル大学のグロマイヤー賞を受賞する。異なる音楽文化をつなげる重要な懸け橋を作った人物として評価されたのである。

武満の最期

武満は、現代音楽の第一線で活躍しながらも、ポップスのCDを作るという、前代未聞の事をやってのけた。それは、クラシックとポップスの、見えない壁ともいえるジャンル分けを越える行為といえる。
1995年4月、武満は膀胱に癌が発見され、併せて膠原病も発病していることが、発覚する。9月には退院できるほど回復し、八ヶ岳高原音楽祭に参加した。その後も作曲を続けるが、1996年2月の20日に呼吸困難に陥り、その日に眠るようにして亡くなる。

武満徹の主な作品

弧(アーク)
ア・ウェイ・ア・ローン
秋庭歌ー具
アステリスム
ア・ストリング・アラウンド・オータム
雨ぞふる
雨の樹
雨の樹 素描
雨の呪文
アントゥル=タン
波(ウェイブズ)
ウォーターウェイズ
ウォーター・ドリーミング
海へ
エア
エキノクス
蝕(エクリプス)
オリオン
オリオンとプレデアス
ガーデン・レイン
カシオペア
風の馬
カトレーン
環礁
ギターのための12の歌
樹の曲
グリーン
クロス・トーク
群島S.
系図
弦楽のためのレクイエム
遮られない休息
サクリファイス
ジェモー
四季
シグナルズ・フロム・ヘヴン
ジティマルヤ
地平線のドーリア
十一月の霧と菊の彼方から
November Fog
スタンザⅠ
スペクトラル・カンティクル
すべては薄明のなかで
精霊の庭
セレモニアル
そして、それが風であることを知った
ソリチュード・ソノール
ソン・カリグラフィ
ディスタンス
手づくり諺
トゥイル・バイ・トワイライト
トゥリー・ライン
トゥワード
遠い呼び声の彼方へ!
閉じた眼
鳥は星形の庭に降りる
鳥が道に降りてきた
波の盆
虹へ向かって、パルマ
ノスタルジア
ノヴェンバー・ステップス
ハウ・スロー・ザ・ウィンド
ピアニストのためのコロナ
ピアノ・ディスタンス
悲歌
ヴィジョンズ
ビトゥイーン・タイズ
ファンタズマ/カントス
フォー・アウェイ
フォリオス
二つのレント

ブライス
フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム
声(ヴォイス)
星・島(スター・アイル)
マージナリア
マイ・ウェイ・オヴ・ライフ
マスク
水の曲
径(みち)
三つの映画音楽
夢窓
ムナーリ・バイ・ムナーリ
巡り
森のなかで
ユーカリプス
夢の引用
夢の時
夢の縁へ
夢みる雨
揺れる鏡の夜明け
妖精の距離
リヴァラン
リタニ
環(リング)

武満徹の名言・発言

「私は生きることに自然な自然さというものをとうとびたい。それを"自然"とよびたい。」

武満は作曲と並行して、エッセイストとしても活躍していたが、その頃に語った一節である。武満にとって、作曲の重要な要素のひとつが自然であった。水、樹、鳥、海といった自然をモチーフにした曲を、数多く作曲し、それらの曲は多くの他の作曲家達に影響を与えている。また、曲のタイトルでも、武満は自然に関連する言葉を繰り返し用いている。

「東洋は一つではなく、宇宙全体がひとつで『私』であるということでいかなければウソじゃないかという気がするのです」

「新作曲派協会」に所属していた、早坂文雄(はやさかふみお)についての座談会で、武満が発した言葉である。早坂の創作は、武満に大きな影響を与えたが、異なる考え方を持っていた部分もある。早坂が洋の東西を問うのに対し、武満は問題にすべきは個人であるという考え方から、この言葉を発した。

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