Bobby Brown(ボビー・ブラウン)とは【徹底解説まとめ】

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)とは、1969年2月5日生まれのアメリカのR&Bシンガー。1983年ニュー・エディションのメンバーとしてデビュー。ソロ転向後、1988年のセカンド・アルバム『ドント・ビー・クルエル』が全米アルバムチャート年間1位を獲得し、世界中にニュージャックスウィング旋風を巻き起こす。1990年と1993年にグラミー賞「最優秀男性R&Bヴォーカル・パフォーマンス賞」を受賞。1992年にはホイットニー・ヒューストンと結婚し話題を呼んだ。

ボビーは、1989年の 「Soul Train Music Awards」のバックステージでホイットニーと出会い、彼女に一目惚れした。「彼女の目には、僕の心まで溶かすような魅力があった。僕たちが出会ってから一緒にいた最後の日まで、彼女が僕を見つめる目はいつも特別だった。」と語っている。
1992年ボビー・ブラウンはホイットニー・ヒューストンと電撃結婚した。ホイットニーは当時『ボディガード』で映画デビューを果たし、世界中で約480億円以上売り上げ人気の絶頂だった。ボビー・ブラウンはホイットニーより6歳年下だった。しかし結婚後すぐに夫婦の亀裂は始まる。「オールウェイズ・ラヴ・ユー」が爆発的なヒットをしたが、ボビーはそのことで「ホイットニーに嫉妬してるだろう」といわれてイライラしていた。ボビーは暴力を振るうようになり、またボビーの浮気も日常茶飯事となった。その後もホイットニーに対するボビーの暴力はエスカレートし、暴力から逃れるためにホイットニーはドラッグを選んだ。ドラッグ中毒やアルコール依存症はホイットニーの後半生の代名詞になった。1997年に日本を訪れた時も、ボビーは口論の末、高速道路で50万ドルの結婚指輪を投げ捨てたことがあった。そんなときもホイットニーはドラッグに逃げた。
2006年、ボビーとホイットニーの離婚が成立した。離婚原因は薬物常習や暴力の噂があったが、2人は再婚予定だったとも言われていた。
離婚から2年後、ホイットニーは舞台に復帰したが、2010年のツアーでは高音が出なかった。ホイットニーはふたたびアルコール依存に戻る。そしてホイットニーは2012年2月にビバリーヒルトン・ホテルの浴槽で倒れている姿を発見され、その後に死去。死因は心臓発作とコカインの使用が合わさった浴槽での溺死だった。
ホイットニーの死後、ボビーは2人の結婚生活について次のようにコメントしている。
「2人の結婚生活は混乱の連続だったけれど、しかし波乱な毎日の中でも僕たちはどこか心の奥深くで強い絆で結ばれていたと思うんだ。確かに薬とお酒に溺れる生活の中でお互いを言葉で傷つけ合う毎日だったけれど、でも僕は今でも2人はそれ以上に愛し合っていたと確信している」。

ボビー・ブラウン「彼女はドラッグのせいで死んだんじゃない」

ボビー・ブラウンはローリングストーン誌のインタビューで、元妻の故ホイットニー・ヒューストンの死因について持論を述べている。2018年に亡くなったホイットニーについて彼は、「彼女は薬物を断とうととても努力していた。彼女は素晴らしい女性だった」と振り返り、死因はドラッグではなく、失意だったと語っている。
また、2015年に22歳で亡くなった娘については、元交際相手でホイットニー・ヒューストンの内縁の息子でもあったニック・ゴードンがこの不可解な死に関わったとされており、実際に裁判では3,600万ドル(約38億円)の支払いを命じられているだけに、「あいつがまだ自由に歩き回っていることが不満だ」とも語っていた。(ニック・ゴードンも2020年に30歳の若さで亡くなっている)
全盛期にはそのワイルドで革新的なスタイルが全世界の若者達を虜にしたが、1992年にホイットニー・ヒューストンと結婚してからは、ドラッグやドメスティック・バイオレンス、交通違反といった不祥事をたびたび繰り返してファンの信頼を失い、ホイットニーのファンからも、ボビーと結婚していなかったらこんなことにはならなかったとされ、完全に疫病神のような存在に成り下がってしまった。もともとニュー・エディションの脱退も素行不良が原因だったが、その行きすぎたバッドガイぶりが改善されることはなく、結果本人の凋落と共に妻と娘、そして息子までもが亡くなるという最悪の結末につながることとなった。
ボビー自身は薬物を断ってもう20年近くなるが、誘惑に負けない秘訣は自身の子どもたちだと語っている。「子供達への愛。また子供達がくれる愛」に助けられていると言い、「大きくなった子供達は俺について何もかも知ってるけれど、それでも愛してくれる」と笑う。また、マネージャー兼、妻でもあるアリシアにも大きく助けられており、「薬物を断った時、もう二度と手を出さないと決めた」と語っている。
ソロ活動としては、テディー・ライリーとベイビーフェイスをプロデューサーに迎え、2012年の『ザ・マスターピース』以来のニュー・アルバムを制作する予定だったが、コロナ以降延期されている。

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話

ボビー・ブラウンの子供は合計7人

ボビー・ブラウン・ジュニア(下段左端)とボビー・クリスティーナ・ブラウン(下段右端)

ボビー・ブラウンには計7人の子供がいるとされるが、そのうち2人は亡くなっている。順を追ってみる。
まず、ホイットニー・ヒューストンと結婚する前に交際していた恋人との間に3人の子供がいる。1986年、当時交際していたメリカ・ペインとの間に息子ランドン・ブラウンが誕生。ボビー・ブラウン自身もまだ17歳であった。1990年には当時の恋人キム・ウォードとの間に娘のラプリンシア・ブラウンが、1992年に息子のボビー・ブラウン・ジュニアが誕生。
次に、ホイットニー・ヒューストンとの間には娘が1人生まれている。1992年に結婚したホイットニー・ヒューストンとの間には、1993年に娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンが誕生した。
ホイットニーとの離婚後、2010年に再婚したアリシア・エスリッジとの間には3人の子供が生まれた。2009年に息子のカシアス・ブラウンが、2015年に娘のボディ・ジェームソン・レイン・ブラウンが、2016年に娘のヘンドリックス・イステル・シバ・ブラウンが誕生した。

元妻であるホイットニー・ヒューストンは、グラミー賞の受賞式を翌日に控えた2012年2月11日、ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテルの4階客室の浴槽の中に倒れていたところを発見され、その後死亡が確認された。48歳という若さだった。遺体からコカインが検出され、入浴中にコカインの影響で心臓発作が起こし、浴槽で溺死した可能性が高いという検死結果になった。
そしてその3年後の2015年1月31日、ホイットニー・ヒューストンとの間に生まれた唯一の娘であるボビー・クリスティーナ・ブラウンが、自宅の浴槽で倒れているところを発見され、半年後の7月に死去した。22歳だった。当時の交際相手だったニック・ゴードンは、故ホイットニー・ヒューストンが本当の息子同様に面倒を見ていた“秘密の息子”と言われていたが、正式には養子ではなかった。ボビー・クリスティーナの死亡現場にはニック・ゴードンと客1人がいて、その後の裁判では、ゴードンが「夜通しコカインを吸引し、酒を飲み明かした後、ボビー・クリスティーナに暴言を吐くなどした上、薬物の入ったカクテルを飲ませ、意識を失ったボビー・クリスティーナの顔を冷たい水の入った浴槽につけたことが、脳損傷を引き起こした」と主張した。警察はボビー・クリスティーナの死が事故か、故意の殺人か判断がつかないと発表していたが、検死の結果、ボビー・クリスティーナの体内からは大麻、アルコール、コカイン、モルヒネが検出された。裁判所は2016年、ゴードンに対し3600万ドル(約40億円)以上の賠償金の支払いを命じていたが、そのニック・ゴードンも2020年1月に30歳の若さで死去した。

ホイットニーとの結婚前の交際相手だったキム・ウォードとの間に生まれたボビー・ブラウン・Jr.が2020年11月18日、ロサンゼルスの自宅で死去した。28歳だった。ボビー・ブラウンJr..は、成長してからは父と同じ音楽の道を進み、死の前年にはSNSで新曲を発表していた。しかしその後、コロナ禍でうつ状態に陥っていたようで、5月には「自主隔離生活に耐えられない」とツイートしていた。死因は「アルコールとコカイン、フェンタニル(鎮痛剤)の併用による事故死」であったとされた。また事故当日には、友人らとテキーラを飲み、コカインや処方鎮痛剤であるオキシコドンを摂取していたことが明らかにされた。
息子の死後、ボビー・ブラウンは声明を発表し、「この苦しみを表す言葉などない」と悲しみの胸中を明かした。
結果、ボビー・ブラウンは元妻と娘、そして息子まで薬物で失うことになった。

日本でのボビー・ブラウン・ブーム「ボビ男」「ダンス甲子園」「J Soul Brothers」

ボビー・ブラウンは音楽面だけでなく、ファッションも含めて日本の若者達にも多くの影響を及ぼした。
日本ではちょうどバブルが真っ盛りの頃、髪の毛を四角い形に刈り上げて、だぶだぶのジョッパーズパンツを履き、肩パットの入った短めの服を素肌に羽織り、肌を日焼けして夜のクラブで踊る若者、いわゆる「ボビ男」が街に溢れた。黒人になりたい日本人、特にポピー・ブラウンになりたい若者が増え、社会現象となった。
また、影響は音楽だけでなくダンスにまで及び、『天才・たけしの元気が出るテレビ』の名物企画「ダンス甲子園」が生まれたのもまさにボビー・ブラウン現象の一環だった。クラブに通う若者だけでなく、その影響は高校生にまで広がり、ボビー・ブラウンやMCハマーのような格好をした高校生達がダンスを競い合った。元タレントで国会議員の山本太郎も実はこのダンス甲子園に参加しており、この出演が遠因で山本太郎は高校を退学している。因みにダンス甲子園での山本太郎のダンスは「ボビ男」の影響は全く無く、完全に受け狙い路線であったが、ボビー・ブラウンから派生したダンスブームは大きな広がりを見せていった。
1991年にボビー・ブラウンが来日した際に、クラブで踊っていた当時ZOOのメンバーのHIRO達を「Japanese Soul Brothers」と名付け、ボビーのステージに上げた。これによりHIROは「J Soul Brothers」を結成、このJ Soul Brothersがその後EXILEへと改名する。また、新しく結成し直されたJ Soul Brothersは「3代目J Soul Brothers」へと続いていく。因みにボビー・ブラウンもHIROも同じ1969年生まれである。
ニュージャックスウィング伝道者としてのボビー・ブラウンの登場は、それまで白人、黒人と分断されていたアメリカのポップチャートに、R&Bやヒップホップのアーティストが上位にランクインする流れを作り、そして日本でも、アメリカでの動向を追う形で流行し、ダンス番組「DADA LMD」や同番組が輩出したダンスボーカルユニット「ZOO」を生み出し、その系統として国民的ダンス&ボーカルグループ・EXILEが誕生した。EXILEは「New Jack Swing」という名の楽曲も発表している。

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