仁義なき戦い

仁義なき戦い

『仁義なき戦い』は、深作欣二監督による1973年に公開された日本映画である。原作は飯干晃一による『週刊サンケイ』連載ノンフィクション・ノベル『広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い』。主演は菅原文太。脚本は笠原和夫。音楽は津島利章。
舞台は終戦直後。闇市をうろついていた復員兵の広能が暴力団組員になって徐々に頭角を現していき、やがて広島最大の組織になる。そして血で血を洗う暴力団同士の抗争が激化していき、やがて陰謀術数が渦巻き血で血を洗う「広島ヤクザ抗争」が幕を開ける。
この作品はそれまでの時代劇の延長線上に存在する義理と人情の任侠映画とは異なっており、戦後の広島を舞台に、実在する暴力団の抗争をドキュメンタリー風の生々しい迫力で描いたリアリティ重視の実録風の映画に仕上がっている。
そして本作は大ヒットし、シリーズ化が決定した。深作欣二監督と菅原文太によるオリジナル5部作の後に、主人公が変更となった新シリーズ3部作が公開、更に工藤栄一監督による『その後の仁義なき戦い』の後に、2000年当時の大阪を舞台としたリメイク版『新・仁義なき戦い。』が制作されている。

仁義なき戦いのレビュー・評価・感想

仁義なき戦い
7

仁義なき七人

ヤマモリセブン最後のピースは、山守に変わって若杉が獄中で盃をかわした広能昌三。出所シーンではじめて姿をあらわす山守。ヤマモリセブンの勢ぞろいである。勘兵衛ならぬリーダー山守義雄のもとにつどった六人の若者がともにやくざの道にはいり土居組へとなぐりこみをかけるという七人の愚連隊ともいうべき作品。アメリカングラフィティのようでもあるがラブはなく義理人情をかいしきれずあやうい友情にいきしぬその素人感が新鮮。メンバーそろったあとは前半この若杉寛を中心に土居組との抗争がえがかれる。山守は勘兵衛とちがい頭だけで腕はたたない。いつも腕は外から調達しつかいすてる。まず若杉がこのつかいすての腕にされしぬ。映画はここまでが前半でガゼン溌剌としているが後半はイッキにトーンダウンする。後日談がナガナガとかたられるのだ。アメリカングラフィティで写真とテロップだけで処理された七人のその後のようなものがトーンダウンしたタッチでズルズルとえがかれる。ヤマモリセブンの崩壊が残酷にえがかれる。このトーンの激変を一本で二本分の映画としておいしいと捉えるか無駄にながいととるかで評価がわかれるとおもうが筆者はガゼン前者である。このハタンこそ本作がヤクザ映画をこえていや映画さえこえてひとつの事件になっていることをしめしているからだ。この第一作にはシリーズすべての要素がもうすでにパンパンにつまっている。本作のラストシーンは頂上作戦のラストシーンと同義だ。本作のラストシーンのあとで広島死闘篇なる余韻がつづくのと同様に頂上作戦のラストシーンのあとには完結篇というやはり異形の余韻がつづく。七人の侍ではないが三人いきのこり四人しぬ。もし本作の後半をアメリカングラフィティのようにテロップであらわせば以下のかんじだろうか。広能昌三。山守とたもとをわかち独立。山方新一。ポン中に射殺され女は坂井にねとられる。槇原政吉。幾度とねがえるが結局山守の元におさまる。新開宇市。坂井にやられる。矢野修司。新開べったりになりやはり坂井にやられる。神原精一。若杉にやられる。山守義雄。存命。たしかにアメリカングラフィティっぽくドラマチックにはなるがそれでは明朗すぎるのだ。やはりズルズルダラダラの後半あってこそなのだ。松方弘樹の前半と後半でのおなじ人物とはおもえないほどの激変っぷり。シリーズ全体の彼を予感させ濃縮したかんが本作にはやはりある。やはりシリーズ中いっぽんえらべとなるとやはり本作だろう。とくに山方はかなしい。典型的ないいやつキャラ。なのにいっちゃったポン中にうたれるのだ。おまけに女までねとられ。神原と新開そして矢野もしんでしまう。神原はスネオキャラでいちはやくねがえってころされる。新開はよくある皮肉クールキャラといったところか。いいところまでいくのだがやはりころされてしまう。矢野はよくあるグズキャラ。でもいい味だしてて筆者はすきである。神原がヤマモリセブン最初の殉職者。ある意味いきのこった広能槇原山守というのはまだキャラをはっきりみせないからいきのこったともいえる。若杉寛。上田透。坂井鉄也。といったいわゆるスポコンアニメ系ライバルキャラの魅力もすばらしく。若杉なんかもうあきらかに力石徹である。あと当初反目しあっていた上田と坂井がもうほれぼれするような親友どうしになっていくところなどもめがはなせない。