『破戒』(はかい)とは、1906年に出版された島崎藤村の長編小説および、それを原作とした実写映画、ドラマ作品。古くから続く身分制度を基準とした差別が根強く残った明治時代、自身の出自を隠しながら長野県の飯山で小学校の教諭として暮らしている1人の男が、自分というものを深く見つめ直す姿が描かれる。原作小説は差別的な表現が多いとして度々取り沙汰されてきたが、実写作品の題材としては屈指の人気を誇り、1961年には異なるテレビ局で原作を同じくした2作品のドラマが制作されるという、珍しい事例も発生している。
『破戒』の概要
『破戒』(はかい)とは、1906年に出版された島崎藤村の長編小説および、それを原作とした実写映画、ドラマ作品。ロマン主義の詩人として台頭していた島崎藤村が、自身初の小説として発表し、日本における自然主義文学の先陣を切った作品ともいえる。『吾輩は猫である』などの作品で人気を博した夏目漱石も「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」と本作を絶賛したことで知られている。
当初は自費出版での発表となり、1913年に当時の2000円という高額で新潮社が買い取って出版される形で世に広く出回ったが、作中に登場する用語が差別的だとして度々取り沙汰され、原文そのままを使うかどうかが議論されてきた。このため、版によっては表現が修正されたり、注釈を伴う形で刊行されていることも多い。
しかしこの一方で実写化作品の題材としては人気を博しており、1948年と1962年にそれぞれ実写映画化がなされ、2022年には全国水平社創立百周年記念映画として約60年ぶりに映画化されたことでも話題となった。さらに、1954年と1961年には実写ドラマ版も放送されており、1961年にはNETテレビと日本テレビの異なるテレビ局で2作品が制作されるという、きわめて珍しい事例も発生している。
古くから続く身分制度を基準とした差別が根強く残った明治時代。長野県の飯山で小学校の教諭として暮らしている瀬川丑松は、自身が被差別部落の出身であるという出自を絶対に明かさないよう、実の父から固く言い含められて大人になった。しかし、自分が被差別部落出身であるという出自を堂々と語り、社会的弱者のために動き続ける猪子蓮太郎との出会いや彼の壮絶な死を経て、徐々に自分の存在というものと向き合いたいという欲求が生まれ始める。
当時の身分格差の実情と、多くの人がモラトリアム期に経験するであろう親と自分との間に生まれる確執を生々しく描いた物語で、幅広い年齢層の人々の心を動かしている。
『破戒』のあらすじ・ストーリー
ある教師の苦悩
教師として長野県飯山市の小学校に赴任することになった瀬川丑松(せがわうしまつ)は、下宿を引き払って、蓮華寺という寺へ引っ越すことを決める。彼が引っ越しを決意したのは、下宿先に大日向という人物が現れたことがきっかけだった。大日向が被差別階級の出身であることを理由に入院先の病院も下宿も追い出されているのを、丑松は目の当たりにしてしまったのだ。彼と同じく被差別階級の出身だった丑松は、これに憤慨したのである。
幼少期から丑松は、被差別階級としての扱いを周りから受けて育ってきた。丑松が8歳になる頃、丑松の父は身分を知られていない根津村の小学校に丑松を入学させ、出自を語らないように固く言いつける。父は叔父夫婦とともに近くに居を構え、牛追いの仕事を見つけて生計を立てるようになった。
やがて丑松は、22歳の時に飯山の小学校教師になった。父の言いつけを守り、自身の出自について口にすることがなかった丑松が被差別階級出身だということを知る者は、誰一人としていなかった。
こうして表向きは普通の生活を送っていた丑松だが、内心では自分の出自が周りに知られることへの恐怖心を抱いていた。
校長との対立
赴任先の小学校で、丑松は生徒から慕われるようになっていった。師範学校時代からの親友である土屋銀之助(つちやぎんのすけ)も同じ小学校に勤務することになった。銀之助は、どこか悩んでいる様子を見せる丑松を心から心配していた。
丑松の同僚には風間敬之進(かざまのりのしん)という初老の教師がいた。元は飯山の藩士だった風間だが、零落して教員になったという過去があった。二人目の妻と多くの子供を抱え、貧乏な生活を余儀なくされている風間に対し、丑松は深い同情を寄せることになる。
その風間の長女であるお志保は、丑松の住まいである蓮華寺に奉公に出ていた。そのため、蓮華寺で暮らしている丑松とは面識はあったのだが、会話を交わすことはなかった。
風間の長男である省吾は、丑松の受け持つ生徒のひとりだ。お志保と省吾は風間と先妻の間にできた子で、今の母親からはあまり可愛がられていない様子だったことから、丑松は不遇な立場にあるお志保と省吾に対しても気持ちを寄せていた。
勤務先の小学校の校長は、丑松や銀之助のことを良く思っていない様子を見せていた。校長は軍隊風に生徒を規律正しく教育することを目指していたので、彼らのように生徒と絶対的な上下関係を築かない手合いの教師とは相性が悪かったのである。彼らに対する憎悪を募らせた校長は、新任教師の勝野文平(かつのぶんぺい)を味方に引き入れ、丑松や銀之助を辞めさせる口実を探ってくるよう命じる。
猪子蓮太郎との出会い
丑松は被差別階級出身の運動家、猪子蓮太郎(いのこれんたろう)という人物を崇拝していた。蓮太郎は丑松が入学するより前に長野の師範校に心理学の講師として在籍していたのだが、自身の出自が知れ渡り、身分を明かして退職していたという人物だ。蓮太郎はその後、被差別階級の地位向上のため、様々な著書を残した。彼の本は世間にも影響を及ぼすほどの評価を獲得しており、丑松自身も蓮太郎の著書を全て読むほどのファンになったのだ。
ある日、父の訃報を受け取った丑松は、幼少期を過ごした根津村へと帰ることになる。丑松が村へ向かう汽車に乗ると、そこには憧れの猪子蓮太郎の姿があった。
蓮太郎は、この冬代議士の選挙に立候補しようとしている市村(いちむら)という弁護士を連れていた。市村は長く政治に携わり、社会的弱者の味方になって活動している人物として知られている。蓮太郎は彼の選挙活動を応援するために帯同しているということらしかった。丑松は以前から蓮太郎と面識はあったものの、この時初めて彼らと交流を深めることになる。
丑松と蓮太郎が乗った汽車には、高柳利三郎(たかやなぎとしさぶろう)という、今回の選挙に立候補している男も偶然乗り合わせていた。高柳は丑松と顔見知り程度の面識はあったが、高柳は明らかにこちらを避けているそぶりだった。
その後、丑松は蓮太郎から「高柳は、飯山で演説をした後、丑松の故郷の近くにある差別階級出身の娘と結婚するために移動していた」という話を聞かされる。高柳の婚約者の家は、被差別階級でもかなりの財産を成しており、高柳にとっては金目当ての結婚ということのようだ。被差別階級の女性との結婚を隠しながらも、金のために利用しようとする高柳の行動に憤った蓮太郎は、この選挙で絶対に市村を勝たせたいと息巻いていた。
絶望する丑松
父の葬儀の最中、丑松は身分について深く考えるとともに、お志保のことを頭の中に思い描く時間が多くなっている自分自身に気が付いた。丑松は、自分がお志保に好意を抱いていることを自覚する。
丑松は飯山に帰ってきた。時を同じくし、蓮華寺には不在にしていた住職が修行を終えて戻ってきていた。住職は女性への執着が強い人物で、言い寄られたお志保が傷ついていることを丑松が知るのに、そう時間はかからなかった。
その頃、丑松が被差別階級出身であるという情報を妻の実家で偶然耳にした高柳が、勝野文平にそれを話していた。勝野は校長へその情報を流し、やがてその噂は学校中に広まっていく。
お志保を助けようと思っても助けられず、自分の身分が知れ渡って職すらも失うことになる、と悟った丑松は絶望し、死ぬことを考えるようになった。そこで丑松は、ちょうど市村の応援演説のために飯山を訪れていた蓮太郎にだけは、死ぬ前に自分の出自を伝えようと考える。
病に蝕まれ、吐血しながらも演説に挑む蓮太郎の姿は勇ましく、人々の心を動かした。その演説の終わりに、蓮太郎は市村のライバル候補である高柳の結婚について、その卑しい動機を暴露した。しかし、演説を終えた蓮太郎はその後すぐに高柳派に襲撃されて命を落としてしまった。自死の前に自分の出自を伝えたい、という丑松のささやかな願いは、そこで潰えてしまう。
破戒と旅立ち
蓮太郎の死に打ちひしがれる丑松だが、徐々に父の訓戒を破る勇気が湧いてきた。丑松はその翌日、生徒たちに自分の身分を告白した。職員室で事情を知った銀之助は丑松を助け出して家に帰してやると、その足でお志保の元を訪れた。常に丑松のことを心配していた親友は、丑松がお志保を慕っていることに気づいていたのである。銀之助は彼女に、丑松の力になってほしいと頼み込んだ。お志保はその切実な頼みに対し、そのつもりでいる、と答えた。お志保もまた、丑松のことを慕っていたのだ。
丑松は蓮太郎の弔いに参加することにした。蓮太郎の友人であった市村は、故人の遺志を成就させるため、選挙活動は継続する意思を表明していた。
丑松が自分の出自を明かしたことで飯山にいられなくなったと知った市村は、「費用は受け持つから、蓮太郎の妻と共に東京に出て、蓮太郎の遺骨を守ってほしい」と申し出た。さらに市村は、丑松が下宿先にいた当時に宿を追放された大日向が、アメリカのテキサスで農業に挑戦しようとしていることも話してくれる。
こうして、大日向と共にテキサスへ行くという新たな夢をもって、丑松は飯山を離れることになった。丑松とお志保の身の上を聞き、彼らの境遇に深い同情を寄せた蓮太郎の妻は、行く行くはお志保を東京に呼び寄せ、2人を結婚させると言ってくれた。
お志保に束の間の別れの挨拶をして飯山を出発した丑松は、静かに涙を流すのであった。
『破戒』の登場人物・キャラクター
主要人物
瀬川 丑松(せがわ うしまつ)
2022年実写映画版の丑松
1948年実写映画版演者:池部良
1962年実写映画版演者:市川雷蔵
2022年版実写映画演者:間宮祥太朗
本作の主人公。飯山の小学校に務める青年教師。心優しく、子どもたちからも慕われているが、古い考えを持つ校長からは煙たがられている。父の言いつけを守り、被差別部落出身であるという出自を隠しながら生きてきた。
猪子 蓮太郎(いのこ れんたろう)
左が蓮太郎(2022年実写映画版)
1948年実写映画版演者:滝沢修
1962年実写映画版演者:三國連太郎
2022年版実写映画演者:眞島秀和
被差別部落出身の思想家。自身の出自を「我は穢多なり。」と世に公言し、多くの著書を残している。病に蝕まれながらも下層社会の現実を精力的に告発する姿で「新平民中の獅子」として支持を集めており、丑松が最も崇拝している人物でもある。友人の市村弁護士の選挙支援のため飯山にやってきたところで丑松と仲良くなる。
お志保(おしほ)/志保(しほ)
2022年実写映画版のお志保(志保)
1948年実写映画版演者:桂木洋子
1962年実写映画版演者:藤村志保
2022年版実写映画演者:石井杏奈
風間敬之進と先妻の間に生まれた長女。貧しい境遇のため、蓮華寺に奉公に出ている。蓮華寺に下宿している丑松と知り合い、少しずつ惹かれあっていく。2022年版では名前が「志保」になっている。
目次 - Contents
- 『破戒』の概要
- 『破戒』のあらすじ・ストーリー
- ある教師の苦悩
- 校長との対立
- 猪子蓮太郎との出会い
- 絶望する丑松
- 破戒と旅立ち
- 『破戒』の登場人物・キャラクター
- 主要人物
- 瀬川 丑松(せがわ うしまつ)
- 猪子 蓮太郎(いのこ れんたろう)
- お志保(おしほ)/志保(しほ)
- 土屋 銀之助(つちや ぎんのすけ)
- 飯山の住人たち
- 校長(こうちょう)
- 奥様(おくさま)
- 住職(じゅうしょく)
- 勝野 文平(かつの ぶんぺい)
- 風間 敬之進(かざま のりのしん)
- 省吾(しょうご)
- 政治関係者
- 高柳 利三郎(たかやなぎ としさぶろう)
- 市村(いちむら)
- その他
- 丑松の父
- 『破戒』のテレビドラマ版キャスト
- 1961年 NETテレビ版
- 1961年 日本テレビ版
- 『破戒』の用語
- 飯山(いいやま)
- 根津村(ねづむら)
- 蓮華寺(れんげじ)
- 穢多(えた)/新平民(しんへいみん)
- 『破戒』の名言・名セリフ/名シーン・名場面
- 瀬川丑松「――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。」
- 『破戒』の裏話・トリビア・小ネタ/エピソード・逸話
- 実在のモデルが存在する『破戒』の登場人物
- 『破戒』の原作小説と映画版の違い・相違点
- 1962年実写映画版では蓮太郎の後継者として指名されていた丑松
- 2022年実写映画版では部落出身者に対する呼称が「穢多」に
- 2022年実写映画版の丑松とお志保が2人で与謝野晶子を読むシーン
- 2022年実写映画版では丑松が一番初めに出自を明かすのが銀之助に
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