TOTO(トト)とは【徹底解説まとめ】

TOTO(トト)とは、アメリカ、ロサンゼルスの凄腕スタジオミュージシャン達が集まって1977に結成されたバンドである。1978年、アルバム『TOTO~宇宙の騎士』でデビュー、1982年のアルバム『TOTO Ⅳ~聖なる剣』はグラミー賞6部門を制覇、「ロザーナ」「アフリカ」といったロック史に残る名曲を発表した。また、メンバー各々がスタジオミュージシャンとしても活躍し、関わったアルバムは5000枚にも及ぶといわれている。結成40周年を超えた今も世界を巡り活動を続ける、ロック界のレジェンドである。

2013年、TOTOは35周年を迎えた。2014年11月5日、TOTOとデビッド・ぺイチの公式Facebookページで、新しいスタジオ・アルバムが制作中であり、バンドは2014年初めにスタジオに入る予定であることが発表された。2014年1月18日、TOTO2代目ボーカリストのファーギー・フレデリクセンが肝臓癌との長い戦いの末に亡くなった。2014年1月23日にバンドの公式ウェブサイトを通じて、サイモン・フィリップスがソロ活動を進めるために20年以上在籍したTOTOを去ったことを発表した。後任には元スティーリー・ダンのドラマー、キース・カーロックが就任した。また、ベースのネイザン・イーストが抜けた穴には、初代ベーシストのデヴィッド・ハンゲイトが再び参加した。そして春には元ドゥービーブラザースのマイケル・マクドナルドも参加したアメリカツアーを行った。2015年、TOTOは14枚目のスタジオ・アルバム『XIV~聖剣の絆』をリリースした。前作から9年ぶりのニューアルバムだった。
2015年3月15日、元ベーシストのマイク・ポーカロは、ロサンゼルスの自宅でALSとの戦いの合併症で死去した。

2018~:40周年、そして2度目の活動休止

2018年2月9日、TOTOは40周年記念アルバム『40トリップ・アラウンド・ザ・サン』をリリースし、その後ワールドツアーに乗り出した。ラインナップは、ジョセフ・ウィリアムズ、スティーブ・ルカサー、デビッド・ぺイチ、スティーブ・ポーカロ、この4人が不動のメンバーとなり、ツーリングミュージシャにレニー・カストロ、シャノン・フォレスト、ウォーレン・ハム、シェム・フォン・シュレックがラインナップされた。以降、ベース、ドラムのリズム隊には正式メンバーを募っていない。2018年7月20日、TOTOは、デビッド・ぺイチが、自分の健康のことに専念するために北米ツアーに参加しないことを発表。健康状態が戻ったらバンドに復帰すると述べ、ツアーの代役は、プリンスや、スナーキー・パピー等のバックで活躍した若干25歳のドミニク・エグゼヴィア・タプリンが務めた。2018年11月6日、バンドは15枚目のスタジオ・アルバム『Old Is New』を収録したボックスセット『オール・イン』をリリースした。これには『40トリップ・アラウンド・ザ・サン』で既に発表された新曲3曲に加えて、ドラムの故ジェフ・ポーカロとベースの故マイク・ポーカロ、またはデビッド・ハンゲイトとの昔の音源を掘り出してリライトしなおした4曲を収録した。2018年にはデビュー40周年を記念した大規模なワールド・ツアー「40TRIPS AROUND THE SUN TOUR」をスタート、翌19年2月には17回目となる来日公演も実現させ、日本武道館を満席にした。1998年の「パメラ」以降、チャート的にはヒットソングは生まれていないTOTOだが、その人気は40周年を迎えても全く衰えておらず、世界中どこの国に行ってもアリーナを満席にすることができる、まさにスーパーバンドである。同ツアーは10月のフィラデルフィア公演をもって終了。メンバーの健康上の問題もあり、ルカサー、ペイチ、スティーブ・ポーカロ、ジョセフの4人である現体制での活動を終え、当面の間、活動休止期間に入ることを発表した。スティーヴ・ルカサーは『Misplaced Straws』のインタビューで「スタジオにおけるTOTOの将来」について問われると、「TOTOのニュー・アルバムはない」と答えた。「俺らは、俺らがやるべきことを続けていく。ジョー(ジョセフ・ウィリアムス)と俺は、我々の何人かが参加するアルバムを作るかもしれない。しかし俺らはTOTOとして公演は行う。オーディエンスがいれば、俺達は前に進む」と述べた。2020年11月21日にTOTOは若いアーティスト達と新たなラインナップで再始動、世界に向けて一夜限りのストリーミング・ライヴ・イベント「With A Little Help From My Friends」を開催した。メンバーは、ベースのジョン・ピアース(ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース)、ドラムスのロバート・スパット・シーライト(ゴースト・ノート、スナーキー・パピー)、キーボードとバック・ヴォーカルのスティーヴ・マッジョーラ(ロバート・ジョン&ザ・レック)。また、キーボードのドミニク・エグゼヴィア・タプリン(プリンス・バンド、ゴースト・ノート)、マルチ・プレイヤー兼ヴォーカルのウォーレン・ハム(リンゴ・スター・オールスター・バンド)も引き続きアンサンブルの一角を担った。この時11曲をプレイし、デヴィッド・ペイチは最後の2曲のみ参加した。TOTOの今後の活動についてスティーヴ・ルカサーは、「ライヴとアルバムによって俺たちのレガシーは育まれ、音楽は生き続けてきた。それを俺が辞めることは決してないよ」と語っている。また、ジョセフ・ウイリアムズは、「最高のミュージシャンとシンガーが集まったバンドが、あらゆる種類のクールな曲を自作してプレイするんだ。それがTOTOの出発点であり、この先も同じように続いていく」と語っている。彼らは今後、「Dogs Of Oz」世界ツアーの開催を計画している。2020年2月、ルカサーは新作『I Found The Sun Again』、ジョセフは新作『Denizen Tenant』と、それぞれのソロ・アルバムを同時リリースした。これは二人が新生TOTOを牽引する「TOTOのスピンオフ」的作品となっている。スティーヴ・ルカサーは「二つのアルバムをシャッフルして聴けば、TOTOのニュー・アルバムに近い形になると思うよ」とコメントしている。

TOTO(トト)のメンバー

David Paich (デヴィッド・ペイチ /p/vo )

1954年6月25日、ジャズ・ピアニスト/編曲家のマーティ・ペイチの息子として、ロサンゼルスに生まれた。本名はデヴィッド・フランク・ペイチ。
1970年代前半よりスタジオ・ミュージシャンとして活動し初期の仕事としてはジャクソン・ブラウン『フォー・エヴリマン』(1973年)などの作品への参加が知られる。
1976年、ボズ・スキャッグスのアルバム『シルク・ディグリーズ』でキーボード演奏と作曲に貢献し、ペイチとスキャッグスが共作した「ロウダウン」でグラミー賞を受賞した。そして、『シルク・ディグリーズ』で共演したスタジオ・ミュージシャンを中心にTOTOを結成し1978年にデビュー。ドラムのジェフ・ポーカロとは高校の同級生である。
TOTOは「ジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチを中心に結成」と表現されることが多いなど、事実上ジェフと共に中心人物として活動してきた。実際、初期から中期にかけての代表曲、ヒット曲の多くは彼の単独作曲あるいは中心となって作曲された曲である。凄腕スタジオミュージシャン達が集まって実際にバンドを結成しようと思ったのも、デヴィッド・ペイチという曲作りができる「頭脳」がいたからである。自身がメインボーカルを務めた「Africa」は全米1位という快挙を遂げており、現在でも最もよく知られる楽曲の一つである。また、TOTOの活動と並行してセッション・ミュージシャンとしての活動も継続し、マイケル・ジャクソン『スリラー』(1982年)を含む、多くのアルバムやツアーに参加した。更に、ペイチは1989年の映画『旅する女 シャーリー・バレンタイン』の主題歌「The Girl Who Used to Be Me」の編曲を担当し、同曲はアカデミー歌曲賞にノミネートされた。2003年半ばより、TOTOのツアーには参加しなくなったが、レコーディング・メンバーとしては2008年にTOTOが解散するまで籍を置き、2008年3月にボズ・スキャッグスとのジョイントで行われた日本公演には参加した。2010年の再結成以降はルカサー、スティーブ・ポーカロ、ジョセフの4人体制でバンドを継続、健康上の理由でツアーを欠席することは多くなったが、今なおTOTOのメンバーであり続けている。

Steve Lukather(スティーヴ・ルカサー /g/vo)

1957年10月21日、カリフォルニア州サンフェルナンドバレー生まれ。本名スティーヴン・リー・ルカサー。
高校の先輩であるジェフ・ポーカロの手引きで音楽業界に入ったルカサーは、ボズ・スキャッグス、スティーリー・ダンなど大物のプロジェクトの常連になる。既にスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた、ジェフ・ポーカロ、デヴィッド・ペイチらと、1977年にTOTOを結成。キーボードのスティーブ・ポーカロは高校の同級生。ルカサーが「世界の五指に入る」と絶賛するセッションギタリスト、マイケル・ランドウは同じ高校の一学年後輩である。ヴォーカリストとしての実力も高く、TOTOでは多くの曲でヴォーカルを披露している。TOTOでの活動を中心に、スタジオミュージシャンとしてのキャリアも続け、関わったアルバムは1,500枚とも言われている。ジャズやロックを中心に、カントリー、ブルースなどあらゆるジャンルをこなす。ギタリストとしてはマイケル・ジャクソンやクインシー・ジョーンズ、ボズ・スキャッグス、シカゴ、エリック・クラプトン、矢沢永吉、マイルス・デイビス、ヴァン・ヘイレン、ジェフ・ベック、アレサ・フランクリン、チープ・トリック、等のセッションに参加。特にマイケル・ジャクソンの「BEAT IT」のギターリフはあまりにも有名。2000年以降はルカサーが中心となってTOTOを牽引するも、2008年に活動を一時休止。2010年、難病を患うマイク・ポーカロのチャリティーとしてコンサートを再開する。再結成後は健康上の理由で休止の多いデヴィッド・ペイチに代わって、実質的なリーダーとしてTOTOを牽引している。
ビートルズに憧れて7歳でギターを手にしたルカサー少年は、やがてマイケルジャクソンのスリラーのレコーディングで、憧れのポールマッカートニーとの共演を果たし、ジェフポーカロの追悼公演ではジョージハリソンと共演し、2012年にはリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加し、以降もツアーメンバーとして籍を置く。

Steve Porcaro(スティーヴ・ポーカロ /key/vo )

1957年9月2日生まれ、本名スティーブン・マックスウェル・ポーカロ(Steven Maxwell Porcaro)キーボーディストでTOTOの結成メンバー。ポーカロ3兄弟の3男。スティーブ・ルカサーとはハイスクールの同級生である。TOTOには2人のキーボーディスト(スティーブ・ポーカロとデヴィッド・ペイチ)がいるが、ペイチがピアノを中心としたメロディーパートを担当するのに対し、スティーブはシンセサイザーを駆使して、スペーシーと形容される空間的な広がりを持たせる音色や、きらびやかな音色、またはTOTOホーンと呼ばれるホーン・セクションを担当し、うまく住み分けがされていた。
マイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」の作曲者としてよく知られており、TOTOでも楽曲作りや、リードボーカルを担当することもある。1986年の6作目のアルバム『ファーレンハイト』まで正式メンバーとして在籍していたが、同作を最後に脱退。一説によると、他のメンバー達皆それぞれが一流の凄腕ミュージシャンである為、その場で一発で曲を作ってしまうのに対し、どちらかと言うとスティーブは家に持ち帰ってまでじっくりと音楽を作り上げたいタイプであった為、スタンスの差も一因であったとされる。しかし以降はツアーやライブには参加しないものの、セッション・ミュージシャンという形でTOTOの作品ほぼすべてに参加を続けており、単にメンバークレジットから名前が外れただけの状態とも言うことができる。TOTOを脱退した後も他のバンドやミュージシャンとのセッション(イエスの『オープン・ユア・アイズ』など)や、映画音楽を手がけるなど、音楽家として活動を続ける。スティーヴ・ルカサーからは正式メンバー復帰を熱望されており、2010年には、兄であるマイク・ポーカロが発症したALS(筋萎縮性側索硬化症)の支援と応援のためのTOTO期間限定再結成ツアーにペイチ、ルカサーと共に参加。実質的にTOTOに復帰した。以後、TOTOとしての活動にメンバーとして参加している。

Joseph Williams(ジョセフ・ウィリアムズ /vo )

1960年9月1日、映画音楽作曲家で、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズやスティーヴン・スピルバーグの作品等で有名なジョン・ウィリアムズの次男として生まれる。母親は、1950年代の歌手、女優のバーバラ・ルイック。兄はドラマー、ピアニストのマーク・T・ウイリアムズ。
TOTOの3代目メインヴォーカリスト。TOTO加入前は、1980年代前半頃から父ジョン・ウィリアムズ監督のサウンドトラックに参加したり、作曲家としてアーティストや映画に多く楽曲を提供していた。1982年、アルバム『ジョセフ・ウィリアムズ』でソロデビューする。このアルバムは日本のAORマニアの間でも評価が高い。1985年には映画『グーニーズ』のサントラに参加。その後ファーギー・フレデリクセンの脱退を受け新しいシンガーを探していたジェフ・ポーカロからTOTOのオーディションに誘われる。最終選考には、後にMr.Bigを結成するエリック・マーティンが残っていたが、最終的にジョセフが選ばれた。1986年TOTOに正式加入し、同年にアルバム『ファーレンハイト』、1988年には『ザ・セブンス・ワン〜第7の剣〜』を発表する。TOTOでの活動後半にはドラッグにより喉を壊しジェフ・ポーカロより解雇を言い渡される。しかし主要メンバー達とは元々地元の仲間である為友好的な関係を維持し、脱退後も楽曲提供やゲスト・ボーカルとして頻繁にバンドに参加し、またスペシャル・ゲストとしてステージに登場することも多かった。TOTO脱退後は映画音楽や他アーティストへの楽曲提供といった作曲家としての活動、またアーティストのバック・ボーカルやBGM用楽曲のハーモニー歌唱、映画音楽での歌唱などの活躍を続けた。1990年にはオムニバス・アルバム『TATSURO SONGS FROM L.A.』に参加。山下達郎楽曲をカヴァーし、第1弾では「クリスマス・イブ」、第2弾アルバムでは「GET BACK IN LOVE」等を歌った。
2010年、TOTOのメンバーで盟友のマイク・ポーカロが冒されている難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)支援のためのTOTO再結成でメインボーカリストとして復帰。
2018年にはTOTOはデビュー40周年を迎えたが、デヴィッド・ペイチ、スティーブ・ルカサー、スティーブ・ポーカロの4人となったTOTOの屋台骨を支えている。60歳を超えてもなお、以前よりもパワフルなハイトーンボイスを披露している。スティーヴ・ルカサーは「(歴代シンガーが多数いる中で)TOTOのボーカリストとして本当にふさわしかったのはボビー以外ではジョセフだけだよ」と語っている。

TOTO(トト)の元メンバー

Jeff Porcaro(ジェフ・ポーカロ /dr)

20世紀が生んだ最高のドラマーの一人。「西のポーカロ、東の(スティーヴ)ガッド」と言われるほど、当時のアメリカ音楽シーンを牽引したドラマーである。
本名ジェフリー・トーマス・ポーカロ(Jeffrey Thomas Porcaro、1954年4月1日 - 1992年8月5日)実質的なTOTOの元リーダー。コネチカット州ハートフォード出身のイタリア系アメリカ人。父はジャズ・ドラマー、パーカッション奏者として著名なジョー・ポーカロ(1930〜2020)。同じくTOTOのメンバーのマイク・ポーカロとスティーヴ・ポーカロは実弟。7歳から父の教えでドラムを習い、高校時代には同じハイスクールに通っていたデヴィッド・ペイチとバンドを結成する。1970年頃からセッションミュージシャンとして活動を開始、スティーリー・ダンのツアーとレコーディングに参加したのをきっかけに注目を浴び、幅広い演奏スタイルでその実力を認められ、一躍売れっ子ドラマーとなった。約20年に及ぶ彼のキャリアのうちで、関わったアルバムは500枚以上。その中にはマイケルジャクソンの『スリラー』をはじめ、数々の名盤も含まれる。1977年、共に売れっ子セッション・ミュージシャンとして活躍していたルカサー、デビッド・ペイチ、弟のスティーブらとTOTOを結成。商業的な大成功により、ポーカロはその名声を一層高めた。彼のプレイの凄さはTOTOでの活動に留まらず、むしろ外部でのセッションに名演が多い。80年代は矢沢永吉、竹内まりや、尾崎亜美、葛城ユキ、Cher、河合奈保子等、日本のミュージシャンが積極的にLAに渡った時期であり、揃ってジェフを尋ねた。ジェフがこの頃の日本のミュージックシーンに与えた影響は計り知れない。彼は一度見ただけですぐに楽譜を記憶してしまうと言うフォトグラフィックメモリーの持ち主で、だからこそこれだけ多くのセッションをこなすことが出来た。TOTOでの活動と並行して、年に20~40程のアーティストの作品でプレイすると言う驚異的な仕事量をこなす、まさに引っ張りだこのドラマーだった。同じくセッションミュージシャンとして忙しくしていたギターのスティーブ・ルカサーは「ずっと彼とスタジオで仕事をしていたので、メトロノームを使う必要がなかった」と語っている。彼のドラムスタイルは「ポーカロシャッフル」と呼ばれ、正確なリズムとシャープなドラミングが特徴だが、シャープさの中にも彼独特の「揺れ」があり、それが打ち込みでは決して出すことの出来ないグルーヴを生み出している。彼はグルーヴを生み出す事の出来る数少ないドラマーであった。
1992年8月5日、自宅の庭で殺虫剤を散布後にアレルギーで心臓発作を起こし急死。38歳だった。

Bobby Kimball(ボビー・キンボール /vo )

1947年3月29日テキサス生まれ、ルイジアナ育ち。本名ロバート・トロイ・キンボール(Robert Troy Kimball)TOTOの初代ボーカリスト。
1970年代から地元ルイジアナ州ニューオーリンズの様々なバンドのボーカリストを務めた。その中には、後にLe RouxとなるThe Levee Bandが含まれていた。1976年、S.S.フールズに加入、アルバム1枚を発表したのち解散。1977年、キンボールはルイジアナを去り、ロサンゼルスに移住、そこでTOTOのオーディションを受け結成メンバーに加わる。その時のオーディションで歌った曲が、自身作の「You are the Flower」で、デビュー・アルバム『宇宙の騎士』にも収録された。TOTOではキンボール以外にペイチ、ルカサー、スティーブと、曲ごとにメインボーカルを変えており、キンボールは高音パートを担当した。TOTOではデビューアルバムから1982年にグラミー賞を獲得した『TOTO IV〜聖なる剣〜』まで4枚のアルバムに参加。続く1984年の5枚目のアルバム『アイソレーション』制作中にドラッグと私的な問題でメンバーと衝突を起こしTOTOから脱退した。制作中まではメンバーだったため、『アイソレーション』には「Lion」など彼がクレジットされた楽曲も存在している。TOTO脱退後、キンボールはドイツに移住、セッションシンガーとして様々なアーティストのバックボーカルを務めた。1989年から1990年の短い期間、TOTO復帰が予定され、ベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』へ追加収録する新曲のレコーディングに参加したが、TOTOの所属レコード会社の意向で南アフリカ出身のシンガー、ジャン・ミシェル・バイロンが正式メンバーとして迎えられ、キンボールが録音した楽曲は収録されなかった。しかしバイロンはその後まもなく解雇された。1996年、オーケストラをバックにしたTOTOのカバーアルバム『Classic Toto Hits』をリリースした。その後もフランクフルトロックオーケストラと共に3枚のアルバムを出している。1998年、TOTOは20周年を迎え、それを記念したアルバム『TOTO XX』のリリースに合わせ、キンボールは歴代メンバーと共にステージに立った。このアルバムには前述の『グレイテスト・ヒッツ』のためにレコーディングされた楽曲も収録された。この頃からキンボールかジョセフ・ウイリアムのどちらかがTOTOに復帰するのではないかとの噂が立つが、最終的にキンボールがTOTOの正式メンバーに復帰。1999年アルバム『マインドフィールド』を発表、1984年『アイソレーション』のアルバム制作途中で脱退して以来の15年ぶりのアルバム参加を果たした。2002年にはカバー・アルバム『スルー・ザ・ルッキング・グラス』をリリースした。2006年『フォーリング・イン・ビトゥイーン』を発表、しかし2007年末、2008年前半のツアーを持ってTOTOは無期限の活動停止を宣言。スティーヴ・ルカサーが「終了した」と発表し、7月TOTOは正式に解散した。
その後TOTOは2010年より、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒され闘病中のマイク・ポーカロへの応援ツアーとして一時的に再結成したが、これには3代目のジョセフが参加し、キンボールは参加しなかった。キンボールは元イエスのメンバーであるトニー・ケイ、ビリー・シャーウッドらとYOSOなるバンドを結成(バンド名は Yes + TOTO の捩り)し、ライブ活動とレコーディングを行なう。ライブではTOTOの曲も演奏されている。「私は離れていてもTOTOが大好きなので、今後誘いがあるなら喜んで参加する」と述べている。TOTOの歴代ボーカリストの中でも、ジョセフ・ウイリアムズと双璧をなす人気を博している。

David Hungate(デヴィッド・ハンゲイト /b)

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