king is gone〜マイルスデイビスに捧ぐ〜

マイルスデイビスといったらジャズの巨匠でしょう。
そのプレイは美しさを求め続けたものといっても過言ではありません。
天才マイルスデイビスのプレイは今もなお若いプレイヤーに影響を与え続けています。

美しさにこだわった男

マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III, 1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国のジャズトランペット奏者。アルバム『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』などで知られている。日本には彼を「ジャズの帝王」、「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶファンや評論家も多い。クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。

出典: ja.wikipedia.org

どのような人物かわかった上でどのような音楽をやっていたかを見てみましょう。

マイルスのトランペットのプレイのおおまかな特長としては、ミュートを(1940年代後半〜1950年前半に使用しているミュートは「カップ・ミュート」が主流で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使い、ビブラートをあまりかけず、速いパッセージや跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らないことがあげられる。また、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音がでる、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階を用いている。

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やはりとても美しいです。ゆっくり聞きたいですね。

変化する音楽性

1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと進展、ブームとなりつつあったフュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とはこの時期を指すことが多い。マイルスは次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年に発表された公式アルバムである『オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作であった。しかし、フュージョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。
1973年と1975年に来日。このころから健康状態も悪化、75年の大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる

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ファンキーです。

1980年代はポップ色を強め、85年に発表された『ユア・アンダー・ザ・アレスト』ではマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーなどの作品を取り上げた。
86年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップスミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。またプリンスなどにも接近しいくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲストとして一部参加している。また、TOTOの『ファーレンハイト』にもゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなどジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。
1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエバーをカバーした。さらに遺作『ドゥー・バップ』(1991年)ではヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎え、最後まで時代を見据えて活動した。

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確かにポップで跳ねた音楽です。
こうしてみるとどれだけ変化しているかよくわかります。

その人物

マイルスは、アメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。「白人によるアメリカ」に嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日かかると言ったが、俺なら2週間かかる」と喧伝していた。
また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「僕自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている。
しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた他、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時の主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人の層からは多くの批判を浴びせられたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」と豪語したと伝えられている。

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さすが帝王です。
いいモノづくりに人種は関係ない。そう聞くと日本もうかうかしてられません。

人間は成長しなきゃいけないし、前進していかなければならないんだ。

出典: www.meigennavi.net

この言葉通りマイルスは進化し続けました。
また、その過程でのちのグラミー賞を受賞するマーカスミラーなども発掘しています。
今までこんなに名声を持ちながら進化した男はまさにマイルスだけでしょう。
帝王の名に恥じない生き方でした。

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