何度読んでも泣ける…涙腺崩壊間違いなしの感動話まとめ

世界には、「なんて素晴らしい話なんだろう…」と思わずにはいられないような素敵なエピソードがたくさんあります。人の温かさだったり、親子間の絆の深さを感じられるような話を聞くと、つい涙腺が緩んできてしまいますよね。この記事では、そんな感動話についていくつかまとめました。どこかで聞いたことのあるような有名なエピソードも混じっているかもしれません。

【保護メール】

俺は今高3なんだけど、10月26日に父親が死んだ。
凄く尊敬できる素晴らしい父親だった。
だから死んだ時は母親も妹も泣きじゃくってた。

それから2ヶ月くらいたった最近は、まだ元の生活には戻れてないけど多少はみんな落ち着いてきてた。
そして今日、俺はなんとなく父親が母親にどんなメールを送っていたのかと思って、少し悪いと思いつつも、タンスの引き出しにしまってあった、今年の8月まで母親が使っていた携帯を手に取って、父親のメールを見た。

メールの内容は、恥ずかしがり屋な父親らしく、
「めしはいるか」だとか「何時もの時間に帰る」だとか「どこにいる」だとか、「?」もついていなくてすごいそっけないものだったので笑ってしまった。
どれも同じ内容ばっかりだなーとか思っててきとうに流していると、母親の携帯のメール一覧の一番下に、保護しているメールが一件だけあった。
それは去年か一昨年の8月3日の父親からのメールだった。

「今日も、1日がんばれ」

ただそれだけのメールだったし、8月3日がもうなんの日だったかは覚えていないんだけど、その短い文章に、照れ屋な父親の優しさが物凄く現れてて、そしてそれをもらって凄く嬉しかったのかそのメールを保護してある母親のことも考えたら、胸が熱くなって思わず泣いてしまった。

どうしてもこの気持ちを誰かに伝えたくて、だけど友達にわざわざ電話する内容でもないしって思って書いちゃった。

【ミッキー】

私と彼の前を目の不自由な夫婦(二人とも杖の様なものを持っていました。)が歩いていました。
キャストの方が付き添い丁寧に説明をしながら歩いていました。
そしてミッキーに会う部屋に入りその夫婦の方の番になりました。

キャストの方が、「ここがミッキーの耳ですよ~!」

と言うとミッキーがその夫婦の手を持って自分の耳に持っていきました。
夫婦は手をさぐりながらうなずいてとても嬉しそうでした。
ミッキーは他にも、鼻に手を持っていったり、たくさん夫婦を抱きしめて

キスをしていました。そしてドアの所まで夫婦を送りました。

そんな光景を見て、私は泣いてしまいました。
そして泣いている私の所にミッキーが来て頭をなでてくれました。

【とおしゃん】

今日、息子が俺を「とおしゃん」と呼んだ。
成長が遅れ気味かもしれないと言われていて、言葉も遅かったから、不覚にも息が出来なくなるくらい泣いた。

嫁か息子か選べと言われた時、最後まで諦めずに運に賭けてみようと言った時、実は内心楽観的だった。
医学は発達してるし。嫁の病気での致死率は何千人に一人だし。育たないかもと言われた息子は臨月まで何の問題もなく育った。

それでも息子の誕生日は嫁の命日になった。

嫁を選んでいればと考えない日はなかった。正直に言うと今でも時々考える。
でも、こう言う日は息子を選んだこともまた幸せなんだと、心の底から思う。
さあ、今度は、「母さん」って言葉を教えてやろう。
携帯から長文でごめんな。
酒入ってるし、浮かれすぎか。

【タスキ】

小さい頃、よく親父に連れられて街中を走ったものだった。
生まれた町は田舎だったので、交通量が少なく、
そして自然が多く、晴れた日にはとても気持ちのいい空気が漂っていた。

親父は若い頃に箱根駅伝に出たらしい。
だから走る事が大好きで、息子にもその走る楽しさを教えてあげたかったのだろう。
もともと無口だった親父も、走ってる時だけはずっと俺に声をかけつづけていた。
普段の無口な親父がなんとなく怖かった俺は、その時だけは親父が好きだった。
そしてお袋が作ったタスキを使って、駅伝ごっこをしてりしてた。
今思えば、親父はまだ青春時代に生きていたのだろう。
中学に入った俺は、当然陸上部に入部した。
レースでは結構いい成績で、部活内でもトップレベルだった。
毎回応援に来てくれる親父は、俺がいい記録を出した日には必ず酒を飲んでいた。
そして真っ赤な顔して上機嫌で、俺に毎回同じ事を言うんだ。
「お前と一緒に、箱根走りたかったなぁ」って。
高校にいっても陸上は続けた。
でも思うように記録は良くならず、さらに勉強についていけないのもあってか
俺はいつもイライラするようになった。
勉強の事には口を出さないくせに、陸上のことばかり気にしてくる親父の事を、
鬱陶しく感じてしまうようになるのに時間はかからなかった。
親父が期待してるのは知ってたから、余計に顔を見たくない気持ちだったのだろう。
反抗期、というものだったのかもしれない。

そんなある日、その日のレースもいい記録は出なかった。
理由はわかっていた。
数日前に定期テストの追試のために、勉強を夜遅くまでしていたから体調を崩していたからだ。
一体自分は何をやっているのか、その時の俺は本当に悩んでいた。
そして家に帰って、部屋のベッドでひとり天井を眺めていると親父が入ってきた。
レースの事で何か言われるのかと、正直顔も見たくなかった。
親父は俺の横に座って、長い沈黙の後にこう言った。
「なぁ、お前何の為に走ってるんだ? そんな眉間にしわ寄せてさ。
父さんはな、お前が…」
親父がそこまで言いかけたところで俺の気持ちが爆発した。
「うるせえ!出て行けよ!!親父には俺の気持ちなんかわかんねえだろ!!
もう嫌なんだよ!親父の顔を気にしながら走るのは!
勉強だってしなきゃいけないんだ!親父の期待は俺にとって重いんだよ!!」
そう一気に言い切ってしまった俺を、親父は驚いた顔をして眺めていたが、
しばらくすると悲しそうな顔をしながら俺を思い切り殴った。
それからはむちゃくちゃだった。
お袋が止めに入るまで俺と親父は大喧嘩をした。
それ以来、親父と気まずくなってしまい、話す事もなくなり、
そしてすぐに俺は陸上部を退部し、走るのをやめた。
でも別に成績が良くなったわけでも、イライラが消えたわけでもなく、
毎日悶々としていた。

俺が部活をやめて2ヶ月くらいたった頃だ。
親父が急に倒れ、病院に運ばれた。
検査結果は末期の癌で、あと数ヶ月の命だろうということだった。
俺はショックを受けたが、まだ親父とのわだかまりがあり、
お袋に何度も誘われたが、見舞いにはなかなか行けずにいた。
家と仕事先と病院とを行き来するお袋を見て、苦労をかける親父に腹が立ちすらした。
そうしてる間に体力は徐々に落ちていって、
親父はいつ死んでもおかしくないほど弱ってきた。
そんなある朝、学校に行く前にお袋が思い出すように話し始めた。
俺が高校に入ってからも陸上を続けた事を親父はすごく喜んでいたらしい。
だから俺の記録がなかなか伸びなくて苦しんでる時、親父も同じように悩んでいたと。
そしていつか俺が走るの事を嫌いになってしまうんじゃないかって、
すごく心配してたらしい。
なのにあの日俺と喧嘩したあと、一切俺が走らなくなったのに、
なにも言わなくなったのだと。
「あの人も頑固だからねぇ」とお袋は付け足して朝食の片付けをし始めた。
俺はその話に何か引っかかるものを感じていた。
学校に行ってもずっと気になり、勉強どころではなかった。
そして休み時間、友達が「あの先生のせいで数学が嫌いになった」と言ったとき
俺は気付いてしまった。
そうだ、俺はあの日、親父に言ってしまった。
親父のせいで走るのが嫌いになったと、そう言ってしまったのだ。
誰よりも走るのが好きで、そして誰と走るよりも、俺と走る事が好きな親父に。
俺は授業そっちのけで病院に走った。
道路には雪がつもり、何度も転びそうになったけど、
もうしばらく走ってなくて心臓が破裂しそうなくらいバクバクいってたけど、
それでも俺は走った。
走ってる間、あの日俺を殴る前に見せた悲しそうな親父の顔が何度も頭に浮かんだ。
病室に行くと、変わり果てた親父がいた。
ガリガリに痩せて、身体からはいくつかチューブがでて、
大きく胸を動かしながら、苦しそうに息をしていた。
走ってぜぇぜぇいってる俺を見つけた親父は、
「走ってきたのか」
と消えるような声でいった。
うなずく俺に、親父が「そうか」と言いながらベッドから出した手には
ぼろくさい布が握られていて、それを俺の方に突き出し
俺の手にぼろくさい布を渡してきた。
それは小さい頃のあのタスキだった。
「なぁ、走るのは…楽しいだろ」親父は笑いながら言った。

その後すぐに親父の容態は急変して、そしてまもなく死んでしまった。
葬式なんかで慌しく物事に追われ、ようやく落ち着いて部屋に戻った時、
机の上に置きっぱなしにしていたタスキを見つけた。
親父の夢は俺と箱根を走る事だった。そして俺にタスキを渡す事だった。
もちろん一緒に箱根なんて走れない。それは親父が生きていても同じだ。
でも親父は確かに、俺にタスキを渡した。
なぜだか涙があふれて止まらなかった。
そうだ俺は確かに、タスキを受け取った。
冬が明けると俺はまた走り始めた。
小さい頃に親父と走ったあの道だ。
記憶にあるのと同じ木漏れ日、同じ草のにおい、同じ坂道。
ただ違うのは隣に親父がいない事。
今、俺は結婚して子どもが出来た。
いつかこの子に、このタスキを渡したいと思っている。

【おにぎり】

もう20年以上前の事でオンボロアパートで一人暮らしをしていた時の事だ
安月給で金は無かったが無いは無いなりに何とか喰ってはいけた。
隣の部屋には50代くらいのお父さんと小学2年生の女の子が暮らしていた
お父さんとは会えば挨拶する程度だったが娘の陽子ちゃんは仕事から帰ってくると
いつも共同スペースの洗濯場で洗濯をしていたので。会う機会も多く良く話はした

いつだったか、夕方「今日もお父さん遅いの?」「うん」などと会話をしてたら
俺の腹が「グーー」「あれ?お兄ちゃん、お腹空いてるの?」「まあね」
「ちょっと待ってて」と言うと部屋に入り、まもなくして 形の「いびつ」な
おにぎりを持ってきてくれた。味も何も無いおにぎりだったけど俺は「ありがと」
と言って、たいらげた。

それから彼女と会わない日が続いた。どうしたのかな?と思う程度で気にはしなかった
ある日、仕事から帰ると救急車が止まっていた。何だ何だと覗いてみる
「何かあったんですか?」駆けつけてた大家さんに聞く。「無理心中だよ」
「まいったよ、よそで死んでくれれば良いのに」と吐き捨てるように言う
やがて救急隊が担架を運んでくる。顔までかけられた毛布がすでに死んでいるのを物語る
あれ?担架に納まる身体が小さい。子供?ま・さ・か…。

後から判った事だが、お父さんは病気がちで仕事もできず。ガスも水道も止められていたらしい
最後の電気が止められる時、事情を聞きに市役所の職員が大家さんと訪問して
事件が発覚したそうだ。食べる物も無く米どころか食品は何も無かったそうだ

「あれ?お兄ちゃん、お腹空いてるの?」その言葉が脳裏に浮かんでくる
あの時すでに食べる物はもう無かったんじゃないのだろうか?
たまたまお腹を空かしてた俺を、可愛そうと思い、あの小さな手で一生懸命おにぎりを
作ってくれたんじゃないだろうか?自分の食べる分も無いのに…。
自然に涙がこみ上げてきた。やるせなかった。
その後、間をおかず引越ししたが。今でもあのアパートの近くを通ると思いだす

【あの子が教えてくれたもの】

子供が外に遊びに行こうと玄関を開けたとたん、
みはからっていたのか猫は外に飛び出していってしまいました。
そして探して見つけ出した時にはあの子はかわりはてた姿になってしまった。
私はバスタオルにあの子をくるみその場で泣き崩れてしまった。
自転車で通りすぎる人、横を走る車、
みんなが止まり「どうしたの?大丈夫?」と声をかけてきてくれた。
でも、その声にも答えず私は声をあげてあの子を抱きかかえて泣いた。
まだ体があたたかったことが、悔しかった。

毎朝、あの子はきまった時間にパパを起こし、えさをねだるのが日課であった。
パパの眠い目をこすりながらも、おねだりするあの子にえさをあげてから朝の一服をする。
あの子が死んだ次の日の朝、パパはいつもの時間に起きてきた。
そして、ソファーに座りたばこに火をつけた。今日は足にまとわりついてくるあの子がいない。
パパの背中がさみしそうで、また涙がこみあげた。

あの子はいつも長男と一緒に二階に上がり長男のベットで一緒に寝ていた。
あの子が死んだ時、呆然としていた長男が、ベットで夜泣いていた。
私は声をかけてあげることができなかった。
親として悲しんでる子供をなぐさめてあげなければいけなかった。
でもその長男の姿を見た私はその場でうずくまって声を殺して泣き崩れてしまった。
食事の用意をしていても、掃除をしていても、涙が勝手にあふれてくる。
泣いている私に息子は、「次はどこ掃除する?手伝うよ」とやさしく声をかけてくれた。
「ママが隊長で、僕は副隊長になって掃除しようっ!」
泣きっぱなしでぶさいくになっている私は、
「隊長ばっかで部下がいないじゃん」とぐしゃぐしゃの顔で笑った。
あの子が死んでから初めて笑った。

くよくよしていたらいけないことを息子が教えてくれたようでなさけなかった。
今日で、もう泣くのは終わりにしよう。
あの子とのいっぱいの思い出を胸にしまい、今日からいつものママにもどるからね♪

「コロ」

うちにもコロという名前の雑種の犬がいました。
長い白と茶の毛がふわふわしてる犬でした。
私が学生の頃、学校から帰ってくる時間になると毎日、
通学路が見える場所に座って遠くから歩いて来る私を待っていてくれる利口な犬でした。
それから10年程たち、家族は引っ越さなければならなくなりました。
それは庭の狭い小さな家でしたが、もちろんコロも一緒です。
しかし遊ぶ庭が無く、17才という年令もあって
引っ越してから間もなくして、コロは足腰が弱り歩けなくなってしまいました。
しだいに目も白内障になり、耳も遠くなりました。
そして人間の認知症と同じでしょうか、朝晩の区別がつかず夜中に大声で吠えるようになりました。
狭い住宅地では苦情が来た事も一度や二度ではありませんでした。
しかし外でしか生活した事のない犬を狭い借家に上げるわけにもいかず、どうする事も出来ませんでし
た。
それから半年後の寒い冬の日、コロはひっそりと息を引き取りました。
18才の誕生日目前でした。いろんな気持ちが入り交じって、涙が止まりませんでした。
翌日焼き場に行きお焼香をし、最後のお別れをして火葬の厚いドアが閉められた時、
目に浮かんだのは、帰りを待っていてくれたあの姿。
待ち遠しくソワソワし、一点を見つめていたあの姿。急ぎ足で帰った通学路。
コロ本当に心からありがとう。安らかに。

「最後にホームラン打ってくるよ」

ある阪神の選手が引退を決意
引退試合には一打席だけ立たせてもらえることになった
愛する娘に「パパ頑張ってくるよ」と言うと
まだ幼いその娘は「パパはどうしていつもホームラン打たないの? 最後にパパのホームランが見たいよ」
と言った
その選手は所謂二番打者タイプでバントや流し打ちなど繋ぐバッティングを期待されていた選手だった
だからその娘は、ほとんど父親のホームランを見たことがなかった
それに気付いたその選手は「分かった。じゃあ最後はパパ、ホームラン打ってくるよ」
と娘に言い、試合に臨んだ

そして試合中、ランナー一塁の場面でその選手に打席が回ってきた
いつもより大きくバットを構える
相手投手も、ど真ん中にボールを投げる

そしてその選手は…………バットを構え、送りバントをした。

ランナーは二塁に進み、犠打の記録がつく
その選手は笑顔でヘルメットを掲げ、甲子園球場の声援に応えた
最後の最後まで自分のスタイルを貫いたその姿に、ファンも割れんばかりの拍手を返した

そして試合終了後、娘のもとによると、
その娘は約束を守らなかった父親に文句を言うこともなく
涙を溜めながら、笑顔でたった一言。

「パパ、お疲れ様、大好き」

「叶わなかった夢」

「おつかれさま、また明日ね」

アルバイトのKは翌日も普段通り16時に出勤してくるハズだった。私が出勤したら、明らかに妙な空気、慌ただしく電話している上司、沈痛な表情で仕込みをしているシェフ達……。

「今朝、Kが火事で亡くなった。。。」

原因はタバコの不始末でした。開業資金を貯める為、朝から晩までバイトを掛け持ち、朝目覚めの一服で亡くなりました。

酒、タバコ、そして競馬が大好きだった。
独立して店を構える為に、物件も決まった矢先だった。
いつも好きな焼酎を飲みながら、夢を語り、彼の話に周りは半信半疑だったけど、熱く語る夢をひそかに応援してた。
ちょっと変わり者だったけど、不器用で嘘のつけない、純粋な人でした。

数日経ってから、その日Kは朝のアルバイトが休みだった事を知りました。昼までゆっくり疲れを癒やせたはずなのに、いつもの早朝に目が覚め、いつものようにタバコに火を付けたんだと思います。

でも、朝休みだって知っていたら、
「おつかれさま、カウンターで飲んでいく?」
って言えたかもしれない。お酒を飲んで、ぐっすり寝たら、早朝目が覚めなかったかもしれない。

そう考えずにはいられませんでした。

彼の夢は叶わなかった。
でも、私は灰皿に水を張って使い、それを周りに薦めています。

彼の死を無駄にしない。

それが同僚として、仲間として出来るせめてもの事だと思っています。

「救急箱」

僕は高校を卒業し救急箱のセールスをする。
好きで選んだ仕事ではなく不況で就職難と言う事もあり…
僕は人見知りもあり、なかなか仕事に馴染めず、ノルマをこなせずいた。
そんな頃、新規契約を集めに出て一人のお婆ちゃんと知り合う。
お婆ちゃんは別契約があるにも関わらず、僕と契約してくれた。
僕は、これを期にお婆ちゃんと月に一度会う。
と言っても、お婆ちゃんは一人暮らし薬など減る事もなく…ただの茶のみ友達となる。
毎月10日に行くと、お婆さんは満面の笑みで僕を迎えてくれる。
お婆さんは薬箱そっちのけで、饅頭に羊羹…
お昼時なら、ご飯までご馳走してくれた。
お婆さんは僕を孫にダブらせ…
僕は、お婆さんを自分の祖母のように感じ…
そんな関係も三年を過ぎ…お婆ちゃんが日増しに老いてゆく
僕は、そんなお婆さんを安じ家族に連絡するよう進めた…
しかし何ヶ月過ぎても一人暮らしは続いてた。
僕は出来る限りで、月1を月3に訪れる。
お婆ちゃん「今度は20日に来るね…」
僕が20日に来て見ると、お婆ちゃんはコタツに座椅子…、ほんのりと温かみを残し…
ちょっと遅かった…?待ちきれなかった…?もっと一緒に話したかったな。
茶のみ契約も今日で終わりだね。
おばあちゃん。

妻に「愛してる」と言ってみるスレ「ツーリング」

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/09(月) 14:14:47.38
長男がさ、バイクの免許取りたいと言い出したんだわ。
まあ、俺がバイク乗ってるから、いつかは言うと思ってた、まあ校則があって、大学行くまではお預けになったんだけど、その時にはお前とツーリングに行こう、って約束したんだよ。
そしたら、今まで俺の後ろ専門だった嫁が、自分で運転したいと言い出したんだわ。
我が子が運転してるのに自分はお荷物なのは嫌って思ったらしい。
突然教習所に通い始めて、いろいろあったが、免許取ってバイクを買った。
そしたら、思った以上に楽しかったようで、今じゃ俺以上にバイクに嵌ってる。
で、今年の夏にいろんなタイミングがバッチリ合ったので、二人で1週間ばかり北海道ツーリングに行ったのよ。
いやぁ、楽しかった、まあ、バイクで走るだけでも良いところだが、嫁と一緒に行ける何て、ちょっと前には想像出来なかったから、感激したよ。
帰りのフェリーで、日本海に沈む夕陽を見ながら、ココを思い出して、言うなら今だ、今しかない、と思ったよ。
「一緒に来てくれてありがとう。
楽しかったな、愛してるよ。」
シチュエーションが出来過ぎだから、効果あり過ぎて、嫁泣いちゃって、部屋に連れて帰るのが大変だったよ。
今まで考えてみたら、ストレートに言った事なかったから、余計びっくりさせちゃったな、来年もまた行こうな。

「日記」

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