何度読んでも泣ける…涙腺崩壊間違いなしの感動話まとめ

世界には、「なんて素晴らしい話なんだろう…」と思わずにはいられないような素敵なエピソードがたくさんあります。人の温かさだったり、親子間の絆の深さを感じられるような話を聞くと、つい涙腺が緩んできてしまいますよね。この記事では、そんな感動話についていくつかまとめました。どこかで聞いたことのあるような有名なエピソードも混じっているかもしれません。

嫁の日記を盗み読みしたら
いつも昼飯は、納豆ご飯やお茶漬けしか食べてないって分った。
友達とファミレスに行くのも月に一度と決めてるらしい。
俺に美味しい料理を食べさせたいからみたいな意味のことが
書いてあった。昼飯けずって夕飯にまわすって。
しかも、すげー明るく書いてあんの。
「今日は○ちゃん(俺)の好きな牡蠣を買うのだ~」とかさ。
俺の文句とかも書いてあるけど、文句書いてるくせに最後は俺を庇ったこと書いてるし。

マジで泣いた。もっと俺に甲斐性があれば昼から寿司でもなんでも食わせてやるんだけどな。
給料少ないのに専業で居てくれって言ったの俺だし。
金のことで責められたこと一度もないし(タバコ減らせとは言われるが)
節約も楽しいよーとか言ってたし。

盗み読みは良くないことだが、結婚してよかったってつくづく思った。
こんなに俺につくしてくれたのって親以外で初めてだし。
何もしてやれんから、浮気だけはしないと誓うよ。

ま、浮気しようにももてないからできない俺だがな。

「部長」

46 名前:名無しは20歳になってから 投稿日:02/12/05 13:39

そのときの部長はすっごく冷たくて、いつもインテリ独特のオーラを張り巡らせてる人だった。
飲みに誘っても来ることは無いし、忘年会なんかでも一人で淡々と飲むようなタイプで、
良く怒られていたこともあって俺はすごく苦手だった。

ある日のこと、部長の解雇を伝える社内メールが全員に届いた。
あのむかつく部長が居なくなる!!心の中でガッツポーズしたのは俺だけじゃなかったはずだ。

それから1週間後、部長の最後の出勤日。
退社のセレモニーが終わるとみんなそそくさと帰って行ったが
部長と俺だけは居残って仕事を片付けていた。
送別会の開催も自ら断った部長を苦々しく思っていると、珍しく専務から呼び出された。
しぶしぶ専務室に行くと、課長と専務が待ち構えていた。
俺はそこで始めて課長から「部長解雇の真相」を聞いた。
原因は俺だった。俺のミスの責任を全て部長がかぶってくれたらしい。
話を聞いてたまらなくなった俺は急いで部署に戻ったが、部長の姿はすでに無かった。
ふと自分の机の上を見ると、封の開いた買い置きのタバコ。すでに一本無くなってる。
横に添えられたメモにはこう書いてあった。

「これぐらいはいただいても良いはずだ」

俺にとっては無くなったその一本が、思い出の一本です。

「ビデオテープ」

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら…
病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね…』
10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。
そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、
就職決まった時、
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

「母の匂い」

その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に間違いない。先生はそう思った。

2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。後半の記録には「母親が死亡。
希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう。」

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いてる生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」。少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。

クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。後で開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに間違いない。
先生はその1滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」

6年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして今まで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから6年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。
十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことの感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と1行、書き添えられていた。

「オレオレ詐欺」

31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/11/29(日) 15:26:23.59 ID:0+DxyJwG0
ある日、叔母さんのうちに一本の電話がかかってきた。

「こちら警察のものですが、お宅の息子さんが事故を起して通行人に怪我をさせてしまいまして、
被害者の方から示談で良いとのことで、至急こちらの口座に振 り込んでいただきたいのです。ただいま、息子さんに代わりますね…」

叔母さんはすぐにそれが最近流行っているオレオレ詐欺だということに気が付いた。
なぜなら、息子は5年前に事故で亡くなっているからだ。
「母さん、俺だよ、事故起しちゃってさぁ、大変だよ。すぐに示談金振り込んでくれよ」

叔母さんはその声を聞いてハッとした。
死んだ息子の声とそっくりだったからだ。
まるで死んだ息子が蘇り、そこにいるような気がした。
叔母さんは電話を切ることが出来ず、
しばらく息子にそっくりなその電話の声に聞き入っていた。
そして再び警察官と名乗る男に代わった。

「そういうわけなので、どうかお母さん、示談金、お願いしますね…」
再び息子と名乗る男に代わった。
「母さん、ゴメンよ、助けてくれ」
そこで叔母さんはやっと真実を話した。

「あのね、私の息子は5年前に死んでるの。」
電話の声がパタリと止まった。気まずい空気が流れた。
しばらくの沈黙の後、電話が切られる前におばさんは言った。
「ちょっと待って、あなたの声、息子とそっくりなの。
電話切る前に、もう一言だけ、声を聞かせてもらえないかしら。」
しばらくして、電話の主はこう言い、電話を切った。

「母さん」

「大丈夫!この子の誕生日に死んだりしないから。」

845: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/19 01:47:35
明日(あ、もう今日だ)は息子の5回目の誕生日だ。
そしてその次の日は、嫁がこの世からいなくなった日。

妊娠して胎盤の位置が悪いとかで、大出血の恐れがあると言われたうちの嫁、
予定日近くになると入院して管理して、帝王出産する予定だったのが一ヶ月も早く陣痛が来て
呼び出された俺が病院に着いたときには、もう子宮の入り口とやらが開いてしまっていた。
当然出口付近にあった胎盤は剥がれて大出血。
それに酸素を送ってもらってる赤んぼが危ないと、緊急帝王切開に向かう途中、オロオロするしかない俺に嫁が言った。
「大丈夫、死なないから。自分の誕生日が母ちゃんの命日なんて、この子に申し訳なさすぎるもん」
その後、ちょっと小さかったけど元気な赤んぼが生まれ、胎盤が剥がれた場所から出血が止まらなかった嫁は
何とかショックを起こして意識がなくなった。
新しい血を入れてもそれ以上に出血が止まらない状況で、医者は青い顔で「今夜一晩もつかどうか」と俺に言った。
でも嫁は、息子の誕生日であるその日が終わるまでどうにか持ちこたえ、手術室に入る前に言った言葉通り
息子の誕生日と嫁の命日が一緒になることはなかった。

息子は母ちゃんのことを自慢に思ってる「すっごく頑張りやだったんだよ」って鼻の穴膨らませて自慢してるwww
俺も嫁んとこに行ったときには、嫁に「父ちゃんも結構やるじゃん」と言ってもらえるようにまだまだ頑張るつもり。
中途半端に時間が経って、誰かにこんな気持ちを話せるようなこともなくなったのでここにカキコ。
今日は会社の帰りにケーキを買って、明日はガーベラの花を買おうと思う。

「余命」

1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。

「大雨の日」

僕は格闘技をやってます。僕には彼女がいます。彼女は僕の身を心配して、ボロボロに
なって現れた僕をみて、『どうしてボロボロになってまで続けるの?』と問いかけられま
す。僕は答えません。
それはある大雨の日に僕が僕と約束したからだ、って。

僕は普通の大学生で、大した取り柄もなく、頭だって良くないし、お世辞にもカッコいい
なんて言える男じゃない。だからせめてアイツが、自分の彼氏は強いんだって自慢出来る
くらいの男になりたい。

友達に僕の事を馬鹿にされて喧嘩してしまい、その事を友人経由で知った僕が『ごめん』
と言って彼女を抱きしめると、彼女は泣き出してしまった。その時だった。どんなにボロ
ボロになってでも僕は強くなる事を、大雨の日に心に決めた。

こんな事でしか自慢にしてあげられなくてごめん。それと、支えてくれてありがとう。も
う少しだから、待っててくれ。体が完全に壊れる前には、きっと自慢できる男になってる
からさ。
その日まで僕はあの大雨の日を忘れない。

「父親として最高の愛をありがとう」

北海道湧(ゆう)別(べつ)町で暴風雪の中、凍死した同町の漁師、岡田幹男さん(53)は、長女の夏(なつ)音(ね)さん(9)の体の下に両手を回し、娘の体を守るような状態で発見されたことが4日、分かった。夏音さんは低体温症だが命に別条はない。父親が10時間以上も暴風雪から守り、体温で温めたことが娘の命を救った。

命を奪った今回の暴風雪は、強風によって雪が巻き上げられ視界が奪われる「ホワイトアウト」という現象が起きた可能性があるという。

岡田さんは3日朝、車から約300メートル離れた農業用倉庫前で、あおむけに横たわった夏音さんに覆いかぶさり、凍死しているのが見つかった。両手を夏音さんの体の下に回して抱きしめ、寒さから守るような状態だった。

捜査関係者によると、発見時に岡田さんはすでに意識がなく、岡田さんの下にいた夏音さんはうめき声を上げ、その後泣き出したという。地元消防団員は「体温を分け与えるようにかぶさっていた。夏音さんが苦しくないよう、呼吸する隙間を空けたままの姿勢だった」と話す。

岡田さんは、車の燃料がなくなり友人の家まで歩いて行くと知人に電話。その後、行方不明となり、知人が現場最寄りの地元消防に通報した。だが、隊員が出払っていて、さらに約7キロ離れた場所の他の救助隊が出動していた。

低体温症に詳しい苫小牧東病院(北海道苫小牧市)の船木上(かず)総(さ)副院長は「風雪から守られたこと、父親の体温に保温効果があったことが良かった。亡くなると体温は下がっていくので、もう少し救助が遅れたら娘も危険だった」と話す。

「一個上のおにいちゃん」

三歳ぐらいの時から、毎日のように遊んでくれた1コ上の兄ちゃんがいた。
成績優秀でスポーツ万能。しかも超優しい。
一人っ子の俺にとって、ほんとに兄ちゃんみたいな存在だった。
小4の時、真冬にサッカーしてて
林に入ったボールを取って戻ってきたら兄ちゃんが倒れてた。
慌てて抱き起こしたら吐いちゃって
その時は風邪ひいてるって言われてバイバイした。
しばらくして入院したって聞いて、病名も知らないのにお見舞いに行った。
退院できたけど学校には滅多に来なくなった。
外で遊んじゃいけないらしいんで、毎週土日は兄ちゃん家にくにおくんをやりに行った。

よく兄ちゃんのママンから「来てくれてありがとうね」って言われて
近所のオバチャンからは「○○君と遊んでるなんて偉いわね」って言われた。
言葉の意味が俺にはさっぱり分からなかった。
(はぁ?友達なんだから当たり前の事じゃないの?)
純粋にそう思えるぐらいバカなガキだった。
しばらくしたら絶対良くなって、また外で遊べるって思ってた。
親にも兄ちゃんのママンにも、そのうち良くなるって言われたし。
ある日、やけに兄ちゃん宅に抜け毛が多いなって事に気付いた。
身長も俺のほうが上になったし、外に出ないから肌真っ白だし、腕も超細いし。
その事を親に話したら、脳腫瘍っていう難しい病気なんだよって初めて聞かされた。
兄ちゃんがあんまり長くないって事、なんとなく分かった。
それから急に顔合わせるのが辛くなった。
遊びに行く機会が段々減っていって、最後は全く遊ばなくなった。
しばらくして、晩飯の時間のニュースで
「病気と闘う中学生」みたいな感じの特集に兄ちゃんが出てた。
見るのが嫌になってチャンネル変えた。親に思いっきりビンタされた。

結局会う事になったのは2年ぶり、兄ちゃんが棺の中に入った時だった。
兄ちゃんのママンから「何か言ってあげて」って、凄い優しい声で言われた。
俺が遊びに行かなくなってから、どんな気持ちで毎日家の中で過ごしてたんだろうって
そう考えたら胸が張り裂けそうになって、何も言葉にする事ができなかった。
結局自分の事しか考えて無かった。もっと沢山会ってあげればよかった。
本当にごめんね。謝っても謝り切れないけど
あれからは身近な人を、いつでも大切にしようって思えるようになったんだ。
今年も線香あげに行くよ。

消防士の親父

オレの親父は、消防士だった。
いつなにがあってもおかしくない仕事だから、よく母に
「オレに何かあっても、お前らが苦労しないようにはしてる」
ってそう言っていたのを覚えている。

親父はとてもあつい人間で、「情熱」って言葉が大好きだった。

口数の少ない親父が、久しぶりにオレたち息子に口を開いたかと思うと、「情熱だけは持ち続けろ」って「何かに本気になってみろ」ってそればっかりだった。

あの日、緊急要請が入って夜中の2時頃、親父は火事現場に向かっていった。
物音に起きて、部屋のドアを開けて見た親父の背中が、オレが親父を見る最後の機会になった。

親父は、火事で倒壊してきた建物の下敷きになって、病院に運ばれたものの、死んだ。

朝、母からそれを聞いた時、信じられなかった。
いつもみたいに、疲れた顔して帰ってきて、「母さんビール」なんて言う、そう思えて仕方なかった。

でも、灰だらけになって眠る親父の顔を見て、一生目覚めないその顔を見て、それが現実だとわかった。
悲しくて、涙が止まらなかった。

でも、同時に誇らしかった。
親父は灰だらけでボロボロで、もう目覚めなかったけれど、あの日の火事では、全員救出できたそうだった。
最後まで、「人を助けるっていう情熱」を失わなかった。

他人から見ればただの一介の消防士にすぎないだろうけど、オレにとっては、最後まで最高にかっこいい親父だった。
そんな親父の最後が誇らしくて、何故かさらに涙が溢れた。

あれから12年、オレは親父と同じ仕事に就いている。
何年も働いているが、今でも現場に向かう時は、怖い。
それでも、向かうことが出来るのは、オレがこの仕事に「情熱」を持っているからだ。
あの時、最後まで親父が持っていたように。

ありがとう、親父。
あんたの背中を見ていたから今、火の海に飛び込んでいける。
怖くても足を踏み出していける。
本当に、ありがとう。

誰一人死なせはしない。

「父に会いたい」

自分は父の顔を知らない。
自分が2歳の頃、交通事故で死んだそうだ。
母に「お父さんの名前、なんて―の?」とか
「お父さんの写真、見して!」とか
「お父さん、メガネかけてたの?」とか聞いても、黙って首を振るだけだった。

父がいない分、母は毎日朝早くから遅くまで仕事をしていた。
酷いときには、1週間母を見ない日だってあったのだ。

そんな時、面倒を見てくれたのが祖父母。
誕生日もクリスマスも、祖父母と一緒。
母とは土日に外出するくらいで、正直何を話したら良いのか全然わからなかった。

小学校のときは
「お母さんはカッコよくて、頭が良くて、仕事もすごい出来るんだ」
と、よく自慢していた。
でも、本当はそんな自慢なんていらなかった。
母とちゃんと話がしてみたかった。

そんな時、いつも思うのが死んだ父。
父がいたら、母とも毎日話せた。
父がいたら、母がこんなに仕事をすることもなかった。
父がいたら、父がいたら、父がいたら…
そんな思いがひたすら溢れた。
祖父母は大好きだ。文字の書き方からきゅうりの切り方まで全部教えてくれた。
それでも、やっぱり…
母は父のことを教えてくれないだろう。絶対に。

そんな小学生時代に終止符を打つように、母の再婚が持ち上がった。
小学校の卒業と同時に、県外に引っ越し、新しい父と母との3人で暮らすということだった。
実際、自分は本気で祖父母の所に残ることを考えた。
小学校の友達と離れるのは辛い。でも、それ以上に祖父母と離れるのが嫌だった。
それでも、母の涙に折れて引っ越すことになった。
その時はまだ知らなかった。
母のお腹には新しい父との子供がいた。

新しい父は妹が産まれるまでは優しかった。
しかし、妹が産まれた途端、がらりと変わってしまった。
理不尽な怒り方ばかりしかしない。
母の前では優しいのだ。なのに、母がいないと口調も変わる。
それは2年経った今でもちっとも変わらない。
どうしようもなく、辛くなっても話せる人がいなかった。

先週、祖父母を訪ねたときに今まで教えてくれなかった父の墓を聞いた。
全てを話すと、祖父母はこっちに引っ越して来いと言ってくれた。
でも、それは出来ない。
母にもその事実を話さなくてはいけない。母はきっと悲しむ。
今まで、母親らしいことをしてくれなかった母でも、母が悲しむのは見たくない。

そして今日。
祖父母から父の命日だと聞いていた日。
学校を休んで亡き父に会いに行きました。
父の墓は綺麗に掃除されていて、花も供えてありました。

「お父さん、自分はもうすぐ高校受験です。
今まで会いに来れなくてごめんなさい。
お父さんの顔は分からないけど、辛い時にはここに来ます。」

本当に父に会いたいと思った。

パパになったたかしへ

vtomotomov513
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