石田三成は戦国時代最大の敵役!その本当の姿とは?

石田三成は、戦国時代最大の敵役といわれています。その一番の理由は、やはり関ヶ原の戦いで、西軍の大将として徳川家康と激突したことが挙げられるでしょう。実はこの戦い以前から三成は様々な武将たちに嫌われており、その後も多くの歴史家たちから悪くいわれるというなんとも不憫な彼ですが、本当のところ一体どんな人物なのでしょうか。この記事でまとめました。

上杉家の家臣たちは家康軍を追撃し

家康を倒すことを景勝に進言しますが

「謙信公の義の教えをもってすれば

上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」

と景勝は追撃をさせなかった

長谷堂の戦い

上杉軍は山形城主最上義光を打つべく、山形攻めを開始

激しい戦闘が半月ほど続き

上杉軍も3回ほど総攻撃を仕掛けますが城は落ちません

関が原の合戦は西軍敗戦となり上杉軍も撤退を余儀なくされてしまいます

最上、伊達勢を中心にした東軍の猛攻の中

殿(しんがり)を勤めたのが前田慶次でした

慶次は三間柄(5.4m)の大槍を持って

群がりくる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き

戦っては退くという見事な戦いぶり

味方の将兵を誰一人傷つけなかったといわれています

大谷吉継

石田三成は友人の大谷吉継を館に招いて今後を相談します

その後、石田三成 は豊臣五奉行の増田長盛 や

豊臣家の重臣で 三成 の友人の小西行長

豊臣五大老 の大名家 「毛利家」の家臣の僧侶 安国寺恵瓊などと相談

徳川軍 を打倒する計画を立案します

「徳川討伐」 の挙兵を宣言

1600年7月、石田三成 はついに 「徳川討伐」 の挙兵を宣言

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