石田三成は超嫌われ者だった!3分でわかる人となりまとめ

関ヶ原の戦いの西軍大将として戦った石田三成。実は彼、同時代を生きた武将たちからことごとく嫌われていたってご存知でしたか?一体なぜそんなにも嫌われ者だったのか、この記事で彼の人となりを簡単にまとめました。後世の歴史家たちからも散々悪くいわれている三成ですが、もし彼が関ヶ原の戦いに勝っていたら…?歴史は動いていたかもしれませんね。

大和大納言秀長の死去後次々起きた利休自害、秀次処分の際の前野但馬自害や妻子の成敗などの出来事は、いずれもこれまでの秀吉には考えられない残虐で陰惨な行為でした。

共通項はこれらの人物がいずれも三成の目の上のたんこぶであったこと。無論これらの処分に秀吉の意志があったのは間違いないでしょうが、秀長の在世時と死去後であまりに対応が違い過ぎるのであれば、秀吉の側にいた人物、すなわち三成の関与を疑われても仕方ないでしょう。

出典: detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

自分に意見してくる者に対しては秀吉という絶対権力をうまく利用し成敗した可能性は否定できません。

しかし…

死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。

出典: kajipon.sakura.ne.jp

今回は官兵衛が主役なのでどうしても三成は悪役として描かれていますが、果たしてその真相は?武功をあげずに成り上がった三成は武闘派に嫌われていたのは間違いないでしょうが…。

③名刀 正宗

家康の次男 秀康に名刀正宗を贈る

秀康が『石田正宗』と名づける

兼ねてから深い親交があった家康の次男秀康にこの刀を贈っている。その刀をもらった秀康は、関ヶ原の戦い後、三成に敬意を評して、この刀を『石田正宗』と名を改めるようになった。

④もっと石田三成のことを知りたい

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