天下分け目の「関ヶ原の戦い」を3分で解説!どんな合戦だったの?

関ヶ原の戦いといえば、徳川家康と石田三成が大激戦を繰り広げたことで知られていますよね。でも、その戦いの内容がどんな様子だったのか、そもそもなぜ合戦が起こることになったのか知っている方はどれだけいらっしゃるでしょうか。そんな方のために、この記事で関ヶ原の戦いについて3分程度で読めるようにまとめました。

▼秀吉の死後

秀吉の死後に 豊臣家 で日本を運営することになったのは、「豊臣五大老」 と 「豊臣五奉行」 と呼ばれる人たちです。

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)

■五大老

徳川家康(関東に256万石)
前田利家(北陸地方・加賀など83万石)
前田利長 〈〃・〃〉 ※慶長4年(1599年)の父・利家死後
宇喜多秀家(中国地方・備前57万石)
上杉景勝(東北地方・会津120万石)
毛利輝元(中国地方に120万石)
小早川隆景(九州地方・筑前52万石)※慶長2年(1597年)病没

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■五奉行

主に司法担当 – 浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
主に行政担当 – 石田三成(近江佐和山19万石)
主に土木担当 – 増田長盛(大和郡山22万石)
主に財政担当 – 長束正家(近江水口5万石)
主に宗教担当 – 前田玄以(丹波亀山5万石)

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▼関が原の戦いが起こった原因は何か?

秀吉の後継ぎが幼年であったこと。

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関が原の戦い時には若干7歳

秀頼の年が若かった為、五大老、五奉行の制度が体制化された。

代わりに政治を見る重臣の中で、家康の実力が抜きんでていたこと。

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徳川家康(とくがわいえやす)

秀吉の政治に不満をもっていた諸将が、かつては秀吉と競争相手
だった家康に期待していたこと。

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そこで…

家康が天下を奪うと危惧した石田などの豊臣急進派が、家康打倒の策をめぐらせ、それに家康が乗っかったことで関ヶ原の合戦に向かいます。

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石田三成(いしだみつなり)

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■原因は…

石田三成 を中心とする 「官僚派(文治派)」 と、合戦で戦っている 「武断派」 の間で内部対立が発生していました。この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因。

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▼戦の勝敗の鍵は『小早川秀秋』

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原[4](岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。

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徳川家康の東軍と石田三成の西軍、合わせて20万が激突した。

西軍の総大将は毛利輝元。しかし、名前だけの大将である彼は、大阪城にいて出陣してこない…。そこで実際の指揮は、石田三成がとることになります。

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