石田三成は戦国時代最大の敵役!その本当の姿とは?
石田三成は、戦国時代最大の敵役といわれています。その一番の理由は、やはり関ヶ原の戦いで、西軍の大将として徳川家康と激突したことが挙げられるでしょう。実はこの戦い以前から三成は様々な武将たちに嫌われており、その後も多くの歴史家たちから悪くいわれるというなんとも不憫な彼ですが、本当のところ一体どんな人物なのでしょうか。この記事でまとめました。
「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
という風聞が広まっていました
1600年正月
豊臣家 の中で最も力を持つに至った徳川家康は
各地の大名家に年賀の挨拶を求めました
ところが、この挨拶を上杉家だけは断り
さらにそれを伝える使者であった家臣を謀反の疑いで処罰しようとします
そのためその家臣は 上杉家 を出奔(離脱)
家康 に 「上杉景勝(上杉家の当主)に謀反の気配があります」 と報告
上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており
合戦の準備をしているという話は流れていました
そのため 家康 は、これらの件について釈明を求める手紙を出すのですが・
上杉家 の重臣 「直江兼続」 の返信
直江状
すでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し
秀吉の家臣石田三成と懇意にあった直江兼続は、家康との対立を決意
上杉家 の軍備拡張を 徳川家康 が問いただして来ると
兼続は暗に家康こそ謀反を考えているのではないかという書状を送ります
堂々と挑戦状を叩き付けた有名な 「直江状」です
そしてこれが「関ヶ原の戦い」 の引き金になった
家康は会津征伐を決意
慶長5年(1600年)、ついに家康は会津征伐のために動き始めました
しかし、同年7月、石田三成が家康打倒の兵をあげ
あわてた家康は急遽兵を西に向かわせました
目次 - Contents
- 石田三成
- 様々な武将から嫌われていた
- 実は
- 豊臣秀吉 の死
- 「豊臣五奉行」と「豊臣五大老」
- 「徳川家康」 と 「石田三成」
- しかし、石田三成は嫌われ者だった
- 「官僚(政治家)」 だから
- 「関ヶ原の戦い」 の主要原因
- 「家康派」 と 「三成派」 に
- 前田利家の功績
- 前田利家 死去
- 石田三成 暗殺未遂事件
- 徳川家康 の屋敷に
- 石田三成 は謹慎処分に
- 大阪城
- 徳川家康 暗殺計画
- まつ(芳春院)
- 「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」
- 1600年正月
- 直江状
- 家康は会津征伐を決意
- 長谷堂の戦い
- 大谷吉継
- 「徳川討伐」 の挙兵を宣言
- 「関ヶ原の戦い」 の前日
- 島左近の提案
- そして決戦
- 東軍の勝利
- 敗戦の将 石田三成
- 「干し柿はたんの毒だから食わぬ」
- 石田 三成の名言・格言
- 「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
- 「戦死を好むのは匹夫である 将たる者は、命の危険を逃れて
- 何度も戦いを重ねることこそ本意とするものだ」
- 「残すは盗なり 使い過ごして借銭するは愚人なり」
- 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」