石田三成は超嫌われ者だった!3分でわかる人となりまとめ

関ヶ原の戦いの西軍大将として戦った石田三成。実は彼、同時代を生きた武将たちからことごとく嫌われていたってご存知でしたか?一体なぜそんなにも嫌われ者だったのか、この記事で彼の人となりを簡単にまとめました。後世の歴史家たちからも散々悪くいわれている三成ですが、もし彼が関ヶ原の戦いに勝っていたら…?歴史は動いていたかもしれませんね。

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①石田三成(いしだみつなり)簡単な生い立ち

石田三成は、近江国(滋賀県)の石田村の豪族であった石田正継の次男として1560年(永禄3年)に生まれる。幼名は佐吉。

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後の豊臣秀吉が、織田信長に許されて初めて長浜城を与えられた時に、秀吉の小姓として出仕した。

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天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される

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慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

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三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。

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うまく事前に逃げ切ります。

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関ヶ原の戦い

簡単に説明すると、関ヶ原の戦いは豊臣政権下での覇権争い。
石田三成に豊臣家を任せられるか!!と嫌った武将が東軍についたと解釈できます。

小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

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寝返りをためらう小早川秀秋の陣に徳川家康が大砲を放ったという話も伝えられている。

三成の兜

戦はわずか一日で惨敗…

享年41歳で斬首

徳川家康の命で六条河原で斬首された。

絶世の句は
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

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石田三成の頭蓋骨が存在している!

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頭蓋骨を元に顔を復元!

②石田三成は本当に嫌われ者なのか?

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